今日はいいか!
天気はすっかり快晴になり、青空が見え始めた食品会社「鉄の素」支社ビル屋上。
三人の男が、手すり越しに、まんじりともせずずっと同じ景色を見ていた。見守っていた。
100m先にあるビルの屋上の、手すりの上に、靴を脱いで座っている女性は、そこだけ時間が釘か何かで固定されたかのように固まっている。
三人の男の後ろにある、屋上の扉が開き、また人が入ってきた。
中年の男性である。恰幅の立派さが、高い地位の人間であることを思わせる。
男性は、苗山、山口、渡瀬が屋上にいる事を確認すると、黙って三人に近づいた。
「サボりは関心しないよ」
声をかけられ、三人は振り向いた。
「あ! すいませんでした!」
苗山は慌ててタバコを消した。
山口、渡瀬も同じ行動をとった。
「すいません! 休憩終わってるの気づかなくって!」
「何を見ていたんだね。多田くんと床田くんは? 一緒じゃ無いのかね。
あまりにも事務所に人が居ないから何かあったのかと思ったじゃないか」
「何かは……あったんですがね。
仕事の方が大事です。すいませんでした。すぐ戻ります」
苗山、山口、渡瀬は慌てて屋上を降りる前に、三人同時に一瞬、女性の方を向いた。
その行動を、上司と思われる男性は不思議に思った。
「『何かあった』って、何があったのかね?」
「いや……」
苗山、山口、渡瀬は互いに顔を合わせたが、説明が面倒くさかった。
「なんでも無いです」
苗山が代表して言った。
「……何か隠してるね? 苗山くん」
この上司は妙に鋭い時があった。
三人は、また顔を合わせた。
確かに、説明責任を果たさないとそれこそサボりだと思われる。それは三人にとっても本意ではなかった。
苗山は、手すりの向こう側に指を刺した。
「あれです……」
「なに」
上司はメガネをかけて、手すりに近づき、苗山の指差した方向を見る。
手すりに、またもや男たちが並んだ。
「……お!? おおお!? きみ!! これは!! 大変じゃないか!?」
上司は突然慌て出した。
「警察は!? 呼んだのかね!?」
「あー部長、そのくだりは、もう『やりまして』」
「なんだ『やった』ってのは。呼んだのかね」
「いや実際事件が起きたわけでは無いので、警察を呼ぶのは適切では無いという結論に至りまして……」
「そんな薄情な……おーーい!! やめたまえーー!!」
部長と呼ばれた男は、大声を出した。
渡瀬は思わず後を向いて笑ってしまった。それを見た苗山は、渡瀬の頭をはたいて、
「あ、部長、それも『やりました』
届かないですよ。この距離だと」
「じゃあ何か!? 君たち三人は、こんな一大事をただ見てたのかね!?」
「俺はあのビルまで走ろうとしましたよ」
鬼の首をとったように、渡瀬が答えた。
「そうとも渡瀬くん! そうするべきだ! ……なんでまだ行かないんだ!?」
渡瀬が慌てて屋上から出て行こうとするのを、苗山が首根っこを掴んで取り押さえた。
「なんすか! 離してくださいよ!」
「ばか!! お前が走っていって、間に合わなかったらどうすんだ!! あの女性の自殺にお前が関与してるって思われるぞ!?」
「部長命令ですよ!!」
「それよりも仕事だろう! 俺たちは救命士じゃなくてサラリーマンだ!」
「でも部長命令ですよ!」
「……いや、苗山くんの言う通りかもしれん。他社の事情に口を出すのは野暮というものだ」
突然態度を変えた部長に、渡瀬は戸惑ってしまった。
「え……あ……あす」
結局、休憩時間が終わっても、四人並んで、手すりから100m先の女性を見ている。
不思議な時間が流れる。
「山口くん」
部長は女性を見ながら山口に話しかけた。
「はい」
「スパイシーチキンバー、チョコレート味の方の進捗は?」
「工場に見積もりを出してもらって、今待ちの状態です」
「うん。あれはいいぞ。あれは当たる。社長も喜ぶ事だろう」
「はあ」
そう言いながらも、四人とも視線を別に移そうともしない。ただ、女性を見守っていた。
ややあって、また、後ろの扉が開いた。
入ってきてのは、床田という女性社員だ。
その後ろから……
「待ってくれ床田!!」
と、多田も入ってきた。
多田は、屋上に、部長がいる事を確認し、慌てて時計を見た。
「あ……申し訳ありません。昼休憩終わってた……すぐ戻ります」
「うん」
部長は、話しかけられ、多田を見もせずに答えた。
多田は、相変わらず苗山、山口、渡瀬の三人が先ほどと同じ姿勢で同じ方向を見ているのを確認し……
「どう?」
と声をかけた。
苗山は、多田に、
「硬直状態っす」
と返した。
「あ、そう」
なんとなく、多田も、四人の列に並び、先ほどと全く変わらない女性を見た。
ややあって、それどころじゃないということに気がついた多田は、
「そうじゃない! 床田!」
と、屋上の入り口で小さくなっている女性社員、床田に声をかけた。
「……すいませんでした。多田課長……」
床田は、泣きそうな声で多田に返事をした。
「昨日は……酔ってたんです。それで私……」
「うん。うん」
床田はついに泣き始めた。
苗山だけ、そのやりとりが気になり出して、女性を見るかたわらで床田の事を目の端で、交互に眺めた。
「酔ってたんです……許してください……」
「怒ってないよ。僕は」
多田は、ようやく自分の気持ちが伝えられて、一息ついて、そして再び100m先の女性を見た。
すると、事態を不思議に感じた床田が……
「……みなさん、何を見てるんですか?」
「「「「え? 別に」」」」
四人とも一斉に床田を見ずに答えた。
「え? なんですか?」
床田は瞬時に泣き止み、多田の隣までやってきた。
山口が、肘で苗山を促すと、苗山は面倒臭そうに100m先のビルの屋上にいる女性を指差した。
「え?…… ……あ!! え!?」
床田は慌てて、スマートフォンを取り出した。
「……何をしているのかね床田くん」
部長が床田の慌てている様を見て、何をしているのか実際わかっていながらも問いただした。
「何って、警察ですよ!」
「「「「それはもう『やった』」」」んすよ」
苗山、山口、部長、渡瀬が口を揃えて言った。
「……あ、もう通報したんですか」
「違う。まだ事件になってないだろ?」
苗山は大きなため息をつきながら、この短い間何回言ったかわからない文言を繰り返した。
「でも……これって……え……どうしようも無いんですか?」
「どうしようもないんだよ」
苗山は、無感情に答えた。
「不思議だなあ」
部長が口を開いた。
「この景色。目に見えているのに、我々は何もできないんだ。
これでは我々はただの観客だな」
(それももう『やった』んですよ3度目ですよ)
という言葉を苗山は飲み込んだ。
食品会社「鉄の素」支社の屋上の手すりに、六人の男女が並んで、何をするわけでもなく、
100m先のビルの屋上を見ている。
「こんな時に言う事じゃないですけど……」
床田が沈黙を破った。
「いえ、一周して、こんな時だから、……多田さん、昨日の『答え』聞いてもいいですか?」
「え? 今かい?」
「なんだか、今なら、何言われても大丈夫な気がします」
「ああ、そう……」
多田は一応、当たりを見回した。床田以外は、モアイ像のように100m先を眺めているだけなので、
確かに何を言っても許されそうではあった。
「……いいよ。結婚しよう。床田」
「「「「「え? 」」」」」
五人の視線が、一斉に多田に向けられる。
「あ、ほら、やっぱりここじゃまずかったんじゃない?」
多田が頭を掻くと、部長がふくれっ面になった。
「そうじゃない! 君たち、昨日の飲み会で何があったんだね! どうりで途中から姿が見えないと思ってたんだ!」
「……すいません。言っていいの?」
多田が聞くと、床田は恥ずかしそうに頷いた。
「プロポーズ……されまして。床田から」
流石に苗山、山口、部長は体を多田に向けて、拍手をした。
「大事件じゃないかこれは!! 我が社きっての独身貴族多田が、ついに年貢を納めるのか!!」
「そんな、大袈裟な事じゃないですよ!」
「いいや大事件だよ! なあ!!」
部長が苗山、山口を話に巻き込むと、
二人とも力強く頷いた。
「おめでとうございます! 多田課長!
ようこそ結婚という名の牢獄へ!!」
山口が大声で言った。
「いやあ、めでたいな。めでたい事だよこれは。
なんだか……」
部長は、多田と100m先の女性を交互に見ながら、
「なんだか、今日はいいか!」
「『いいか』とは?」
苗山が不思議そうに部長に聞くと、
「もうあと1時間くらい、いいか仕事は! そうだ! 事務所の連中みんなここに呼ぼう! 晴れたし!
披露宴の前祝いだ! 」
「え……え……」
多田は部長と、100m先の女性を交互に見た。
床田は、恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに下を見ている。
そこに山口が、
「水を指すようですがー……」
「なんだ山口くん! 野暮は許さんよ!?」
「いや、そういえば明日コイツ(苗山)の誕生日でして……」
「あ!! なんだ!! そうなの!? それならついでにそれだよ!! 前祝いだ!! 晴れたし!!」
「え、部長、いいんですか?」
苗山も、部長と100m先の女性を交互に見た。
「いいんだよ! いいんだ! めでたいことはみんなで祝おうじゃないか!! 我々は大手の会社だよ!?
そのくらいの余裕を持たないで何が大手だ!」
部長はすっかり乗り気である。
100m先の女性は、六人の人間に見つめられてることなどつゆ知らず、ただただ真下の道路を見ていた。