晩餐会
GWですね。
明日からの1週間は平日21時、祝日0時で投稿します!
ミネルが再び階段を降り始めた瞬間、止まっていた蓮の時間が動き出した。
胸いっぱいに空気を吸い込み、気持ちを整える。
ダイニングルームへと足を踏み入れた途端、ふわりと漂う香ばしい香りに、蓮の鼻がぴくりと動いた。
目に映ったのは、見たこともない色鮮やかな料理の数々。テーブルいっぱいに並べられたごちそうは、どれも光を受けてきらきらと輝いている。
……ああ、本当に、ここはもう、元の世界じゃないんだな。
そんな実感が、胸の奥にじわりと広がった。
思わずクンクンと鼻を鳴らしながら香りをかいだ、その瞬間――グーッ、とお腹が鳴る。
部屋に響く音に、蓮は慌ててお腹を押さえた。
(うわ……恥ずかしい)
必死に取り繕いながら、蓮は周囲を見渡す。
テーブルにはすでに、スミレやティナ、ホクトたちが座っていた。
彼らの周りには、豪華な衣装をまとった貴族たちがずらりと並び、場の空気はまるで格式高い晩餐会のように張り詰めている。
一瞬、場違いな気がして、蓮の足がすくんだ。
そんな蓮に気づいたのか、スミレがふわりと笑って、軽く手を振ってくれる。
その無邪気な笑顔に、蓮のこわばった胸の奥が、ほんの少しだけ緩んだ。
蓮はそっと椅子に腰を下ろすと、心の中で自分に言い聞かせた。
――これは、まだ始まりに過ぎない。
そして、自分が本当に、架空界へ来てしまったのだと。静かに、少しずつ、受け入れ始めていた。
「蓮、疲れは取れた? あなたの席はここよ」
スミレに言われるまま、彼女の隣の席へと座った。見るからに立派な王座がすぐ近くにあり、その威厳に少し緊張が走る。
「なんだか緊張しちゃいます」
蓮がそう言ったのも束の間、ダイニングルームに王冠を頭に乗せた長い髪の男が入ってきた。男が入ってきた途端、椅子に座っていた者たちが一斉に立ち上がり、頭を下げた。彼がネイトエールの王・トーカルだ。蓮も慌てて頭を下げた。
トーカルは咳払いをした後、口を開いた。
「頭を上げろ。皆の者、よくぞ集まってくれた。皆も知っている通り、城下町商店街でサタンの襲撃があった。不幸中の幸い、死亡者はおらんが、心に傷を負った者も多かろう。皆には民のサポートを頼みたい。それから、今後もサタンからの襲撃に備え、鍛錬を怠らないように」
トーカルはそう言うと、グラスを手に持って掲げた。他の者も、トーカルに続いてグラスを掲げる。蓮も見よう見まねにグラスを掲げた。
「ネイトエールの平和を願って、忠誠を誓え。乾杯」
乾杯の音が響き渡った。夕食の時間が始まったのだ。蓮はふぅと一息ついた後、料理に目を向けた。
周囲が談笑を始め、和やかな雰囲気に包まれる中、蓮も自然と食べる準備を整えた。「何から食べよう……」と、目の前の料理に心を奪われつつ、少し迷った。
そのとき、王座のすぐそばに座るホクトが言った。
「蓮、王に挨拶をしろ」
ビクリと、蓮は思わず王座の方を向いた。ホクトと同じ赤い髪が、シャングリラの光に照らされて炎のように燃えて見える。トーカルは蓮のことをじっと上から下まで見つめた後、口元にうっすらと笑みを浮かべた。笑い方がホクトに似ている。
「人間、名は確か蓮と言ったかな。ようこそ、異種族中立の王都ネイトエールに」
「峰野蓮です。よろしくお願いします」
「ホクトから話は聞いておる、騎士団ネイトの一員になったそうだな。期待しているぞ」
蓮はトーカルに頭を下げると、今度こそと机の上の料理に目を向けた。そして待ちきれず、蟹の足のような食べ物を掴むと、それを恐る恐る一口食べた。
「美味しいっ……! この蟹、すごく美味しいです!」
食感といい見た目といい、これは人間界でよく見る蟹だった。蟹が食卓に出てくるなんて、やはり貴族が日常で食べるものは格が違うな───蓮がそんな風に思っていると、スミレが不思議そうに言った。
「蟹? 蓮、これは大蜘蛛の足よ?」
「え、蜘蛛……?」
蜘蛛の足───。蓮の顔は真っ青になり、今にも胃の中に入っている蜘蛛を吐き出しそうになった。これは一体なんの罰ゲームなのだろうか? まさかここにきて蜘蛛を食べることになるとは。
「蟹にしてはチキンみたいな味がすると思ったんです! 蜘蛛だったなんて、早く言ってくださいよ!」
蓮のそんな様子を見て、ホクトは大笑いした。蓮にとって彼がそんな風に笑う姿を見るのはこれが初めてだった。
「ははっ、人間の口には合わないか? じゃあこれはどうだ? トロールの肉だ」
ホクトは皿に盛られた肉を蓮に勧めた。トロール───人間界では一種の魔物として様々なゲームに登場するのだが、架空界では食料として扱われているようだ。わかりやすく言うと、豚のようなものだ。
蓮がステーキになった分厚い肉にナイフを入れると、赤い肉汁がジュワッと広がった。トロールの肉を食べるのは初めてだった。これもまた、人間界では絶対に食べられないため貴重な体験だ。
蓮は肉にソースをかけると、それを勢いよく口に入れた。そしてよく噛んでゴクリと飲み込んだ。
「蓮、どうだ? うまいか?」
ホクトは興味津々に蓮に尋ねる。
「うん……美味しい!」
「そうか、それはよかった。沢山食べていいぞ、蜘蛛の足もまだまだあるからな」
「それはもういらないですっ!」
ティナとスミレがくすくす笑う。蓮はそれがとても楽しく、居心地がよく感じた。
ふと蓮は、食卓にタオの姿がないことに気づく。
「あの、そういえばタオさんは?」
「タオなら今部屋で休んでますよ。戦闘で疲れてるみたいで」
ティナはそう言うと、サラダをムシャムシャ食べ進める。蓮の頭には、狼の姿をしたタオがスミレを抱えて助ける様子がフラッシュバックしていた。サタンに遭遇したあの時、ホクトとタオが助けに来てくれなければ、スミレも蓮も今ここにはいなかっただろう。
「まあ、とは言ってもいつものことです。タオは一匹狼ですから、会食とかも好まないんですよ」
ティナは付け加えるようにそう言うと、小さく笑った。一匹狼のオオカミ、なんだか少しややこしいが、とにかくタオは狼の中の狼なのだと蓮は勝手にそう解釈するのだった。
蓮は横に座るスミレの方を見る。すると目が合い、いつも通りニコッと微笑む彼女がいた。
「蓮、このあと少し話せる?」
スミレが蓮の耳元でそう尋ねる。彼女の声を聞いて少し頬を赤らめたあと、蓮は頷いた。
「ちょっと! 秘密の約束ですか? 僕も混ぜて下さいよ」
兎の耳がピクリと動いた。兎の聴覚は優れているというが、どうやら本当のようだ。ティナは冷やかすように、机の下で蓮の足を蹴る。蓮は声をあげないように咄嗟に口元を抑えた後、ティナの足を蹴り返した。
「明日から一週間ほど外に出る。ティナ、それから蓮、その間悪さするなよ」
ホクトはじゃれ合うティナと蓮を見てそう言うと、酒を飲み干した。ティナはペコリと頭を下げた後、また蓮の足を蹴るのだった。
ティナの横に座るミネルはその様子を冷淡な目で眺めていたが、蓮がその視線に気づくことはなかった。
***
食事が終わると、蓮は風に当たりたくなり、屋上のテラスに出ていた。
架空界に来てまだ日も経っていないが、この数日間で色々な事があった気がした。それは蓮にとって慣れないことだらけではあるが、少し楽しくも感じていた。
しかし、楽しいことばかりではなく、不安や戸惑いも重なり、心が疲れる瞬間もあった。それでも、今日は少しだけ気持ちが軽くなったような気がしていた。
「蓮……?」
優しく、誰よりも落ち着く声。スミレの声は、まるで遠くから届いてくるかのように澄んでいて、心地よかった。この声で名前を呼ばれると、いつもドキッとする。まるで心の奥深くに触れるような、そんな感覚になる。
「あ、スミレさん。少し風に当たっていたんです。気持ちよくて」
「……そう? なにか考え事でもしているのかと思って、様子を見に来たのだけれど。気のせいだったかしら?」
スミレはそう言って蓮の顔を覗き込んだ。
───距離が近い。
蓮は赤くなった頬を誤魔化すように、空を見上げた。綺麗な星空だった。夜空に輝く無数の星が、まるで自分の心を見透かしているような気がして、少し不安にもなる。こんな風に、人間界でも綺麗な星空が見えるのだろうか。
「俺、小さい頃から父親がいなくて。だから、なんていうか、うまく言葉にできないんですけど、こういう日々も悪くないのかなって」
蓮には生まれた時から父親がいなかった。
「パパはどこかで生きている───」そんなことを未彩は言っていたが、蓮は一度も父親と会ったことがなかった。それだけではない、父親の顔や名前すら知らなかったのだ。
そのせいか、親戚からは勝手な噂ばかり立てられていた。子育てができなくなった男に逃げられたとか、酷い話では未彩が何人もの男を相手に水商売をしていたとまで言われていた───何しろ、未彩が蓮を産んだのは十八歳の時だったのだから、噂を立てられるのも仕方がなかったのだ。
「そうだったのね」
スミレは少し驚いたように目を開き、次に優しく笑みを浮かべた。
しかしすぐに表情を和らげると、蓮の頭をそっと撫でた。優しく、愛犬を撫でるように───その手の温かさに、蓮は少しだけ胸が締め付けられる思いがした。
「偉いじゃない、蓮。貴方のことだからきっと、沢山のことを我慢してきたのでしょう」
スミレにはなんでもお見通しだった。
彼女の言う通り、蓮は女手一つで育ててくれた母に迷惑をかけないように、色々な事を我慢してきたのだ。その中で他人に頼ることなく、ただ黙って頑張り続けるしかなかった。
「スミレさん、そんなに撫でられても……。俺は犬じゃないですよ」
「嫌だったらやめるわよ?」
スミレは意地悪だ。蓮が喜んでいることを知っておきながら、あえてそういう事を口にする。だが、彼女のその表情を見ていると、何も言えなくなる自分が情けなくもあった。
「嫌……じゃないですけど……」
蓮は恥ずかしそうにそう言いながら、自分の手を見つめた。その手には、どこか冷たさが残っているような気がした。もしこの手で彼女の頭を撫でたら、彼女は自分と同じように喜んでくれるのだろうか。心の中で何度も繰り返してみるが、やっぱりその勇気が出ない。
本当は今すぐにでも、彼女のサラサラな髪に触れたかった。彼女が喜ぶ顔が見たかった。
スミレの頭を撫でたい───それができたら、どれほどカッコイイ男になれるだろうか。
蓮は自分の勇気のなさに幻滅し、想いを隠すように手を引っ込めた。
「あの、スミレさん」
蓮が名前を呼ぶと、スミレはすぐに手を止めた。そして、蓮の頭を軽くチョンとつついた。
「ちょっ……! なんですか!」
蓮は目をパチパチとさせてスミレを見た。スミレは〝ふふっ〟と小さく笑うと、柔らかい声で言った。
「───スミレでいいわよ」
スミレの笑顔。
その笑顔を見ると、蓮は心の底から安心するのだ。まるでこの世で何も怖いものはないような気がして、少しだけ心が軽くなる。
「スミレ」
蓮は彼女の名前を呼んだ。少し照れくさそうな彼女の顔───その顔を、蓮は一生忘れないと心に誓ったのだった。
 




