狭間の中で出会ったのは、 前編
運命はひとつ、静かに崩れた。
焦げた大地の上、風がない。
炎の匂いが鼻を刺し、あたりは静寂に包まれている。
「お願い……戻って……」
かすれた声が震える。
少女は、焼け焦げた草の間から必死に立ち上がろうとしていた。
その瞳には、途切れ途切れに涙が溢れている。
遠くに立つ少年は、背中に異形の影を背負っていた。
漆黒の翼が闇に溶け込み、彼の姿を覆い隠す。
その姿は、もう人の形をしていない。
少女は息を切らし、地面に手をついた。
それでも前へ進もうとするその手は、彼に届くことを願っていた。
「ねえ……お願いだから……」
叫びは、風に消される。
それでも彼女は何度も名前を呼び、叫び続ける。
だが、少年の瞳は遠くを見ていて、彼女を見つめてはいなかった。
その目は、何かを拒絶し、痛みと怒りに揺れていた。
燃え盛る火の粉が舞う中、彼の背後に不気味な黒い影が蠢く。
少女はそれに気づき、身体を震わせた。
「やめて……お願い、やめて……」
彼女の声は涙で掠れ、嗚咽混じりに変わっていく。
異形の影は、その黒い翼を広げ、絶望を撒き散らした。
だが、少女は怯まなかった。
「私たち、約束したよね……ずっと一緒だって……」
声は届かないかもしれない。
でも、彼女は信じている。
彼の中の何かを、まだ捨てきれていない光を。
黒い羽根が宙を舞い、世界が歪む。
何かが壊れ、何かが生まれる音だけが、虚空に響いた。
少女はそっと、祈るように目を閉じた。
「どうか、もう一度……」
――ここで物語は「今」へと戻る。
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その日、「日常」は静かに幕を下ろした──すべては、冬の一月のぬるい風から始まった。
ドッドッドッ……廊下に響く忙しない足音。続いて、扉が勢いよく開く音がした。
「蓮、仕事行ってくるからね」
スーツ姿の未彩は息子の蓮の部屋へ入り、明るく声をかけた。
「ん……」
眠そうに不機嫌そうな返事を返した蓮は、すぐに布団を頭までかぶってしまう。
未彩は気にすることなく、大きな声で続ける。
「お昼は適当に済ませてね。それじゃ、行ってきます!」
そう言うと未彩は軽く手を振り、部屋を出て行った。
外から車のエンジン音が聞こえ、未彩が出勤したことを知らせる。
「ふぁ〜」
大きな欠伸とともに、蓮はゆっくりと瞼を開けた。
──1月5日。
カレンダーを破り、日付は5から6へと変わる。
高校最後の冬休みも残りわずか。あと三日。
今日の過ごし方をぼんやり考えながら、重い身体を起こす。ベッドから降りてカーテンを引くと、窓からは柔らかな陽光が部屋を包んでいた。
庭に目をやると、昨晩降った雪は一片も残っていない。
小さくため息をつき、机の上に置かれたリモコンに手を伸ばした。電源を入れると、テレビからアナウンサーの声が流れ始める。
「今日は洗濯日和です。昨日に比べて暖かくなるでしょう」
寒そうに身を縮め、蓮は近くのクローゼットを開けて靴下を取り出し、素早く履いた。続けてハンガーから、少し膨らみのある黒のダウンジャケットを取り出し、羽織る。
テレビを消し、階段を降りると玄関には使い古した靴が一足、静かに置かれていた。
「ふぁぁ」
二度目の欠伸が響く。
蓮は靴に足を入れ、扉を開けた。
「行ってきます」
冷たく小さな風が頬を撫で、近所の犬が吠えた。すぐ近くの公園からは子どもたちの楽しげな声、遠くからは自転車のベルがチリンチリンと鳴る。
「よっ、蓮、おはよ!」
「おっはよーう、蓮!」
幼なじみの快人が自転車に乗ってやってきた。その後ろには、いつも通りはな美が乗っている。
「はな美、また快人の後ろに乗ってるのかよ。そろそろ自分で漕げよ」
「え〜、じゃあ蓮が乗せてくれる?」
風に揺れるはな美の髪は一つにまとめられ、陽の光を浴びてツヤツヤと輝いていた。
「いや、それは勘弁だわ。快人、今日もはな美を頼む」
「はっはーん、了解! それじゃあ行こうぜ!」
快人はキャップを深くかぶり直し、勢いよくペダルを漕ぎ出す。
「おい、ちょっと待てよ!」
蓮は慌てて屋根下に停めていた自転車にまたがり、ペダルを漕いで快人の後を追った。
チラチラと後ろを振り返るはな美は、舌を出して蓮を煽ったり、ニコニコと手を振ったりしている。
通り過ぎる近所のスーパーや公園、本屋には目もくれず、三人はただ一目散にペダルをこいだ。
途中、いつも見かける猫のクロスケや新聞を読むおじいちゃん、タバコを吸う兄さんとすれ違ったが、蓮は気にも留めなかった。
二十分ほど走り、町の端に差し掛かる。目的地が近づくのを感じ、風が心地よく頬を撫でる。その風は、まるで彼を歓迎しているかのようだった。
蓮は少しペダルを緩め、周囲の風景に目を向ける。ゆったりと流れる時間に包まれながら、確実に目的地へ辿り着いた。
「よっしゃー着いたぞ、蓮!」
快人が自転車を止めると、蓮も隣に停めて大きく息を吸い込み、ゆっくり寝転んだ。目を閉じると、森の静けさがいっそう深く感じられた。
「蓮は本当にこの森が好きだな。お前が教えてくれなかったら、ずっと知らないままだったよ」
隣で寝転ぶ快人が笑った。
ここは蓮が数年前に見つけた、名前のない静かな森だった。
もともと人付き合いが苦手で、一人の時間を大切にしていた蓮は、よくこの森で昼寝をしていた。
しかし幼馴染の二人に知られるのは一瞬で、今では三人だけの秘密の場所になっていた。
「それにしても本当に綺麗だよね。冬なのに、どうしてここの草花は枯れないんだろう」
はな美も二人に続き、その場で寝転んだ。草花に覆われた芝生からは心地よい香りが漂い、木々の隙間から差し込む陽の光が三人を暖かく包んでいる。
風に揺れる葉の音、草が重なり合うカサカサとした音、遠くでせせらぐ川の流れ──。
なぜだろう、この場所は蓮にとって何より落ち着く場所だった。初めて見つけた日から、ずっと。
耳を澄ますと、鳥の鳴き声や小動物が木を歩く音──いつもと変わらない森の気配。
だが、どこか違った。
森の奥から、耳の奥をくすぐるような、妙なざわめきが聞こえる。
そして気づくと、どこからともなく響いてくる女性の──歌声──?
まるで幻聴のように美しいその声に、蓮はじっと耳を傾け、意識を奪われていた。
「ああ、心地いい……まるで──空の上にいるみたいだ」
小鳥の群れが青空を舞い、こっちにおいでと誘うように広い空を羽ばたく。
ああ、俺も今すぐそっちへ行きたい──そう思い腕を伸ばした瞬間、群れの中の一羽が急に落ちていく──。
「待って、落ちたらダメだ!」
蓮は引き戻されるように目を見開いた。鼓動が早まり、冷や汗が額を伝う。
「今、聞こえなかったか?」
「え? 聞こえたって、何が?」
快人とはな美は首をかしげるが、蓮には確かにその歌声が聞こえていた。透き通り、まるでこの世のものとは思えない美しい声だ。
今も耳の中で鮮明に響いている。
「あっちからだ! ごめん、快人、はな美。俺、行かなきゃ!」
心臓の鼓動が何かを告げている。
その一歩が、すべてを変えることになるとは、まだ知らずに──。
書籍化を目標に魂を込めて頑張ります!
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