セラティスの神殿 前編
扉が開かれた瞬間、蓮たちは息を呑んだ。
そこに広がっていたのは、美しいというより――畏れを抱かせる静寂の世界だった。
蒼白に輝く天蓋は夜空でも昼空でもなく、時を忘れた空虚そのもの。
そこを漂う光の群れは星に似ていたが、規則正しく脈動し、まるで神殿全体が呼吸しているかのようだった。
祭壇へと続く回廊の両脇、透明な水槽のような柱の中にはマーレ族の姿が浮かんでいる。
彼らは目を閉じ、歌うでもなく、ただ眠るように揺れていた。
だがその眼差しがふと開かれると、一斉に蓮たちを見つめる。
言葉も音もない――ただ沈黙の視線。
「……歓迎されている、わけじゃない?」
蓮が低くそう言う。
頭上を黄金の鳥が横切る。羽ばたくたびに舞い散る光は美しいが、それは祝福というより、冷たい審判の光のように降り注いだ。
さらに遠く、龍の影が巡る。荘厳に、しかしどこか監視するように。
「まるで……この場所そのものが、生きているみたい……」
スミレの声は震えていた。
彼らの足元に広がる水面は鏡のように静まり返り、歩を進めるごとに自分たちの姿が揺れて崩れていく。
その先にある祭壇だけが、変わらぬ威容で彼らを待っていた。
足を踏み出すたび、水鏡のような床に波紋が広がった。
その揺らぎが柱に、壁に、そして頭上の虚空に反射して、神殿全体が呼応するかのように脈打つ。
誰ひとり言葉を発さぬまま、蓮たちは中央の祭壇へ進んでいった。
ただ足音だけが、静まり返った空間に重々しく響く。
やがて、神殿の中心に辿り着く。
そこには玉座とも祭壇ともつかぬ台座が鎮座し、その上には誰も座っていなかった。
けれど――確かに「存在」がある。
見えぬはずの視線が、四人を射抜いていた。
「……蓮」
スミレが小さく囁く。
その声に背を押されるように、蓮は前へ出た。
喉が渇く。胸がざわめく。
それでも、ここまで来た理由を、言わなければならなかった。
「俺たちは……ラミアの血を継ぐ者として、この場所に辿り着きました」
声が静かに広がり、天井の光に吸い込まれていく。
「悪魔の影を滅ぼし、狭間の歪みを正すために――ここ、セラティスに来たんです」
沈黙。
だが次の瞬間、周囲の柱に眠っていたマーレ族が一斉に目を開けた。
その眼差しは冷たく、しかしどこか哀しみを帯びていた。
「……ラミアの、後継……」
低く、複数の声が重なり合って反響する。
その響きは、神殿そのものが語りかけているようだった。
美穂が隣で唇を噛みしめる。
「やっぱり……ラミアと、この場所は切っても切り離せないんだね」
ミネルは無言のまま、じっと蓮の背を見つめていた。
そして祭壇の奥――
闇のように何もなかったはずの空間に、ゆるやかに影が形を結びはじめる。
白銀の衣をまとった存在。
声が発せられるよりも先に、その気配は「畏怖」として胸を圧迫してきた。
「……お前たちが来ることは、わかっていた」
静かに、しかし神殿全体を包み込むような響き。
やがてその姿は完全に形を取り、マーレ族の長老を思わせる者が姿を現す。
淡く光を宿した髪は、水面のきらめきのように揺らめき、白銀の衣をまとった体を淡く照らしていた。
年老いた顔には深い皺が刻まれているが、その瞳は濁りなく澄みきり、時を超えた静謐さを宿している。
白銀の長老は玉座の傍らへと歩み出た。
その一歩ごとに、祭壇の水晶がかすかに共鳴し、低く澄んだ音を響かせる。
「……ラミアの血を継ぐ者たちよ」
柔らかくも抗えぬ重みを帯びた声。
「お前たちの来訪は避け得ぬ定めであった。だが……それは同時に、我らの無力を映すものでもある」
蓮は思わず拳を握りしめた。
「……無力?」
長老は目を閉じ、祭壇の奥に広がる虚空を仰ぐ。
「セラティスはかつて、世界の狭間を正すための『器』であった。天と地を繋ぎ、歪みを封じる砦だったのだ」
「だが――もう遅い。我らはその役目を果たせなかった。歪みは増し、この都そのものを呑み込んでしまったのだ」
美穂が眉を寄せ、声を震わせる。
「じゃあ……もう、どうしようもないってこと?」
「その通りだ。今のセラティスには、歪みを正す力は残されていない」
長老の言葉は淡々としながらも、深い悔恨の色を帯びていた。
「そしてお前たちの言うラミアもまた、その失敗の証として追放された。我らと同じく、己が役目を果たせぬ存在としてな」
「ラミアが追放……? じゃあ、ここにはラミアはいないってことか?」
蓮の問いに、長老は重く頷く。
「……ああ。そうだ。我らから伝えられるのは、それだけだ。歪みは今もなお膨れ上がり、この世界の崩壊は刻一刻と迫っている――」
長老の言葉が降りた瞬間、空気が張りつめた。
まるで誰も息をすることを許されないかのように、静寂が広がる。
蓮が奥歯を噛みしめる音だけが、わずかに響いた。
「……結局、どこもかしこも役に立たないのかよ」
その声には苛立ちと、自分ではどうにもできない現実に対する苛烈な怒りが混じっていた。
美穂は唇を噛み、視線を落とす。
「世界の崩壊が迫ってるのに……可能性がないって、そんな……」
彼女の瞳は必死に答えを探そうと揺れていた。
スミレは一歩前に出て、蓮の袖をそっと掴んだ。
「……無力だって言うけど、それでも……まだ何か、きっと」
小さな声。けれどその声は、誰よりも確かな祈りのように響いた。
蓮は唇を引き結び、長老を見据える。
「じゃあ、俺たちはどうすればいい? このまま黙って……崩壊を待てって言うのか?」
長老はしばし沈黙したのち、静かに目を開いた。
「……イゼナ」
名を呼ばれ、蓮たちの背後で音もなく進み出たのは、案内を務めていたマーレ族の少女だった。
「来客を――案内してやりなさい」
その一言に、蓮たちは思わず振り返る。
「え……イゼナ!? まさか……ラゼーラにいた……あの?」
驚きに声が上ずる。
しかし、イゼナは何も言わなかった。
ただ澄んだ瞳を彼らに向け、唇を静かに開く。
「――さあ。行きましょう」
神殿の奥へと続く回廊を指し示す仕草は、拒む余地を与えぬほど穏やかで、けれど揺るぎないものだった。




