風の幻獣
風を裂き翔ける幻獣の背に揺られながら、一行は言葉少なに空を渡っていた。
風都アウライアでの戦いを終えたばかりの彼らにとって、旅の終わりが近づくにつれ、胸の内には様々な思いが交錯していた。
空は深く澄み、群青から藍へと、静かに色を変えていく。
遠くでは星々が瞬きはじめ、雲海の下には、小さく瞬く光の群れが姿を現す。
それは、懐かしき街──ネイトエール。
まるで夢の中の灯火のように、その光は、帰還を告げる希望のように一行を迎えていた。
幻獣が翼をたたみ、雲をなめるように滑空する。
風が和らぎ、耳に届くのは羽ばたきと風のささやきだけ。
やがて、柔らかな風が頬を撫で、彼らは静かに、夜の大地へと舞い降りた。
「ありがとな」
ローレが幻獣の首元にそっと手を伸ばし、柔らかな毛並みに触れる。
その声は、どこか名残惜しげで、それでも温かかった。
彼はしばらくそのまま、言葉のいらない感謝を指先に込めるように、静かに撫で続けていた。
やがて、幻獣はゆるやかに頭をもたげると、もう一度だけ一行の方を振り返った。
琥珀の瞳が、何かを語るように静かに瞬く。
そして──翼が大きく広がる。
その羽ばたきは風を巻き、草を揺らし、夜気に光の粒を散らした。
静かに、けれど確かに、幻獣は再び空へと舞い上がる。
月と星の間を滑るように、悠然と空を渡っていくその姿は、まるで夢そのものだった。
誰も言葉を発しなかった。ただ、目で追うだけだった。
やがて、幻獣は光の彼方へと溶けるように姿を消す。
残されたのは、わずかに揺れる草と、澄んだ空の静寂だけ。
凛と澄んだ夜気の中には──「終わり」と「始まり」、そのふたつの気配が確かにあった。
***
ネイトエールの騎士団本部に到着した一行は、まずはそれぞれの部屋へと一時的に解散することに。
その中で、ホクトは蓮に小さく声をかけた。
「明朝、会議を開く。……皆に伝えておいてくれ」
「わかった」
蓮が頷いたその横で、ローレが足を止めた。
その視線の先に、ホクトが立っている。
夜の静寂の中、二人はしばし言葉を交わさず向き合っていた。
やがて、ローレが微かに口元を緩める。
「……まさかこうして、またお前と再会するとはな」
「それはこちらの台詞だ。風都アウライアにお前がいたとは、驚いたよ」
ホクトは静かな声音でそう返す。
だが、その視線の奥には言葉にしがたい感情が揺れていた。
「ホクト……お前は姿も、何も変わらないな」
「……ああ、それならお前もな、ローレ。これが“悪魔の血”ってやつだろうな。時間に縛られず、老いることもない。代わりに、何か大事なものを失っていくのかもしれないけどな」
ホクトの口元に自嘲めいた笑みが浮かぶ。
ローレは答えず、ただほんのわずかに視線を伏せた。
蓮は、二人の間に言葉を挟むことはしなかった。
ただ、静かにその場を離れ、廊下を歩き出す。
そして足を止めた先──そこは、タオの部屋の前だった。
廊下には夜の静けさが満ちていて、足音すら遠慮がちに響く。
「タオ、いるか?」
軽く扉をノックしても、返事はない。
(……留守か?)
念のため、もう一度。今度は少し強めに。
「おーい、タオ! 戻ったぞー! ……お──い!」
すると、部屋の奥からバタバタと足音が聞こえてきた。
慌てたような、その音。
数秒後、扉が勢いよく開いた。
「ったく、誰だよこんな時間に──って……蓮!? 無事だったのか!」
現れたタオは、なぜか上半身裸。
ズボンは中途半端に引き上げられていて、チャックも少し開いている。
見るからに、ついさっき慌てて身支度した風だった。
蓮は一瞬絶句し、それから眉をひそめて言った。
「……ああ、さっき帰ったところだ。それよりお前、なんだその格好」
その直後。
部屋の奥から、明らかに女の声が響いた。
「タオー? 平気? 誰だったー?」
甲高くて、少し甘ったるい響き。
その声に、蓮の耳がピクリと動いた。
聞き間違えるはずがない。あれは──リリスの声だ。
「……あー────!!」
タオが反射的に扉をバタンと閉め、蓮の前に立ち塞がった。
「お、おかえり蓮。本当にお前が無事でよかったよ!」
明らかに取り繕った口調で、タオは笑いながら蓮の肩を叩く。
が、蓮の堪忍袋はとうに限界を超えていた。
「……タオ、てっめぇ!」
蓮の怒声が廊下に響く。
「俺たちが風都アウライアで命懸けで戦ってる時に、お前はリリスとイチャついてたってのか!!」
「ま、まあまあまあ! 落ち着けって!」
タオは苦笑いを浮かべながら、気まずそうに耳をかいた。
その態度がまた火に油を注ぐ。
(こいつという男は……)
そんな空気を切り裂くように、足音が近づいてきた。
「蓮! 無事だったのね!」
振り返ると、そこには美穂がいた。
夜の廊下でも凛とした雰囲気は変わらず、蓮の姿を見つけて駆け寄ってくる。
「美穂! 聞いてくれよ、このタオのやつが──」
「アアアアア──!!!」
タオがあらん限りの声で割って入った。
「美穂!? なんでこんなところに……!」
美穂の視線が、タオの姿を上から下へと静かに流れる。
そして冷たい目で一言。
「……どうしたは、こっちのセリフ。廊下でその格好、どうにかした方がいいよ」
タオは顔を真っ赤にして、そっと目を逸らした。
蓮は咳払いして話を戻す。
「風都アウライアの件でな。明日の早朝に会議を開くことになった。みんなに伝えるよう頼まれたんだ」
「わかった。みんなは無事なの?」
美穂の問いに、蓮は一瞬だけ視線を落とす。
そして口元をかすかに歪めて、言った。
「……ああ。でも……スミレの翼は……」
その続きを言葉にできなかった。
美穂も、タオも、それだけで察した。
その沈黙の温度を破ったのは、美穂だった。
「……大変だったね。それなら、蓮。今すぐスミレのところに行った方がいいんじゃない?」
「……ああ、でも。スミレなら今、自室で休んでる。少しだけ一人になりたいって言ってたし──」
「馬鹿ね。そんなわけないでしょう。今すぐ行ってあげて」
美穂は少し怒ったような声でそう言い、蓮の背中を押した。
その勢いに押されて、蓮は思わず前につんのめる。けれど──
「……確かに美穂の言う通りだよな……スミレが、待ってる……それに俺は……」
続けようとして、口をつぐんだ。その足はもう止まらなかった。
「行ってくる!」
慌てて、でもどこか決意の滲んだ声とともに、蓮は駆け出していった。
そんな蓮の背中を見送りながら、タオがふと口を開いた。
「お前も馬鹿だな。素直に助言なんかするから、報われねえんだよ」
美穂は何も返さない。
ただ、ふんっと鼻を鳴らすようにしてそっぽを向き、こう呟いた。
「……上裸でズボンのチャック開けてるあなたに言われたくない」
それはまるで、完璧なトドメの一撃だった。
上裸でズボンのチャックを開けているタオとリリスのお話を、短編「狼男が恋に落ちたのは、可愛すぎる兎の幼なじみでした」で投稿しました。気になる方はぜひ見てくださいね!




