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狭間で俺が出会ったのは、妖精だった  作者: 紫羅乃もか
第7章 竜の背に託す未来
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鏡の間

 やがて二人は、神殿の奥深くへと進んでいった。

 回廊を抜けると、そこには広大な空間が広がっていた。


 天井はなく、代わりに水面が果てしなく広がっている。

 頭上なのか足元なのか、もはや感覚さえ曖昧になるほどに、空間は水の反射で満たされていた。

 鏡のように澄んだその水は、覗き込む者の姿を歪めながら映し出している。


「……なんだ……ここ」

 蓮が思わず声を漏らす。


 イゼナは静かに応えた。

「――鏡の間。セラティスの底に残された、真実を映す場所です」


 蓮が水面に視線を落とすと、そこに映る自分の顔にぞっとする。

 片方の頬に、淡く鱗のような模様が浮かび上がっていた。

 まばたきの合間にそれは消えたが、たしかに見えた。


「……やっぱり」

 蓮は無意識に顔へ手を当て、息を荒げる。


「落ち着きなさい」

 イゼナは水面を一瞥しただけで、その表情を崩さなかった。

「ここでは、隠せぬものが浮かび上がる。あなたの変化は、偶然ではありません」


 蓮は食い下がる。

「……どうして俺だけが、こんなふうに……!」


 イゼナは振り返り、蓮を正面から見据えた。

 その瞳には、嘘偽りのない静けさがあった。


「理由はひとつ。あなたがもっとも“強い器”だからです」


 蓮の鼓動が一瞬止まったように感じた。

 言葉の意味は理解できない。だが――確かに、この場に連れて来られた理由が、今ここで示されたのだ。


 蓮は息を呑み、言葉を探した。

「……強い器、だって……そんなもの、望んだわけじゃない……」


 声は掠れていた。

 胸の奥からせり上がる拒絶の感情と、目の前に突きつけられた真実が、心を引き裂いていく。


 イゼナはその苦悩を見透かしたように、静かに告げる。

「望んだから与えられたのではありません。生まれ持ったもの。避けることのできぬ宿命――それが“器”です」


 蓮は拳を握りしめ、水面を睨みつけた。

 その鏡には、自分の顔に混じって、どこか獣じみた影がちらついている。

 牙、爪、鱗……一瞬ごとに形を変える影は、未来の自分を暗示するかのようだった。


「……俺は……」

 言葉を繋げようとした瞬間、イゼナが続けた。


「安心なさい。あなただけではない」

 蓮の視線が上がる。


 イゼナの眼差しは揺らぎもなく、ただ深い水底のように澄んでいた。

「――あの子も、同じ匂いを持っています。けれどあなたほどではない。だからこそ、あなたが先に“崩れ”始めているのです」


 その言葉に、蓮の胸が締めつけられた。

 脳裏に浮かんだのは、安らかな寝息を立てているスミレの姿だった。

 彼女もまた、自分と同じ運命にあるというのか。


「……嘘だろ」

 蓮の声は震えていた。


 イゼナは首を横に振る。

「嘘ではありません。ですが――」


 彼女は水面に指先をかざした。

 淡い波紋が広がり、闇の底に光が滲むように、わずかな輝きが揺れる。


「器が必ずしも、崩壊に至るとは限らない。新しい道を示せる者が現れるなら……運命は、変えられるかもしれない」


 イゼナの声は淡々としていながら、その奥には一瞬だけ熱を帯びた色が宿っていた。


 蓮は息を詰め、水面に映る自分と――そこに滲む光を凝視した。

 その沈黙を破るように、イゼナが口を開いた。


「……核のことを、聞きたいのでしょう?」


 蓮の肩がわずかに揺れた。

「……っ、知ってるのか」


 イゼナはゆるりと頷き、視線を祭壇の方角へと向ける。


「セラティスの中心に眠る光――それがかつて、歪みを正す“核”でした。けれど今は……ほとんど機能を失い、深く沈んでいる」


「沈んでる……?」


「揺らぎの底です。私たちマーレですら近づくことをためらう場所。そこに触れるには、代償が必要となるでしょう」


 蓮の眉間に皺が寄る。

「代償って……何を差し出せっていうんだ」


 イゼナは答えず、ただ蓮を見つめた。

 その瞳は、言葉より雄弁に告げている――「命」か「存在」そのものか、と。


 しばしの沈黙のあと、イゼナは声を和らげた。

「……ですが、核は完全には死んでいません。あの場所に触れられる者が現れるならば、まだ……」


 その言葉の先を濁したまま、イゼナは静かに歩を進める。

 回廊の奥に広がる薄明かりの中で、その背はどこか遠くに感じられた。


 蓮は言葉を失い、ただその背を追った。

 胸の奥には、恐怖と、かすかな希望とがないまぜになって渦巻いていた。


 しばし廊下に佇んでから、深く息を吐き、足を元の部屋へと向ける。

 扉を押し開けると、薄闇に沈んだ室内で小さな気配が動いた。


「……蓮?」


 ベッドに伏していたはずのスミレが、上体を起こしてこちらを見ていた。

 眠っていた様子はなく、彼が戻るのを待っていたかのように、その瞳は真っ直ぐに蓮を映していた。


「どこに行っていたの?」


 その問いに、蓮は一瞬言葉を失った。

 胸の奥にまだ残るイゼナの声が、答えを塞ぐかのように響く。


「……ちょっと、歩いてただけだ」


 自分でも薄いとわかる言い訳だった。

 それでもスミレはそれ以上追及せず、ただ静かに蓮の顔を見つめていた。


 短い沈黙が落ちる。

 やがてスミレは顔を上げ、柔らかく微笑んだ。


「ねぇ、タオとリリスは……無事に帰れたかしら」


 蓮はふと、まぶたの奥をよぎった光景に息を呑んだ。

 青く澄んだ空。遠くに見えるネイトエールの城壁。

 その手前を、二つの影──タオとリリスが並んで歩いている。


 言葉も交わさず、それでも確かに前へ進んでいる背中。

 振り返らず、迷わず、帰るべき場所へ。


「……帰れたと思う」


 スミレが目を瞬く。蓮は続けた。


「タオも、リリスも。多分、もうネイトエールにいる」


 確信ではない。ただ、胸の奥で、どこか静かに灯っている感覚だった。

 不思議と、それを疑う気にはなれなかった。


 スミレは小さく息を吐く。それは安堵とも、寂しさともつかない吐息だった。

「……そう。なら、よかった」


 闇の中で、小さく微笑んだその横顔は、どこか泣きそうにも見えた。


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