ネイトエール城 前編
「それにしても、広いですね」
蓮の声が天井に反射して響いて聞こえた。まるで初めて都会にやってきた田舎者のように、蓮は辺りをキョロキョロと見渡していた。彼の目には、どこを見ても驚きが溢れている。ネイトエール城は縦にも横にも広く、まるで迷路のような造りだ。通り過ぎる廊下の壁には、なんて書いてあるのか分からないポスターや、音楽室にで見かけそうな肖像画がいくつも飾られていた。蓮は興味深そうにその一枚一枚を見上げ、足を止めることなく歩き続ける。
「何か面白いものでも見つけた?」
スミレの声が、静かな廊下に響く。その問いに、蓮は少し考え込んだ。目の前に貼られたポスターをじっと見つめながら、彼は不思議な気持ちを抱えていた。ここに来てから、まだ全てが理解できていない自分が少し恥ずかしくもあり、少しワクワクしてもいる。壁に並ぶ異国の文字の羅列が、まるで一つのパズルのように思えてきた。
「不思議だなと思って。ほら、俺とスミレさんは言語が同じでコミュニケーションが取れているのに、文字に起こすと全然違うじゃないですか」
蓮は壁にキッチリと貼られたポスターを指さしてそう言う。自分の言葉に少し照れくささを感じながらも、彼の目は真剣だった。その指先が示す先にある文字は、見慣れないものばかりで、ますますこの場所が異世界のように感じられる。
「あら、じゃあ蓮はあの文字、読めないの?」
スミレの声が、再び蓮を現実に引き戻す。蓮は少しだけ肩をすくめてから、あきらめたように答える。自分でもどうしてそんなに無力さを感じるのか分からないが、全てが新鮮すぎて、彼の中に湧き上がるのはただの好奇心だけではなかった。
「なんて書いてあるのかさっぱり」
その言葉を口にした時、蓮は少しの焦りを感じた。そして不安な気持ちもこみ上げる。けれどもスミレはそんな蓮を気にかける様子もなく、にっこりと笑顔を向けてくる。
「そう、じゃあ勉強をしないとね」
スミレの言葉には、どこか挑戦的な響きがあった。それは、蓮にとってただの冗談のようにも聞こえるが、何故かその一言で少し気が楽になった気がした。スミレとなら、少しずつでも学んでいけるかもしれないと、少し希望を持ってみたくなる。
「スミレさんが教えてくれるんですか?」
蓮は少し驚いたように、スミレを見上げた。彼女が自分に教えるなんて、思ってもいなかった。ただ、今のスミレの表情を見ていると、きっと彼女なら楽しんで教えてくれるだろうなと感じる。
「うーん、どうしましょ」
スミレは考え込むふりをしながら、蓮をからかうようにクスクスと笑った。その笑い声は、思わず蓮の心を温かくさせる。蓮もそれにつられて笑い、ふと肩の力が抜けるのを感じた。二人の間には、何とも言えない心地よい空気が流れ、少しずつ距離が縮まっていくようだった。
そのまま二人は、何気ない会話を交わしながら、ゆっくりと階段を降りていった。蓮の心の中にはまだ不安が残っていたが、少なくとも今は、この穏やかな時間を大切にしたいと感じていた。
「蓮、ここは城内のダイニングルーム。食事をとるところね」
広間に足を踏み入れると、蓮はその豪華さに目を奪われた。大きな広間の中に、ゴージャスな机と椅子がきっちりと並んでいた。上からは大きなシャンデリアが吊り下げられており、その煌めきが幻想的だ。まるでどこかのホテルの宴会場のようで、蓮はその圧倒的な空間に一瞬言葉を失った。
「へえ、さすが城に住む貴族様は違いますね」
部屋の真ん中に置かれた長い机の上には、真っ白なテーブルクロスが敷かれている。テーブルクロスの上には、飾りのような果物や木の実がいくつも皿に盛られており、どれも色鮮やかで美味しそうだ。今、丁度小腹がすいてきたところだった。蓮はお腹を抑えながら、これを食べていいのか迷っていると、
「食べますか?」
ふと、まるで空気のように柔らかい声が聞こえてきた。目の前の果物に夢中で気づかなかったが、よく見ると、机を囲う椅子に座り優雅に果物を食べている者が──いや、兎がいた。
「あ、えっと」
蓮は言葉を探しているうちに、横にいたスミレが口を開く。
「ティナ、休憩中?」
綺麗な白色の髪をしたティナは、コクリと頷くと蓮の方を見る。
「シェリー、彼は?」
「蓮よ、訳あって今一緒にいるの」
蓮はティナと目を合わせるとペコりとお辞儀をした。そしてティナの姿を目に映すと、じっとその姿を見つめる。
彼の白い髪に、ふわふわの耳と尻尾。もし女性だったなら、蓮は今頃惚れていたかもしれない。
「あの……僕の顔になにかついてます?」
ティナは不思議そうに首を傾げる。長い耳が横に揺れる。その仕草はまるで無邪気な子どものようで、蓮は少し照れくさい気持ちになる。
「あ、す……すみません!」
「いえ、大丈夫ですよ」
ティナはペコりとお辞儀をすると、蓮に握手を求めた。白い手袋をした五本指の手が、蓮の前に差し出される。その手のひらは、まるでぬいぐるみのように丸く、温かみを感じる。
「峰野蓮です。よろしくお願いします」
蓮はティナの手を握り、握手を交わした。手袋越しでも分かる、人間とは異なる柔らかさと、ほんのりとしたぬくもりが手のひらに残る。
「敬語でなくても大丈夫ですよ。分からない事があったらなんでも僕に聞いて下さいね」
ティナはそう言ってニッコリと笑う。その笑顔は、彼の着ている白いフリルシャツにぴったりと合い、どこか清潔感のある爽やかさを感じさせた。そして、丁寧な言葉遣いから、彼を紳士と呼ぶのにふさわしいと蓮は感じた。
「わかった。ありがとう、ティナ」
「それより、蓮とシェリーはこれからどこへ?」
ティナは片手に果物を持ちながら尋ねる。
「ホクト様のところへ話をしに行くのよ」
ティナはその言葉を聞くと、分かりやすく戸惑ったように動きを止める。まるで兎が死んだふりをするかのようなその姿は、少しだけ不安げな印象を与えた。
「どうかご無事で」
ティナはそれだけ言うと、果物をぱくりとかじった。
「ありがとう、きっと大丈夫よ。さあ、蓮、行くわよ」
蓮はこれから迫り来る恐怖がどんなものかも想像できないまま、ティナに軽くお辞儀をして、スミレのあとを再びついて行くのだった。スミレの足取りは力強く、蓮はその後ろを必死に追いながらも、胸の中で何か不安なものが膨らんでいくのを感じていた。
「スミレさん、これから会うホクトさんってそんなに怖い方なんでしょうか? 俺が最初に会った時はそんな印象はなかったのですが」
蓮が尋ねると、スミレは一瞬だけ苦笑を浮かべてから、少しだけ顔を引き締めて答える。
「ホクト様は王都ネイトエールの騎士団長で、王も認めた権力者よ。なんせホクト様は、王の息子だもの。彼に逆らう者は、王にも逆らうものとして追放されてもおかしくないわよ」
スミレはその言葉を発しながらも、強い決意を感じさせるように歩を進める。蓮はその言葉に、言葉にならない重みを感じて、少し緊張しながら後ろを歩く。
「まあ、けれど、話してみれば大丈夫よ」
スミレのその声が静かな廊下に響く。その声には、少しだけ蓮を安心させる力があるように思えた。しかし、歩を進めれば進めるほど、空気が重く、そして暗くなっていく気がした。
「蓮? ホクト様はきっと蓮のことを受け入れてくれるわ、私はそう信じてる」
その言葉に、蓮の足が勝手に止まった。意識して止まったわけではなく、まるで何かに引き止められるように、足が動かなくなったのだ。
その時、奥から響いてきた声に、蓮の心臓は一瞬で跳ね上がった。
「待ちくたびれたぞ、早く中に入れ」
重圧。空気が一気に冷たく、重くなるのを感じた。蓮は気づくと、目の前には自分よりもふた回りほど大きいホクトの姿があった。何も感じていなかったはずなのに、いつの間にそこに現れたのか。気配すら感じなかった。
初めて会った時とは違い、ホクトの目は冷ややかで、冷たく蓮を見下ろしていた。この感覚は、あの時、化け物・サタンに会った時に少しだけ似ていた。背筋が凍るような恐怖を感じる。
蓮は恐怖を感じながらも、スミレに引かれるようにホクトの部屋へと足を踏み入れた。
ガチャリと扉が閉まる音が響き、部屋からはタバコの煙とその染み付いた香りが漂ってきた。煙草の煙が、部屋の空気を一層重く感じさせる。
「……どうやって、こっちの世界に来た?」
ホクトの言葉は、まるで冷たい刃物のように蓮の胸に突き刺さった。その速度は一瞬で、蓮に考える暇すら与えない。
ホクトの声は感情が込められていない、機械的で冷徹なものだった。まるで決まった台詞を読んでいるようだ。
「気づいた時にはもう、ここにいたんです。まだ、何もかも分からないんです」
蓮はゆっくりと答えた。隣にスミレがいなければ、今の自分はもう膝をついているかもしれない。心臓が激しく鼓動していた。
ホクトは無言で、胸ポケットからタバコを取り出すと、軽く口にくわえ、火をつけた。煙が静かに立ち昇り、蓮の鼻をつく。タバコの匂いはまるで部屋全体に染み込んでいるかのようだ。蓮は思わず息を呑む。
「お前、架空説を知っているか?」
ホクトは煙をゆっくりと吐き出しながら、蓮に問いかける。目線は煙の中に消えていき、まるで彼の質問がただの形式であるかのように聞こえた。
架空説──人間界で古くから伝わる言い伝え。誰もが一度は耳にしたことがあるであろう伝説。
「知っています。架空界と人間界の間には狭間があって、それがある限り世界は交わらない──と。なのに、どうして俺は──」
言葉を続ける前に、蓮は一度息を呑む。
タバコの灰がホロホロと灰皿に落ち、静かな音が部屋の中に響いた。
「──狭間の歪み。それはどうしてか分からないが、ある日突然起こる現象だそうだ。お前が狭間を通れたのは、この歪みが原因だろう」
その言葉を聞いた瞬間、蓮はつい数日前、スミレと初めて出会った日のことを鮮明に思い出した。あの日、そしてその前後の出来事は、今でも頭の中で色あせることなく記憶に刻まれている。蓮の目の前に浮かぶ不気味で美しい光景が、まさに「狭間」の一部だったのだと感じる。
「あの日見た景色、経験した出来事が狭間だったのかは分かりません。でも、今も忘れない不思議な感覚は、まるで世界の狭間にいるような気がしました」
言葉にした瞬間、再び沈黙が部屋を支配する。ホクトは言葉を続けず、タバコを灰皿に押し付け、山積みになった吸殻が雪崩のように落ちていく。その音すらも冷たい。
「蓮、といったか。今日からお前は俺の管理下に置く。返事は、はい、分かったな?」
ホクトの表情がほんの少し緩む。蓮は、口の中に言葉が浮かんでも、すぐに喉を通ることができず、ゴクリと唾を飲み込む。目を見開きながら、小さく「はい」と返事をする。
その瞬間、ホクトは蓮の頭をくしゃっと撫でる。その手は、スミレのような優しさを感じるものではなく、むしろ荒く、大きく、傷だらけで無骨なものだった。その手が、蓮の前に差し出される。
「──ようこそ、騎士団ネイトへ」
その言葉は、まるで命じられるように蓮の耳に届く。だが、その時、蓮はまだこの言葉の意味を深く考えていなかった。この時の契約が、後に蓮の道を狂わせることになることなど、蓮には知る由もなかった。




