忘れられた町ラゼーラ
そこは、まるで時間が止まってしまったかのような場所だった。
古びた石畳には細かなひびが走り、その隙間から、小さな花が健気に咲いている。街路灯には薄く苔が付き、灯る光はどこか柔らかく、呼吸するように揺れていた。風は吹いていないはずなのに、遠くから祈りの声が聞こえるような、不思議な静けさが町を包んでいた。
――ラゼーラ。
そう名乗った老婆、イゼナに導かれ、蓮たちは町の一角にある小さな屋敷へと通された。重く軋む扉の奥は、外の朽ちた印象とは裏腹に、薬草の香りと暖かな空気が満ちていた。
「この子は、しばらくここで休ませてやるといい」
イゼナの指示に従い、タオがリリスを慎重に運び、蓮が付き添う。柔らかな寝台に寝かされた彼女の顔には、うっすらと疲労の影が残っていた。
「……狭間の影響が、深いのじゃな。身も心も、ゆっくりほどいてやらねば……」
イゼナは棚から光を帯びた薬壺を取り出す。その手の動きは老いを感じさせない、研ぎ澄まされた静けさと確かさを宿していた。
ようやく、蓮たちはホクトとローレを喪った激しい戦いの余韻から、ほんの少しだけ解放された気がしていた。
だが、それと引き換えに――新たな「問い」が、彼らの胸を占めていた。
なぜ、この町が今、姿を現したのか。
なぜ、狭間の力が自分たちを導いているのか。
そして、ここが“セラティスへの鍵”であるという確信は、どこから来るのか。
そんな問いに応えるかのように、イゼナが窓の外を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「ここはね……記憶が集まる場所なんじゃよ。忘れ去られ、捨てられ、そして、残された者たちが静かに眠る町」
彼女の目は、何か遠いものを見ていた。
「長いこと、誰も来なかったけれど……お前さんたちが来たということは、きっと、世界の境界が――狭間が、何か動き始めた証じゃろうね」
イゼナの言葉に、美穂がそっと口を開く。
「……ここは一体……?」
「ラゼーラは、狭間の歪みにしか存在せぬ忘れられた町。歪みが強くなれば、この町が現れる。そして、歪みの気配を身に宿す者だけが――ここを訪れることができるのじゃ」
「歪みの……気配……」
「お主らからは、強い力を感じる。マーレ族と同じ、“境界”の血……」
「マーレ族……。そう、私たち、そのマーレ族がいるというセラティスに行かなきゃならないんです」
スミレがそう言うと、イゼナはゆっくりと頷いた。
「――セラティス。世界の底。人間界でも、架空界でも、狭間でもない……どこにも属さぬ“そこ”は、一度行けば、二度と戻れぬかもしれぬ場所」
イゼナの言葉が、静かに響く。
蓮は、唾をのみこんだ。
「それでも、行かなきゃならないんです。そこに行って、すべてを確かめないといけない」
「ふむ……ラゼーラとセラティスの違いは一つ。ラゼーラは歪みの“中”にあるが、セラティスは、すでに歪みに“呑まれきった”場所じゃ」
部屋の中の空気が、ひときわ静かになる。
そこに向かうということが、どういう意味を持つのか――
その一言が、全員の胸に、重く深く沈み込んだ。
「明日の夜……それは“星霧の夜”とも言われておる。海へと繋がる歪みが町の外れに現れるのじゃ。
それに呑まれれば、セラティスへ行けるじゃろう」
「……明日……」
その言葉を繰り返す声に、わずかな震えが滲んでいた。
未来が、目前に迫っていた。
「それまでは、この町で心を休ませることじゃな。
ここは忘れられた町……ならば、忘れたふりをして、自分の中を見つめ直すには、ちょうどいい」
そう言い残し、イゼナは霧のように静かに身を翻し、扉の向こうへと姿を消した。
残された一行は、言葉もなく、ただしばらくその場に立ち尽くす。
音はなかった。けれど、それぞれの胸の奥で、何かが静かに揺れていた。
やがて、誰からともなく、視線が集まる。
眠るように横たわるリリスのもとへ。
彼女は微かに眉を寄せたまま、意識のないまま、呼吸を続けている。
まるで夢の中でも、歪みと戦っているかのように。
タオがその額にそっと手を当てる。
誰も言葉にはしなかったが――この静かな時間は、戦いの合間に与えられた、ほんの短い“猶予”なのだと、全員が感じていた。
やがて、重たい空気の中で、それぞれがそっと動き出す。
誰かが廊下に出ていく音。窓を開ける気配。小さな扉のきしむ音。
言葉ではなく、ただ静かに、自分の心に耳を澄ませるように、皆がこの町の静けさに身を委ねていった。
蓮もまた、一人になろうと立ち上がる。
今の自分の気持ちに、まだ名前はつけられない。ただ、霧の中に身を置けば、少しは何かが整う気がして。
***
薄い霧が、足元を撫でるように漂っていた――
空気は冷たくもないのに、肌の奥に染み込むような感触を残していく。
ラゼーラの町は、どこまでも静かだった。
石畳は音を立てず、風の気配もない。なのに、どこからか小さな囁き声が聞こえる気がして、蓮は振り返った――けれど、誰もいない。
まるで、町全体がひとつの記憶の中に沈んでいるようだった。
朽ちた街灯の影。
ひび割れた屋根の隙間から覗く空。
かつて誰かがここで暮らしていた痕跡が、薄皮一枚分だけ現実に重なっている。
通りを歩けば、閉じられた扉の奥から、湯の沸く音や布が揺れる気配が感じられる――
それが現実なのか、霧に滲んだ幻なのか、判別がつかなかった。
幻想と現実のあわい。
その境界に、ラゼーラはそっと身を置いていた。
――ふと、角を曲がった先に、人影が見えた。
霧の濃い建物の陰に寄りかかるようにして、ミネルが立っていた。
紺色の髪が、霧と同化するように風もない空気の中で揺れている。
彼女は何かを探しているわけでも、誰かを待っているわけでもないようだった。
ただ、遠くの空を――あるいは、自分の内側に沈む何かを見つめているような、その眼差しだった。
蓮はそっと、歩みを止める。
「……ミネル?」
彼女は振り返らなかった。
それでも、返ってきた声ははっきりとした、落ち着いたものだった。
「……私にしては珍しく、情に引きずられている。心などないのに、どうしてか喪失感がある」
静かに近づき、蓮は彼女の隣に並ぶ。
町の静けさが、言葉すらも慎重に選ばせるようだった。
息を吸うと、霧の匂いとともに、どこかで燃える薬草の香りが混じっていた。
現実と夢の境目に立っているような、妙な心地だった。
「……あのとき、俺――何もできなかった」
ぽつりと漏れた言葉は、すぐに霧に吸い込まれていった。
届いたのかどうかも曖昧なまま、しかしミネルはふ、と小さく息を吐いた。
「誰かを見送るのは痛いことだ。でも……誰かを残す方が、もっと痛い」
その言葉に、蓮ははっとする。
彼女は、亜矢翔を喪い、ローレを喪い、そして自分自身も一度喪い、それでもなお歩いてきた。
その横顔には、冷たい鉄の意志と、柔らかな人の感情が共存していた。
「私は――千尋という人間は、かつて大きな罪を犯し、それでもこの命が紡がれてきた。私は、ラミアに、そしてローレに、生かされた。この命に“意味”があるというなら……私は、それを果たすまで生きる」
語る声は静かだったが、その奥には確かな熱があった。
小さな風が霧を揺らし、ミネルの髪をそっとなびかせる。
それに合わせるように、彼女はふと笑った。
「……それにしても……似てるね、ホクトに」
蓮は目を瞬かせた。
「え、ほんとに?」
「初めてあなたを見た時から、どことなく似ていると感じていた。ホクトはああ見えて不器用。あなたと同じようにね」
「はは……不器用だなんて冗談な。そういえば……ミネルは、ホクトの“右腕”って言われてたもんな。俺なんかよりずっと、父さんのこと詳しいだろ」
ミネルは少しだけ視線を落とした。
そして、まるで懐かしい記憶に触れるように、淡々と語る。
「“ホクトの右腕”に任されたのは、千尋が死んでミネルとして生き返った時に、すでに“プログラム”に組まれていたこと。
私を利用価値があると判断したラミアが、そう刻んだ。……ラミアなりに、ホクトを守ろうとしたのかもしれない」
「でも、プログラムを守ったのは、ミネルだろ? 父さんの右腕にふさわしかったと思う」
しばしの沈黙。
ミネルの瞳に、何かが一瞬、滲んだ気がした。
「……そうだといい」
霧の風が通り過ぎ、また町の音が遠のいていく。
「じゃあ……ミネルにとっても、ラミアは“母親”なんだな」
「……ああ、そうだ。私がここに来られたのも、ただのロボットだからではなく、ラミアとの“繋がり”があるからかもしれない。
どちらにしても――ラミアのことを、知らなくては」
静かに、けれど確かに語られた言葉。
それは“ラミア”という存在が、この世界に残した影の深さを物語っていた。
蓮は黙って、もう一度空を仰いだ。
その瞳には、未だ晴れない霧の向こうに、遠い決意の光が揺れていた。
 




