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狭間で俺が出会ったのは、妖精だった  作者: 紫羅乃もか
第7章 竜の背に託す未来
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忘れられた町ラゼーラ

  そこは、まるで時間が止まってしまったかのような場所だった。


 古びた石畳には細かなひびが走り、その隙間から、小さな花が健気に咲いている。街路灯には薄く苔が付き、灯る光はどこか柔らかく、呼吸するように揺れていた。風は吹いていないはずなのに、遠くから祈りの声が聞こえるような、不思議な静けさが町を包んでいた。


 ――ラゼーラ。


 そう名乗った老婆、イゼナに導かれ、蓮たちは町の一角にある小さな屋敷へと通された。重く軋む扉の奥は、外の朽ちた印象とは裏腹に、薬草の香りと暖かな空気が満ちていた。


 「この子は、しばらくここで休ませてやるといい」


 イゼナの指示に従い、タオがリリスを慎重に運び、蓮が付き添う。柔らかな寝台に寝かされた彼女の顔には、うっすらと疲労の影が残っていた。


 「……狭間の影響が、深いのじゃな。身も心も、ゆっくりほどいてやらねば……」


 イゼナは棚から光を帯びた薬壺を取り出す。その手の動きは老いを感じさせない、研ぎ澄まされた静けさと確かさを宿していた。


  ようやく、蓮たちはホクトとローレを喪った激しい戦いの余韻から、ほんの少しだけ解放された気がしていた。


 だが、それと引き換えに――新たな「問い」が、彼らの胸を占めていた。


 なぜ、この町が今、姿を現したのか。

 なぜ、狭間の力が自分たちを導いているのか。

 そして、ここが“セラティスへの鍵”であるという確信は、どこから来るのか。


 そんな問いに応えるかのように、イゼナが窓の外を眺めながら、ぽつりと呟いた。


 「ここはね……記憶が集まる場所なんじゃよ。忘れ去られ、捨てられ、そして、残された者たちが静かに眠る町」


 彼女の目は、何か遠いものを見ていた。


 「長いこと、誰も来なかったけれど……お前さんたちが来たということは、きっと、世界の境界が――狭間が、何か動き始めた証じゃろうね」


 イゼナの言葉に、美穂がそっと口を開く。


 「……ここは一体……?」


 「ラゼーラは、狭間の歪みにしか存在せぬ忘れられた町。歪みが強くなれば、この町が現れる。そして、歪みの気配を身に宿す者だけが――ここを訪れることができるのじゃ」


 「歪みの……気配……」


 「お主らからは、強い力を感じる。マーレ族と同じ、“境界”の血……」


 「マーレ族……。そう、私たち、そのマーレ族がいるというセラティスに行かなきゃならないんです」


 スミレがそう言うと、イゼナはゆっくりと頷いた。


 「――セラティス。世界の底。人間界でも、架空界でも、狭間でもない……どこにも属さぬ“そこ”は、一度行けば、二度と戻れぬかもしれぬ場所」


 イゼナの言葉が、静かに響く。

 蓮は、唾をのみこんだ。


「それでも、行かなきゃならないんです。そこに行って、すべてを確かめないといけない」

 

「ふむ……ラゼーラとセラティスの違いは一つ。ラゼーラは歪みの“中”にあるが、セラティスは、すでに歪みに“呑まれきった”場所じゃ」

 

部屋の中の空気が、ひときわ静かになる。


 そこに向かうということが、どういう意味を持つのか――

 その一言が、全員の胸に、重く深く沈み込んだ。

 

「明日の夜……それは“星霧の夜”とも言われておる。海へと繋がる歪みが町の外れに現れるのじゃ。

 それに呑まれれば、セラティスへ行けるじゃろう」


「……明日……」


 その言葉を繰り返す声に、わずかな震えが滲んでいた。

 未来が、目前に迫っていた。


「それまでは、この町で心を休ませることじゃな。

 ここは忘れられた町……ならば、忘れたふりをして、自分の中を見つめ直すには、ちょうどいい」


 そう言い残し、イゼナは霧のように静かに身を翻し、扉の向こうへと姿を消した。

 残された一行は、言葉もなく、ただしばらくその場に立ち尽くす。


 音はなかった。けれど、それぞれの胸の奥で、何かが静かに揺れていた。


 やがて、誰からともなく、視線が集まる。

 眠るように横たわるリリスのもとへ。


 彼女は微かに眉を寄せたまま、意識のないまま、呼吸を続けている。

 まるで夢の中でも、歪みと戦っているかのように。


 タオがその額にそっと手を当てる。

 誰も言葉にはしなかったが――この静かな時間は、戦いの合間に与えられた、ほんの短い“猶予”なのだと、全員が感じていた。


 やがて、重たい空気の中で、それぞれがそっと動き出す。

 誰かが廊下に出ていく音。窓を開ける気配。小さな扉のきしむ音。

 言葉ではなく、ただ静かに、自分の心に耳を澄ませるように、皆がこの町の静けさに身を委ねていった。


 蓮もまた、一人になろうと立ち上がる。

 今の自分の気持ちに、まだ名前はつけられない。ただ、霧の中に身を置けば、少しは何かが整う気がして。


***


 薄い霧が、足元を撫でるように漂っていた――

 空気は冷たくもないのに、肌の奥に染み込むような感触を残していく。


 ラゼーラの町は、どこまでも静かだった。

 石畳は音を立てず、風の気配もない。なのに、どこからか小さな囁き声が聞こえる気がして、蓮は振り返った――けれど、誰もいない。


 まるで、町全体がひとつの記憶の中に沈んでいるようだった。


 朽ちた街灯の影。

 ひび割れた屋根の隙間から覗く空。

 かつて誰かがここで暮らしていた痕跡が、薄皮一枚分だけ現実に重なっている。


 通りを歩けば、閉じられた扉の奥から、湯の沸く音や布が揺れる気配が感じられる――

 それが現実なのか、霧に滲んだ幻なのか、判別がつかなかった。


 幻想と現実のあわい。

 その境界に、ラゼーラはそっと身を置いていた。


 


 ――ふと、角を曲がった先に、人影が見えた。


 霧の濃い建物の陰に寄りかかるようにして、ミネルが立っていた。

 紺色の髪が、霧と同化するように風もない空気の中で揺れている。


 彼女は何かを探しているわけでも、誰かを待っているわけでもないようだった。

 ただ、遠くの空を――あるいは、自分の内側に沈む何かを見つめているような、その眼差しだった。


 蓮はそっと、歩みを止める。


 「……ミネル?」


 彼女は振り返らなかった。

 それでも、返ってきた声ははっきりとした、落ち着いたものだった。


 「……私にしては珍しく、情に引きずられている。心などないのに、どうしてか喪失感がある」


 静かに近づき、蓮は彼女の隣に並ぶ。

 町の静けさが、言葉すらも慎重に選ばせるようだった。

 息を吸うと、霧の匂いとともに、どこかで燃える薬草の香りが混じっていた。

 現実と夢の境目に立っているような、妙な心地だった。


 「……あのとき、俺――何もできなかった」


 ぽつりと漏れた言葉は、すぐに霧に吸い込まれていった。

 届いたのかどうかも曖昧なまま、しかしミネルはふ、と小さく息を吐いた。


 「誰かを見送るのは痛いことだ。でも……誰かを残す方が、もっと痛い」


 その言葉に、蓮ははっとする。

 彼女は、亜矢翔を喪い、ローレを喪い、そして自分自身も一度喪い、それでもなお歩いてきた。

 その横顔には、冷たい鉄の意志と、柔らかな人の感情が共存していた。


 「私は――千尋という人間は、かつて大きな罪を犯し、それでもこの命が紡がれてきた。私は、ラミアに、そしてローレに、生かされた。この命に“意味”があるというなら……私は、それを果たすまで生きる」


 語る声は静かだったが、その奥には確かな熱があった。

 小さな風が霧を揺らし、ミネルの髪をそっとなびかせる。

 それに合わせるように、彼女はふと笑った。


 「……それにしても……似てるね、ホクトに」


 蓮は目を瞬かせた。


 「え、ほんとに?」


 「初めてあなたを見た時から、どことなく似ていると感じていた。ホクトはああ見えて不器用。あなたと同じようにね」


 「はは……不器用だなんて冗談な。そういえば……ミネルは、ホクトの“右腕”って言われてたもんな。俺なんかよりずっと、父さんのこと詳しいだろ」


 ミネルは少しだけ視線を落とした。

 そして、まるで懐かしい記憶に触れるように、淡々と語る。


 「“ホクトの右腕”に任されたのは、千尋が死んでミネルとして生き返った時に、すでに“プログラム”に組まれていたこと。

 私を利用価値があると判断したラミアが、そう刻んだ。……ラミアなりに、ホクトを守ろうとしたのかもしれない」


 「でも、プログラムを守ったのは、ミネルだろ? 父さんの右腕にふさわしかったと思う」


 しばしの沈黙。

 ミネルの瞳に、何かが一瞬、滲んだ気がした。


 「……そうだといい」


 霧の風が通り過ぎ、また町の音が遠のいていく。


 「じゃあ……ミネルにとっても、ラミアは“母親”なんだな」


 「……ああ、そうだ。私がここに来られたのも、ただのロボットだからではなく、ラミアとの“繋がり”があるからかもしれない。

 どちらにしても――ラミアのことを、知らなくては」


 静かに、けれど確かに語られた言葉。

 それは“ラミア”という存在が、この世界に残した影の深さを物語っていた。


 蓮は黙って、もう一度空を仰いだ。

 その瞳には、未だ晴れない霧の向こうに、遠い決意の光が揺れていた。

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