サタン 後編
ーーそれは、間違いなくさっきのサタンよりも強く、濃く、重たい圧だった。その圧に気づいた時には既に遅く、そいつは気づけば自分たちの領域内に入り込んでいたのだ。一体、いつ、どこから──。
「キアアアアアアアアアアアアアア!」
耳元で大きな奇声が響く。
「蓮、逃げて、!」
スミレの警告の声とともに、蓮とスミレは一瞬にして遠くに飛ばされる。
「ぐはっ!」
蓮は腹に穴が空いたような強烈な痛みに襲われ、その場で縮こまる。急に現れたそいつに、腹を殴られたのだ。
あまりの衝撃に一瞬意識を失うが、すぐに戻る。そして目を動かしてスミレの姿を探した。
「ス、ミレ」
蓮は力を振り絞ってスミレの名前を呼び、腹を抑えながら顔をあげる。
蓮の視界──空中には、スミレの首元を掴みケラケラ笑うサタンの姿があった。その姿は先程のサタンと同じ見た目をしているものの、大きさは二回り以上大きい。
やばい。スミレが、殺される。
蓮は咄嗟に立ち上がろうとするが、腹の痛みが邪魔をして体を一切動かすことが出来ない。スミレの名前を叫びたくても、大きな声が出せない。
自分は無力だ。何も。本当に何も出来ないのだ。
サタンは蓮には見向きもせずに、スミレを掴むとまるで玩具のようにして振り回す。
「うっ…」
スミレは抵抗しない。いや、抵抗する力が残っていないのだ。サタンは苦しそうに呻くスミレの首をさらに絞めつける。
「キアアアア゛ア゛ア゛ア゛!」
サタンは楽しそうな鳴き声をあげると、スミレを逃さまいと見つめ続ける。
そんな中、スミレは絞り出すように声をあげた。
「蓮!」
今にも喉が潰れそうな声で、彼女は蓮の名前を叫ぶ。
蓮は力の入らない腕を必死に伸ばした。スミレに届くはずもない腕を。
頼む。スミレを助けてくれ──。
意識が朦朧とする。人間の体はこうも脆いのだ。大切な人の一人すら守ることができないのだ。
蓮の視界が真っ暗になる寸前だった。
──ザクリ、とサタンの腕が切断される。
それと同時にスミレが空中から落下する。
その彼女を瞬時にキャッチする狼の姿。
それは、何が起きたのか分からないほど一瞬の出来事だった。
サタンの腕からは大量の血が流れ出す。
「グァ!?」
サタンは両腕から血を垂らしながら、その姿を確認する──。
「よくもまあ、うちの連中に手を出してくれたな」
その声が空気を破るように響き渡った。
街の中央に、ひときわ異彩を放つ男が立っている。
血のように鮮烈な赤い髪。力強く盛り上がった肩と無骨な腕――戦いにすべてを捧げた体躯だった。
顔には深い傷痕が走り、片目はすでに失われている。だが、残った隻眼が鋭くサタンを射抜き、低く唸るような声が周囲を震わせた。
男は口元にわずかな笑みを浮かべ、剣を無駄のない動きで構える。
刃先が月光を反射し、まるで冷徹な死神の鎌のように光った。
張り詰めた静寂。
空気すら凍りつくなか、男は一切の動揺を見せず、ただ静かに獲物を見据えている。
その姿は、どんな痛みをもものともせず勝利をつかむ、戦場の獣そのものだった。
「サタン、俺がお前を殺してやる」
男のそのセリフとほぼ同時に、耳が破裂しそうなほど大きな奇声が響いた。サタンの奇声である。
「キアアアァァァアアアア゛ア゛ア゛!!!」
サタンの両腕は見る見るうちに回復し、元通りの腕になる。
サタンは男の前で、怒りと憎しみを吐き出すように吠えた。その顔には歪んだ狂気が宿っており、肉体はさらに暴れ狂う。サタンの爪が鋭く男に迫るが、男は一瞬も躊躇せず、その攻撃をかわし、冷静に足を踏み込む。
「楽に死なせてやる」
男は苦しそうにそう言うと、襲いかかるサタンの喉元を瞬時に掴んだ。そして片手でサタンの首を絞り上げた。
「ギィアアアアアアアア!」
サタンは喉を締められた瞬間、苦しみの声を上げ、激しく暴れ始めた。けれど、男はその反応を無視し、さらに力を込めてサタンの喉を絞る。サタンの手が男の腕を掴み、必死に引き裂こうとするが、その力は徐々に弱まっていく。
男はもう片方の手で剣を抜いた。そして瞳孔をカッと見開くと、剣に魔力を宿しーーそのまま躊躇なくサタンの体を下から縦に裂いた。
サタンから血が飛び散る。
「ギィア゛ア゛ア゛……!」
しばらくしてサタンが地面に倒れた。呼吸がない。
サタンは抵抗する間もなく死んだ。真っ赤な血が肉塊を濡らしていた。
男は無造作にポケットから煙草を取り出し、片手でその細長い一本を軽く握る。薄暗い空気の中でその煙草がひときわ鮮やかに浮かび上がり、彼は指先でゆっくりと吸い口を口元に持っていく。冷えた空気の中、煙草のひんやりとした感触が唇に伝わり、一瞬だけ目を閉じた。
火を灯すために、ライターの小さな音が響く。その炎が煙草の先端を照らし、静かな光の中で赤く燃え上がる。男は煙草に火を付けると、ゆっくりと深く吸い込んだ。煙草の煙が彼の喉をくすぐり、わずかな苦味とともに肺に流れ込む。その味わいが、戦いの余韻を感じさせるような、何とも言えない静けさを持っていた。
煙草の煙が空中にふわりと漂い、闘志を引きずったその瞬間を包み込む。
男の表情は一見冷静そのものだったが、胸の中にはやりきれない感情が渦巻いているのがわかる。煙草を吐き出すたびに、その深い吐息が何かを洗い流すように見えた。それが彼の「勝利の一本」であることは、もう誰もが知っている。だが、その勝利の裏にあるものは、戦いの痛みや後悔が深く絡んでいるに違いなかった。
「おい、タオ。シェリーの回収は?」
男は呟くように言った。まるで自分に問いかけるような口調だが、タオーーそう呼ばれた狼に向けた言葉だった。その声に感情はほとんど感じられない。だが、どこか無理に冷静を装っているようにも聞こえる。
そんな彼に、タオはすぐに答えた。
タオはスミレを背に乗せたまま、四足歩行の姿勢で男に近づき、足音を立てずにゆっくりと歩いてくる。その大きな体が地面を揺らし、わずかな震えを伴いながら男の前に立った。タオの目は獣のように鋭いが、その声は人間のようにクリアで落ち着いている。
「シェリーなら生きてる。それより、ホクト。この人間はどうする?」
タオの言葉に、男ーーホクトは何も答えず煙草の煙をさらにゆっくりと吐き出す。目を閉じて、煙が空気に溶けるのを見届けるようにしばし静かにしていた。気がつけば、煙草の先端は紅く光り、ホクトの周りにその煙が薄く漂っていた。
沈黙がしばらく続く。
その間に、タオは無言でホクトの横顔を見つめ、何かを待っているように立ち続けている。そしてようやく、ホクトが口を開く。
「持ち帰るぞ」
その言葉は、冷たく、決意に満ちた一言だった。ホクトは煙草を最後に吸い込み、火を消すと、ポケットにしまう。その動作には無駄がなく、何もかもが済んだことを意味しているようだ。そして、彼は蓮を抱え上げ、その体を肩にかけた。
蓮の体は軽く、息も絶え絶えで、まるで重荷を抱えるようにホクトはその小さな体を背負って歩き始めた。
「……」
蓮は意識が遠く、目を開けることさえできない。しかし、心の中でその光景は鮮明に映る。
ホクトが無表情で歩くその背中が、どこか遠く感じられる。
蓮の目の前に広がる暗闇の中で、ホクトの存在はまるで浮かび上がるように見える。
ホクトの足音が響き、しかしその歩みはどこか冷たく、無慈悲なものに思えた。
「……」
蓮は、夢と現実の狭間で意識を失いかけながらも、その光景を脳裏に焼きつけるように見つめた。その後ろ姿が、今の自分には届かない何かを持っているようで、無力感に包まれる。そして、目を閉じるとそのまま静かに意識を手放していった。




