記憶の残り
ミネルと別れたあと、蓮は町の中をひとり歩いていた。
けれど、「町」と呼べるほどの境界はどこにもなく、石畳の道も霧に溶けて、すぐにその先が見えなくなる。
ラゼーラは、地図を持たない町だ。
道がどこに繋がっているのかも分からず、目印になるものもない。
ただ、歩けば、気配だけが道を示してくれるような気がした。
音のない世界。人のいない町。
それでも、ふと角を曲がれば、何かの気配が通りすぎる。
懐かしい声や、知らない足音が霧の奥に消えていく。
心が少しずつ、ほどけていく。
何も考えずにただ歩いていると、自分という輪郭さえ、ぼやけていく気がした。
――そんなときだった。
ふと足元の地面が変わった。
石畳が途切れ、足元に柔らかな草の感触が広がる。
霧の切れ間から差す光が、どこか不自然なほど温かく、淡く降り注いでいた。
蓮は、足元の花を見て立ち止まった。
オレンジ色の、見覚えのある花――けれどどこか、少し違う。
ふと胸の奥がざわついた。
――そうだ。この景色はたしか、フェリリスの谷だ。かつて美穂たちと訪れた、あの場所にそっくりだった。
けれど、今目の前にあるそれは、どこか現実離れしていて、記憶の中の美しさだけが抜き出されたような風景だった。
谷の中央には、小さな泉。
水面は驚くほど静かで、そこに映る空さえも美しく見えた。
けれど、たしかに違和感があった。
あの日見たフェリリスの谷に、こんな泉はなかったはずだ。
まるで、記憶の中の風景に、誰かが“静けさ”を加えたかのようだった。
それとも、これは自分たちの心が、そう見せているのだろうか。
そして、泉のほとりに――美穂がいた。
背を向けて、花の中に佇むその姿は、まるでひとつの風景の一部のようだった。
髪がふわりと揺れ、泉の水面にその影が滲んでゆく。
蓮は、思わず歩みを止めた。
声をかけるのがためらわれるほど、そこは完結した世界のように見えた。
「……この景色、間違いない。あの日見たフェリリスの谷の幻想」
ふいに、美穂の声が聞こえた。
「ラゼーラは、誰かの記憶で……私たち自身の記憶で作られた空間なのね」
蓮はその背を見つめながら、小さく頷いた。
風はなく、音もない。
なのに、花びらがゆっくりと舞っていた。まるで、見えない何かが息をしているようだった。
「……狭間の歪みが、また大きくなった」
ぽつりと落ちた彼女の言葉は、独り言のようで、誰かに縋るようで、どこか、かすかに震えていた。
「急……だよな。今までそんな予兆も見せなかったのに」
蓮の声に、美穂はようやく視線を上げた。
けれどその眼差しは、まだ遠くの空を追っていた。
「何かが引き金で歪みの大きさが急加速しているのかもしれない……このままいけば、狭間が歪みに呑まれて、世界の境界はなくなるわ」
「でも……それが、本来の世界の姿だったんだよな」
「ええ。……けれど、歪みを私たちが防げば、狭間は残り続ける」
そう言ったあと、美穂はふっと目を伏せた。
「……それが良いことなのかは、分からないけど」
その横顔が、どこか遠く感じられた。
蓮は彼女に近づき、そっと隣に腰を下ろす。
空は、すでにうっすらと星霧に染まり始めていた。
夜が、近づいている。
「俺たちのこと、……歪みの存在って、イゼナが言ってたよな。ラミアの血は、やっぱり狭間と関係してるんだ」
「……それを確かめに、セラティスへ行かないといけないわね」
小さく頷いた後、美穂が続ける。
「蓮……私たちは、架空の者と人間との間に生まれた子よ。……きっと、何か、重要な役割を担っている」
すべてを知るには、もう引き返せない場所まで来てしまっていた。
「明後日には……俺たち、セラティスに行くんだよな」
沈黙が、二人の間に流れた。
けれど、それは重苦しいものではなかった。ただ、次の言葉を待つ、静かな余白だった。
「ねえ、蓮」
「ん?」
「……ありがとう」
唐突なその言葉に、蓮は少し驚いたように、美穂の顔を見た。
「私、ここまで来れたの……あなたがいたから」
「……俺が?」
「うん。あなたって、いつも誰かのために走ってた。迷って、立ち止まって、それでも前に進もうとして……そういう姿が、何度も私を救ってくれた」
蓮は、返す言葉を探したが、うまく見つからなかった。
自分の不器用さが、誰かの支えになっていたなんて――思いもしなかった。
「……俺なんか、ずっと迷ってばっかだよ」
美穂は微笑んだ。
けれど、その笑みはどこか寂しげで、少しだけ遠い。
「だからなの。……誰よりも人間らしくて、不器用で、誠実なあなたが……私は、好きだったんだと思う」
蓮は一瞬、言葉を失った。
心のどこかで、薄々感じていた何かが、そっと形になった瞬間だった。
「……美穂、今の……」
「もう、過去形でいいの」
そう言って、美穂はそっと微笑む。
「だって、伝えるつもりはなかったし」
蓮の胸が、かすかに痛んだ。
彼女がどれほどの想いを抱えて、黙っていたのか。
何も知らずに、どれほど近くにいたのか。
「でもね、私はずっと見てきたの。あなたとスミレが、少しずつ惹かれ合っていくのを。支え合って、傷を癒し合って……私は、それがよかったって、心から思ってる」
美穂の声には、嘘がなかった。
本当に、心からそう思ってくれているのが伝わった。
「だから、あなたにはちゃんと伝えておきたかったの。……ありがとうって」
「……美穂。俺……」
何かを言おうとした蓮の言葉を、美穂がそっと遮った。
「……わかってる」
その声は、驚くほど優しかった。
「大丈夫。伝えるだけでよかったの」
その目は、もう揺れていなかった。
強く、まっすぐで、でもどこかしら旅立ちのような静けさがあった。
「セラティスには……きっと、答えがある。私たちは、それを見届けるために、ここにいる」
蓮は、小さく頷いた。
そして、ほんの少しだけ目をそらして、静かに空を見上げた。
星霧は、また少しずつ濃くなっていた。
***
ラゼーラの屋敷の奥、ひっそりとした部屋。
窓から差し込む淡い光が、揺れるカーテンを透かして床に模様を描いている。
部屋の隅の寝台には、リリスが静かに横たわっていた。
その呼吸は浅く、けれど確かで、まるで水面に浮かぶ花のように儚い。
タオはそのすぐそばに座り、そっと彼女の手を握っていた。
その横顔には、いつか見た野性の影はなかった。代わりに、どこか幼さすら感じさせる影があった。
蓮は戸口でしばらく足を止めたのち、静かに部屋へ入った。
自分の足音がやけに大きく感じられ、胸の奥がざわついた。
気づいたタオが、わずかにこちらを振り返る。
「……よ」
「……ああ」
短く交わした言葉。
それだけで、なんとなく空気が重たくなるのを感じた。
何を言えばいいか分からなかった。
けれど、黙っているには近すぎる距離だった。
「……リリス、まだ目を覚まさないんだな」
「……ああ。でも、呼吸は落ち着いてる。……イゼナの話じゃ、意識が深く沈んでるだけらしい」
タオはそう言って、リリスの髪を指先でそっと撫でた。
その手つきがあまりに優しくて、蓮は思わず目をそらした。
「……お前、よく平気だな」
ぽつりと漏れた言葉は、言うつもりもなかったはずのものだった。
けれど、口にしてしまった以上、もう引き返せなかった。
タオは一瞬、戸惑ったように眉をひそめる。
「……何が?」
「ホクトのことも、ローレのことも……リリスだって、こんな状態で……。それでも、お前……」
言葉の先が見つからなかった。
でも、タオには伝わっていたようだった。
「……俺さ、ずっと怒ってたんだ。ホクトが親父を殺したって聞いたとき、本気で、全部ぶっ壊してやろうって思った。でもよ……最後の最後で、あいつは笑ってやがった。勝手すぎんだろ」
その声は震えていた。怒りと、戸惑いと、何かもう一つ別の感情が混ざっているようだった。
蓮は黙っていた。
その沈黙は拒絶じゃなく、ただ受け止めようとする静けさだった。
「許したわけじゃねぇ。でも、否定もしきれなかった。だから……俺の中でも、ちゃんと答えが出たわけじゃない」
タオの言葉に、蓮はふと自分の中の渦に触れた気がした。
「……俺も、父さんのこと、正直まだうまく整理できてない」
「実の父親だったって知ったのもつい最近だし……感情が、ぐちゃぐちゃで。何が正しいのか分からない」
言葉にしてみると、胸の奥がじわっと熱を持った。
押し込めていた何かが、少しだけほどけていく。
「……なあ、蓮」
「ん?」
「ちょっと……散歩しねぇか」
タオがふっと笑う。その笑顔には、どこか肩の力が抜けたような柔らかさがあった。
蓮は一瞬だけ驚いて、けれどすぐに頷いた。
「……ああ」
ラゼーラの街路は、霧の中に沈むように静かだった。
石畳には、どこからか舞い降りた花びらが一枚、ゆっくりと落ちていく。
ふたりは並んで歩いていた。特に言葉は交わさず、それでも不思議と心は落ち着いていた。
この街の空気には、何かが混ざっている――幻想と、終焉と、希望と。
どこか現実離れしているのに、確かに「今」がここにあるのだと思わせてくれる。
「……なあ、蓮」
タオがふいに口を開いた。
「セラティスに行って、何があるかわかんねえけど……俺はもう、逃げねえ」
「過去がどうだろうが、ラミアがなんだろうが。……この手で、守るって決めたから」
その言葉には、迷いがなかった。
あの日、獣のように吠えていた彼とはまるで別人のように思えた。
蓮は、少しだけ目を細めて頷く。
「……俺もだ。まだ怖いし、正直自信なんてないけど……それでも、行こうと思う」
「……おう」
霧の向こうに、塔の影がぼんやりと浮かんでいた。それはどこか王都バステトで見た塔の形にも似ているようだった。まるで、彼らの向かう未来の形のように、まだ輪郭が定まらなかった。
それでも、二人の歩みは、確かに前を向いていた。




