眠れない夜
ネイトエールで迎える初めての夜は、とても長く感じた。
ここ数日間は当たり前のように隣にスミレがいて、気づけば夜が明けていることが多かった。けれど、今日からは違う。スミレと一緒に寝るなど本来ありえないことであり、自分の部屋を与えられた以上、蓮は一人で眠らなくてはならなかった。
とはいえ元々、人間界にいた時から一人で寝ていたのだが──なぜだか落ち着かず、ソワソワして眠ることができない。
ああ、なんなんだよ、これ。
何度も布団に入って目を閉じたが、興奮状態の脳が鎮まることはなかった。壁一枚挟んだ隣にスミレの部屋があるというだけで、心がざわついていた。もちろん、子どもでもない自分が「眠れないから」という理由で彼女の部屋に押し掛けるわけにはいかない。蓮は必死に頭の中の想像を振り払った。
──だめだ。今、何時だ?
カーテンの隙間から見える外の景色はまだ真っ暗だ。こちらの世界に来てからというもの、時計を見ることもなく、時間の感覚が完全に狂っていた。人間界で言えば、深夜二時過ぎといったところだろうか。
眠くもないのに、酸素が足りないような気がして、小さなあくびをした。
「……ちょっとだけ、歩いてくるか」
そんな独り言をこぼしながら、蓮は布団を抜け出し、静かに部屋を出た。
城内の廊下は昼とはまったく違う顔をしていた。光も音もなく、しんと静まり返っている。誰にも会わないつもりだったが、曲がり角の先でひときわ存在感のある背中が見えた。
「……ホクトさん?」
「蓮、眠れなかったか?」
ホクトは鋭い目つきでこちらを振り返ったが、その声色は柔らかく、どこか心配しているようにも感じられた。その小さな優しさに、蓮の胸がほんの少しだけ温かくなる。
「すみません、まだ慣れないことだらけで緊張していて……」
「そうか。まだネイトエールに来て初日だ。体が強ばるのも、無理はない」
ホクトはわずかに表情を緩めた。その顔を見て、蓮もようやく肩の力を抜くことができた。
「──あの、聞いてもいいですか」
「ん?」
「架空界には……俺と同じように狭間を通って来た人間が、他にもいたりするんですか?」
ホクトはしばし黙ったまま空を仰ぎ、ゆっくりと答えを探すように口を開く。
「まだ不確定要素が多くて言えることは少ない。だが──お前みたいな人間が、こうして架空界に来たのは、これが初めてではない」
蓮はその言葉に、思わず息をのんだ。
ホクトの赤い瞳が、一瞬だけ遠くを見つめるように揺れる。光の宿らないその瞳の奥には、蓮には知り得ない“過去”が封じられているように見えた。
それはまるで、何かを深く背負っている人間だけが持つ陰りだった。
「……じゃあ、俺が元の世界に帰れる可能性も……?」
「あるかどうかは、まだ分からん。ただ──」
ホクトはポケットから小さな金属の方位磁針を取り出し、蓮に差し出した。
「これを持っていろ」
「これは?」
「何かあったときのためだ。それが、お前に最初に求める“協力”だ。簡単なことだろう?」
ホクトはニヤリと笑った。その笑みにどこか企みめいた雰囲気を感じて、蓮は少し戸惑った。
「……分かりました。これが何を意味するのかは分からないけど、持っておきます」
蓮は方位磁針を握りしめ、ズボンのポケットにしまった。その小さな金属の冷たい感触が、妙に重く感じられた。
「それでいい。それと、今日聞いたことは他の奴らには話すな。分かったな?」
「はい」と頷こうとしたその時だった。
ホクトがポケットから一本のタバコを取り出し、火をつけた。
夜の静寂の中に、カチッというライターの音がやけに大きく響く。
「……どうだ? 一本、付き合え」
ホクトが差し出してきたその煙草を、蓮は戸惑いながら見つめた。
未成年であること、吸ったことがないこと。頭の中には“NO”がいくつも浮かぶのに、どうしてか断れなかった。
「……あの、俺まだ高三の未成年で……」
「こっちの世界じゃ関係ない。ほら、受け取れ」
ホクトは半ば強引にタバコを蓮の手に持たせると、自分のライターで火をつけてくれた。
「吸ってみろ。それが“二つ目”の協力だ」
タバコを持つ手が震えた。
初めての体験に、不安と罪悪感、そして少しの興奮が入り混じっていた。優等生ぶっていた自分が、いま不良の真似事をしている気がして、どうしようもなく心臓がうるさかった。
「……っ」
おそるおそる吸い込む。
その瞬間、喉から肺にかけて焼けつくような苦しさが走った。
「っゴホッ、ゲホッ、ぐ、苦……!」
「初めはそんなもんだ」
ホクトの落ち着いた声とは裏腹に、蓮はむせ返りながら涙目になった。
「さ、最悪です……これ」
蓮はしばらく空咳をして、ようやく呼吸を整えると、うっすら笑った。
「……ホクトさんって、優しいのか怖いのか分かんないですね」
「どっちでもない。ただの厄介者さ」
ホクトは灰皿にタバコを押し付け、もう一度夜空を仰いだ。
蓮も同じように空を見上げる。星が瞬いている。
この世界の星は、どこか懐かしくもあり、知らないもののようにも見えた。
「……架空界に来てから、わけが分からないことだらけだけど──少しだけ、面白いかもしれない」
ホクトはその言葉に、目を細める。
静かな夜に、煙と星の匂いだけが残った。




