歪み
──同時刻
馬車の内側は、もう一つの世界のように静かだった。
窓の外では風が音を立てていたが、中には別の空気が漂っている。
ミネルはまだ本調子ではないらしく、目を閉じて座席に身を預けている。
美穂が時折様子を見ながら、そっと冷えた額を拭っていた。
「……セラティス、か」
沈黙を破ったのはローレだった。
彼は肘を窓枠につきながら、気だるげに外を見ていた。
「まさか伝承の都に向かうことになるなんてな。昔聞いた時は、酔っぱらいの与太話かと思ってた」
「……お前が酔っぱらいじゃなかった日なんてあったのか?」
ホクトが静かに突っ込む。
ローレは口元をニッとゆがめる。
「俺だって一応は騎士団員様だったんだぜ? このくらいの皮肉、笑って流してくれよ」
「笑う気力があると思うか?……今回の旅が、どれだけ危ういか」
ホクトの声音には、僅かに苛立ちがにじんでいた。
だがその裏にあるのは、焦りと責任だった。
「……歪みが広がってる。空間そのものが不安定になってきてるのは、俺にも分かる。
もしかすると、セラティスに辿り着けたとしても──帰ってこれないかもしれん」
その言葉に、美穂が小さく息を呑んだ。
「だったら、なおさら急がなきゃ。ラミアの記憶が鍵になるなら、ミネルを守ることが最優先よ」
ホクトは、ミネルに視線を落とす。
彼女の顔色はまだ優れず、寝息は浅い。
「……何か、夢を見ているような顔だな」
「夢、ね」
ローレがぽつりと呟く。
「この世界自体が、誰かの夢の続きだったら……皮肉だな」
「ローレ、あなたって本当に時々、詩人みたいなこと言うのね」
美穂があきれたように言うと、ローレは肩をすくめた。
「惚れてもいいぞ?」
「ないわ」
即答。
ホクトが喉を鳴らして笑うと、車内の空気が少しだけ和らいだ。
「……とにかく、余計なこと考える前に、まずはラゼーラまで無事にたどり着くことだな」
「ええ、わかっているわ。日が暮れる前に着きたいところね」
水色の髪の隙間から、美穂の緊張を帯びた横顔がちらりと覗いた。
「おいおい、暗い夜道を馬車で駆け抜けるのが心配か?」
ローレの軽口に、美穂がピシャリと返す。
「──ふざけないで。あなたにも《《見えている》》でしょう、馬車が進めば進むほど、乱れていく空気と景色が」
その言葉に、ローレの表情がわずかに引き締まる。
耳のあたりに生えた黒い羽が、ピクリと反応する。
警戒するように、彼は窓の外へと視線を向けた。
「おいおい……マジかよ……」
森の輪郭が、少しずつ滲んでいた。
風の流れが逆行し、木々の影が妙に遅れてついてくる。遠くで鳥の鳴き声が響いた気がしたが、それが“今”の音かどうか、判別できなかった。
馬車の車輪が進むたびに、風景の一部が“前にも見たような”感覚を伴って繰り返される。
まるで記憶の中を走っているかのように。あるいは、過去と現在が重なっているような、奇妙な既視感。
「……時間が、少し戻ってないか?」
ローレが小さく呟いた。
「それだけじゃない。匂いも、色も……混ざってる。記憶と現実の境目が崩れ始めてる」
美穂の声は震えてはいなかったが、その目には確かな緊張が宿っていた。
「狭間の歪みが、時間と記憶を侵してきてるってことか」
ホクトが低く唸るように言った。
「……こっちの馬車だけじゃないわ。あの子たちの方にも、影響は及んでるはずよ。ミネルの状態が、それを物語ってる」
その言葉に、誰も反論できなかった。
ミネルはうわごとのように、かすかに言葉を紡いでいる。
耳を澄ませると、か細い声が届いた。
「……あや…………と……っ……る、な…………」
誰に向けた言葉なのか、何を意味するのかも分からない。
けれどその一言に、馬車の空気がさらに冷たくなる。
馬車の下──蓮たちの乗った馬車の地面が、かすかに“波打った”。
「……!」
理屈では説明のつかない感覚が、身体を貫いた。
まるで時間の狭間に引き込まれたような錯覚。
次の瞬間──
蓮の視界に、鮮烈な“映像”が浮かび上がる。
水底の静けさと澄んだ蒼。
その中に浮かぶ、まるで夢のように美しい都市の姿。
はっきりしないけれど、確かな存在感が、蓮の本能に訴えかけた。
「蓮……?」
隣でスミレが、静かに呼びかける。
蓮はしばらく言葉を紡げず、ただその映像を追った。
「……見えた。これが……セラティスかもしれない」
確信ではない。だが、確かに“呼ばれている”感覚があった。
セラティスは、確実に近づいている。
あるいは、知らず知らずのうちに、自分たちのほうから向かっているのかもしれない。
蓮が言葉を口にした、その直後だった。
ギッ──、
乾いた音とともに、馬車が急に軋んだ。何かが車輪を噛み、止めたかのように、その場で動かなくなる。
「……え?」
思わず漏れた蓮の声に、タオが立ち上がる。
「おい、どうした!?」
揺れの止まった車内には、異様なほどの静寂が流れていた。先ほどまで聞こえていた車輪の音も、馬の蹄のリズムも、すべてが唐突に消え失せていた。
タオが後方の小窓から外を覗く。
「……馬が動かねえ。ってか、何かにビビってる」
「まさか、また“歪み”の影響……?」
スミレがそう言った瞬間、馬の一頭がヒヒン! と高く嘶いたかと思うと、馬車がほんのわずかに傾いだ。何かに引っ張られたような感覚。けれど、それが“どこへ”なのか、誰にも分からなかった。
「降りてみよう。様子を見る」
蓮が決意を込めて言い、馬車の扉を開けた。
乾いた風が一気に吹き込む。
けれど──
そこに、もう一台の馬車の姿はなかった。
「……は?」
タオが呆然としたように立ち尽くす。
ほんの数分前まで、確かにすぐ後ろを走っていたはずの、ホクトたちの馬車。
その姿が、どこにもない。
「うそだろ……?」
スミレが顔をこわばらせ、周囲に視線を走らせる。森の奥に続く道は、さっきまでと何ひとつ変わらない。変わらないはずなのに、“何か”が、確かに失われている。
「ちょっと待って。どういうこと……? 消えた? この数分で……」
リリスが蒼白な顔で呟く。
蓮は黙って空を見上げた。
青空はそのままだ。風の音も、光も、確かに“現実”に存在しているはずだった。
けれど、それがどこか……“誰かの記憶の中”のようにも思えてならなかった。
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