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狭間で俺が出会ったのは、妖精だった  作者: 紫羅乃もか
第1章 新たなる世界の始まり
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再びその手を 後編

 息を吸って吐く音だけが部屋に響いていた。蓮はその静けさに包まれながら、最初に口を開いた。


「スミレさんが生きていて本当によかった」


 握ったままの手から、ゆっくりと温かさを感じていく。まだ冷たい手だったが、確かにスミレの命がそこにあった。蓮の胸は熱くなるが、それをどう言葉にするかが分からなかった。

 スミレはその場で体を起こすと、蓮の目をじっと見つめた。


「蓮、心配をかけてごめんなさい。それから、ありがとう」


 スミレの表情が少しだけ柔らかくなる。それでも彼女の目からは、蓮には抱えきれないほどの不安や恐怖の大きな渦が感じられた。彼女の心の中にあるものが、どれほど重いか、蓮にはひしひしと伝わってきた。

 蓮はキュッと唇に力を入れたあと、再び口を開く。


「酷いじゃないですか。何もかも秘密にして」


 不貞腐れたように言葉を吐いた。それは優しさや心配からの言葉であり、心の中で彼女を守りたい一心から出たものだった。

 スミレは、少しだけ緊張が解けたように小さく笑うと、〝ごめんなさい〟と口にした。


「本当は、もっと状況が落ち着いたら話そうと思っていたの。だって、まだあなたは架空界に来たばかりでしょう。新しいことばかりじゃ疲れてしまうもの」


 スミレは、ふぅと小さく息を吐いた。その目には、少しの安心感が宿っていた。

 そして蓮の手を握ったまま続けて言った。


「黙っていてごめんなさい。シェリー、それが私のもう一つの名前よ」


 スミレは、蓮のことを見続けた。蓮の反応を伺うようにじっと。


「なんだか慣れないです。俺の中でのあなたは、スミレさんですから」


「ふふっ、好きに呼んでいいわよ」


 スミレはそう言って、トントンとベッドを叩く。

 蓮は一瞬ためらったが、静かに腰を下ろした。


 彼女の手が、そっと蓮の手に重なる。

 その手はまだ冷たいのに、心の奥底がじんわりと温まる気がした。


「スミ、いや、えっとシェリーさん。まず、一から確認なんですけど。商店街に出たあの化け物は一体」


 蓮の手に再び彼女の手が重なる。スミレの手はひんやりとしていたが、触れるたびに心地よい温かさが伝わってくる。滲み出る汗がベタベタして、彼女の手に着いてしまわないかと少し気にしながら、蓮は心の中で安堵を感じていた。


「端的に話すと、あの化け物はサタンと呼ばれる魔物よ。長い間、架空界で恐れられている魔の存在」


「あんなに恐ろしい存在が、架空界に、?」


 蓮はゴクリと唾を飲んだ。あの時の恐怖が今でも体に染みついている。今でも鮮明に覚えている、真っ黒な影のような化け物。もしもあの時、スミレや狼のタオ、そしてホクトが助けてくれなければ、蓮は死んでいたのだろう。フラッシュバックするように記憶が蘇る。そしてその光景を思い出す度、目を閉じて忘れようとした。あの時見たもの、起きたことが全て嘘であってほしかった。


「蓮、大丈夫?」


 ふと、視界にスミレの心配そうな顔が映り込む。その優しげな目が蓮を見つめ、心の中で小さく温かいものが広がる。


「泣いて、いるの?」


 スミレのその一言で、蓮は自分の目から涙が出ていることに気づいた。目の周りがジンジンとして、熱を帯びているのが分かった。涙が止まらない自分に、蓮は少し驚き、恥ずかしさを感じたが、それでもその感情は止まらなかった。


「すみません、スミレさん。俺、ちょっとどうしたらいいか分からなくて」


 一度泣き出すと、涙が止まらなかった。ポロポロと滴る涙を手で何度拭っても、視界は水溜まりの中にいるようにぼやぼや濁っていた。言葉にできなかった感情が溢れ出し、蓮はただ涙を流すことでその重さを少しでも軽くしようとしているかのようだった。


「怖かったわよね。きっと今も怖いわよね。大丈夫。大丈夫よ」


 スミレはいつものように蓮の頭を優しく撫でる。それはまるで、好きなだけ泣いていいと言われているかのようで、また涙が滴り落ちていった。スミレの手のひらの温もりが蓮の心にじんわりと染み込む。蓮はヒューと喉を震わせながら、体の中に溜まっていた言葉を吐く。


「俺、化け物を前にして、何も出来なくて。スミレさんが死んじゃうかもって、殺されるかもって思ったら、ほんとうに怖くなって。もう、家族や友達に会えないかもしれないのに、スミレさんまでいなくなっちゃったら俺、本当にどうすればいいのか、わかんなくて」


 スミレは静かにうんうんと頷き、蓮の言葉を受け止め続けた。彼女の目は優しく、そして力強く蓮を見守っていた。その視線が蓮をさらに安心させ、少しだけ胸の重さが軽くなった。


「スミレさん、俺、すごく臆病で情けないから、帰りたいんです。ずっと怖くて、でもバレないように必死で。人間界に帰れないのも分かってるのに、それでもずっと帰り道を探してて」


 吐けば吐くほど体が軽くなる感覚があった。誰にも吐けずに溜め込んでいた感情や言葉がどれほど溜まっていたのだろうか。ぎっしり文字が敷き詰められていた小説が白紙になるような、埃だらけの部屋が綺麗になったような、そんな感覚だった。


「蓮、目つぶって」


 唐突にそう言うスミレ。蓮は鼻をすすりながら、彼女の言う通りに目を閉じた。その刹那、蓮の顔が柔らかくて温かい何かに包まれる。スミレの存在が心地よく、優しく蓮を包み込んでいった。そっと息を吸うと、彼女の香りがふわりと広がり、安心感が胸を満たす。


「まだ、開けちゃだめよ。私がいいっていうまで、そのままでいて」


 蓮はぎゅっと目に力を入れて瞑ると、呼吸を整えるように落ち着いて深呼吸をした。全身に空気が行き渡り、今なら綿毛のように飛んでいってしまいそうだった。その時、スミレの優しい声が響き、蓮はその声だけを頼りに心を落ち着けていった。


「そう。そのままゆっくり、吸って、吐いて」


 言われるままに息を吸って吐く。体の力が抜けて自然体になってきたところに、彼女の指先が首筋に触れた。冷たくて、でも少し温かいそんな指先がツーっと滑るように蓮の首元をなぞった。彼女の指は、そのままゆっくりと頭まで到達した。蓮はくすぐったくなり、ピクピクと小さな痙攣を起こしながらも、彼女の手に誘導されて首を、そして頭を彼女の体に預ける。柔らかい感触の中に、ドクドク、ドクドク、と聞こえてくる心臓の音。この音は、彼女が生きている証の音だ。温かくて、安心する。

 蓮はゆっくりと腕を上げると、今目の前にいるであろうスミレの腰に手を回した。そしてその細い身体をぎゅっと抱き寄せた。彼女の存在が、自分にとってどれほど大きな意味を持つのかを、改めて実感する。


「スミレさん、もう少しだけ、あと少しだけでいいから、こうさせてください」


 蓮はスミレの胸元に顔を埋めた。彼女が息をする度に少し膨れる胸が、柔らかくて心地いい。目を開けたらこの時間が終わってしまう気がして、蓮はずっと目を閉じていた。そんな蓮を、スミレは何も言わずに頭を撫で続けるのだった。

 しばらくして涙が収まってから、蓮は名残惜しそうにスミレの体をそっと離した。それに答えるように、スミレも蓮の体をゆっくり離した。静かな時間が流れる中、スミレは優しく微笑みながら言った。


「もう目、開けていいわよ」


 スミレにそうは言われたものの、目を開けることに少し恥じらいを感じ、時間がかかった。


「ふふっ、イタズラしちゃうわよ」


 スミレのそんな声に、蓮は慌てて目を開ける。暗かった視界が急に明るくなり、目がピカピカする。蓮は何度も瞬きをしながら、目の前でくすくす笑うスミレの姿を見つめる。視界がまだ眩しくても、スミレの表情だけははっきり映って見えた。


「スミレさん、ありがとうございます」


 蓮が頭を下げて礼を伝えると、スミレは蓮に手を差し出して言う。


「お礼を言われるようなことはしてないわ。さあ、蓮。行きましょ」


 細いけれどたくましい、そんな手を蓮は握る。

 きっとこの先も彼女の手を何度だって握るのだろう。蓮はそんなことを思いながら、手汗だらけの手で彼女の手を離さないようにぎゅっと握った。スミレの手の温もりを感じながら、蓮は新たな一歩を踏み出す準備をした。

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