表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
狭間で俺が出会ったのは、妖精だった  作者: 紫羅乃もか
第7章 竜の背に託す未来
111/120

記憶の残り

 ミネルと別れたあと、蓮は町の中をひとり歩いていた。

 けれど、「町」と呼べるほどの境界はどこにもなく、石畳の道も霧に溶けて、すぐにその先が見えなくなる。


 ラゼーラは、地図を持たない町だ。

 道がどこに繋がっているのかも分からず、目印になるものもない。

 ただ、歩けば、気配だけが道を示してくれるような気がした。


 音のない世界。人のいない町。

 それでも、ふと角を曲がれば、何かの気配が通りすぎる。

 懐かしい声や、知らない足音が霧の奥に消えていく。


 心が少しずつ、ほどけていく。

 何も考えずにただ歩いていると、自分という輪郭さえ、ぼやけていく気がした。


 ――そんなときだった。

 ふと足元の地面が変わった。


 石畳が途切れ、足元に柔らかな草の感触が広がる。

 霧の切れ間から差す光が、どこか不自然なほど温かく、淡く降り注いでいた。


 蓮は、足元の花を見て立ち止まった。

 オレンジ色の、見覚えのある花――けれどどこか、少し違う。

 ふと胸の奥がざわついた。


 ――そうだ。この景色はたしか、フェリリスの谷だ。かつて美穂たちと訪れた、あの場所にそっくりだった。

 けれど、今目の前にあるそれは、どこか現実離れしていて、記憶の中の美しさだけが抜き出されたような風景だった。


 谷の中央には、小さな泉。

 水面は驚くほど静かで、そこに映る空さえも美しく見えた。

 けれど、たしかに違和感があった。

 あの日見たフェリリスの谷に、こんな泉はなかったはずだ。


 まるで、記憶の中の風景に、誰かが“静けさ”を加えたかのようだった。

 それとも、これは自分たちの心が、そう見せているのだろうか。


 そして、泉のほとりに――美穂がいた。

 背を向けて、花の中に佇むその姿は、まるでひとつの風景の一部のようだった。

 髪がふわりと揺れ、泉の水面にその影が滲んでゆく。


 蓮は、思わず歩みを止めた。

 声をかけるのがためらわれるほど、そこは完結した世界のように見えた。


「……この景色、間違いない。あの日見たフェリリスの谷の幻想」


 ふいに、美穂の声が聞こえた。


「ラゼーラは、誰かの記憶で……私たち自身の記憶で作られた空間なのね」


 蓮はその背を見つめながら、小さく頷いた。


 風はなく、音もない。

 なのに、花びらがゆっくりと舞っていた。まるで、見えない何かが息をしているようだった。


「……狭間の歪みが、また大きくなった」


 ぽつりと落ちた彼女の言葉は、独り言のようで、誰かに縋るようで、どこか、かすかに震えていた。


「急……だよな。今までそんな予兆も見せなかったのに」


 蓮の声に、美穂はようやく視線を上げた。

 けれどその眼差しは、まだ遠くの空を追っていた。


「何かが引き金で歪みの大きさが急加速しているのかもしれない……このままいけば、狭間が歪みに呑まれて、世界の境界はなくなるわ」


「でも……それが、本来の世界の姿だったんだよな」


「ええ。……けれど、歪みを私たちが防げば、狭間は残り続ける」

 そう言ったあと、美穂はふっと目を伏せた。

「……それが良いことなのかは、分からないけど」


 その横顔が、どこか遠く感じられた。

 蓮は彼女に近づき、そっと隣に腰を下ろす。


 空は、すでにうっすらと星霧に染まり始めていた。

  夜が、近づいている。


「俺たちのこと、……歪みの存在って、イゼナが言ってたよな。ラミアの血は、やっぱり狭間と関係してるんだ」


「……それを確かめに、セラティスへ行かないといけないわね」


 小さく頷いた後、美穂が続ける。


「蓮……私たちは、架空の者と人間との間に生まれた子よ。……きっと、何か、重要な役割を担っている」


 すべてを知るには、もう引き返せない場所まで来てしまっていた。


「明後日には……俺たち、セラティスに行くんだよな」


 沈黙が、二人の間に流れた。

 けれど、それは重苦しいものではなかった。ただ、次の言葉を待つ、静かな余白だった。


「ねえ、蓮」


「ん?」


「……ありがとう」


 唐突なその言葉に、蓮は少し驚いたように、美穂の顔を見た。


「私、ここまで来れたの……あなたがいたから」


「……俺が?」


「うん。あなたって、いつも誰かのために走ってた。迷って、立ち止まって、それでも前に進もうとして……そういう姿が、何度も私を救ってくれた」


 蓮は、返す言葉を探したが、うまく見つからなかった。

 自分の不器用さが、誰かの支えになっていたなんて――思いもしなかった。


「……俺なんか、ずっと迷ってばっかだよ」


 美穂は微笑んだ。

 けれど、その笑みはどこか寂しげで、少しだけ遠い。


「だからなの。……誰よりも人間らしくて、不器用で、誠実なあなたが……私は、好きだったんだと思う」


 蓮は一瞬、言葉を失った。

 心のどこかで、薄々感じていた何かが、そっと形になった瞬間だった。


「……美穂、今の……」


「もう、過去形でいいの」

 そう言って、美穂はそっと微笑む。

「だって、伝えるつもりはなかったし」


 蓮の胸が、かすかに痛んだ。

 彼女がどれほどの想いを抱えて、黙っていたのか。

 何も知らずに、どれほど近くにいたのか。


「でもね、私はずっと見てきたの。あなたとスミレが、少しずつ惹かれ合っていくのを。支え合って、傷を癒し合って……私は、それがよかったって、心から思ってる」


 美穂の声には、嘘がなかった。

 本当に、心からそう思ってくれているのが伝わった。


「だから、あなたにはちゃんと伝えておきたかったの。……ありがとうって」


「……美穂。俺……」


 何かを言おうとした蓮の言葉を、美穂がそっと遮った。


「……わかってる」

 その声は、驚くほど優しかった。

「大丈夫。伝えるだけでよかったの」


 その目は、もう揺れていなかった。

 強く、まっすぐで、でもどこかしら旅立ちのような静けさがあった。


「セラティスには……きっと、答えがある。私たちは、それを見届けるために、ここにいる」


 蓮は、小さく頷いた。

 そして、ほんの少しだけ目をそらして、静かに空を見上げた。


 星霧は、また少しずつ濃くなっていた。


 ***


 ラゼーラの屋敷の奥、ひっそりとした部屋。

 窓から差し込む淡い光が、揺れるカーテンを透かして床に模様を描いている。


 部屋の隅の寝台には、リリスが静かに横たわっていた。

 その呼吸は浅く、けれど確かで、まるで水面に浮かぶ花のように儚い。


 タオはそのすぐそばに座り、そっと彼女の手を握っていた。

 その横顔には、いつか見た野性の影はなかった。代わりに、どこか幼さすら感じさせる影があった。


 蓮は戸口でしばらく足を止めたのち、静かに部屋へ入った。

 自分の足音がやけに大きく感じられ、胸の奥がざわついた。


 気づいたタオが、わずかにこちらを振り返る。


「……よ」


「……ああ」


 短く交わした言葉。

 それだけで、なんとなく空気が重たくなるのを感じた。


 何を言えばいいか分からなかった。

 けれど、黙っているには近すぎる距離だった。


「……リリス、まだ目を覚まさないんだな」


「……ああ。でも、呼吸は落ち着いてる。……イゼナの話じゃ、意識が深く沈んでるだけらしい」


 タオはそう言って、リリスの髪を指先でそっと撫でた。

 その手つきがあまりに優しくて、蓮は思わず目をそらした。


「……お前、よく平気だな」


 ぽつりと漏れた言葉は、言うつもりもなかったはずのものだった。

 けれど、口にしてしまった以上、もう引き返せなかった。


 タオは一瞬、戸惑ったように眉をひそめる。


「……何が?」


「ホクトのことも、ローレのことも……リリスだって、こんな状態で……。それでも、お前……」


 言葉の先が見つからなかった。

 でも、タオには伝わっていたようだった。


「……俺さ、ずっと怒ってたんだ。ホクトが親父を殺したって聞いたとき、本気で、全部ぶっ壊してやろうって思った。でもよ……最後の最後で、あいつは笑ってやがった。勝手すぎんだろ」


 その声は震えていた。怒りと、戸惑いと、何かもう一つ別の感情が混ざっているようだった。


 蓮は黙っていた。

 その沈黙は拒絶じゃなく、ただ受け止めようとする静けさだった。


「許したわけじゃねぇ。でも、否定もしきれなかった。だから……俺の中でも、ちゃんと答えが出たわけじゃない」


 タオの言葉に、蓮はふと自分の中の渦に触れた気がした。


「……俺も、父さんのこと、正直まだうまく整理できてない」

「実の父親だったって知ったのもつい最近だし……感情が、ぐちゃぐちゃで。何が正しいのか分からない」


 言葉にしてみると、胸の奥がじわっと熱を持った。

 押し込めていた何かが、少しだけほどけていく。


「……なあ、蓮」


「ん?」


「ちょっと……散歩しねぇか」


 タオがふっと笑う。その笑顔には、どこか肩の力が抜けたような柔らかさがあった。

 蓮は一瞬だけ驚いて、けれどすぐに頷いた。


「……ああ」




 ラゼーラの街路は、霧の中に沈むように静かだった。

 石畳には、どこからか舞い降りた花びらが一枚、ゆっくりと落ちていく。


 ふたりは並んで歩いていた。特に言葉は交わさず、それでも不思議と心は落ち着いていた。


 この街の空気には、何かが混ざっている――幻想と、終焉と、希望と。

 どこか現実離れしているのに、確かに「今」がここにあるのだと思わせてくれる。


「……なあ、蓮」


 タオがふいに口を開いた。


「セラティスに行って、何があるかわかんねえけど……俺はもう、逃げねえ」

「過去がどうだろうが、ラミアがなんだろうが。……この手で、守るって決めたから」


 その言葉には、迷いがなかった。

 あの日、獣のように吠えていた彼とはまるで別人のように思えた。


 蓮は、少しだけ目を細めて頷く。


「……俺もだ。まだ怖いし、正直自信なんてないけど……それでも、行こうと思う」


「……おう」


 霧の向こうに、塔の影がぼんやりと浮かんでいた。それはどこか王都バステトで見た塔の形にも似ているようだった。まるで、彼らの向かう未来の形のように、まだ輪郭が定まらなかった。


 それでも、二人の歩みは、確かに前を向いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
美穂……美穂……。過去形でいいって言葉が切なすぎて、情緒が……!タオもしんどいはずなのに「逃げない」って言えるの強すぎて刺ささります。最終章、それぞれの物語が少しずつ、でも確実に決着に向かっていってま…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ