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ぶっちゃけ名前のあるモブキャラ程度なんよな

弥助騒動についての個人的な見解


なんか弥助がサムライとか持ち上げられてると思ったら、外国の小説家が歴史学者面してデマを流行させてたらしい。まあそもそも外国人の思うサムライがフィクションにおけるサムライであって実際歴史上にいた侍と違ってそうって問題もあるんだけど、無い話がもりもり盛られてスーパーヒーローみたいにされている。実際には一ページで書きまとめられる程度にしか一次資料のない人物なのだが。外国人は日本人がどれだけ記録魔か知らないからそんな無茶苦茶な捏造が通ると思ってるのかもしれない。資料がないことが逆にある種の情報になる程度にはあらゆる情報が残ってるんだよな。無いものは無い。

一定の信頼のおける一次資料で弥助のことが記されているのは彼を連れてきたイエズス会の記録と、信長公の家臣の一人の残した信長公記、同盟相手の家臣が残した家忠日記の三種類。それも弥助本人の発言は載ってない。ほぼ周囲の人物の反応行動のみ。内容でざっくりまとめると、1851年彼は宣教師によって日本に連れてこられた。信長に引き合わされ、その黒い肌が塗り物でないことを確かめられ(上半身を脱がされ、水で洗われたともいう)気に入られたので信長に召し抱えられた。装飾された短刀と弥助という呼び名を与えられ、住居と扶持米(給料)を与えられた(およそ相撲取りが召し抱えられた時と同じ待遇)。多少は話せた(片言?)ので信長に外国の話をするなどして喜ばせた。偶に道具持ちをした。牛(黒毛和牛)のように黒い肌をした身長六尺二分(182㎝くらい)の健康で十人力(おそらく身体相応程度で怪力ではないということ)、恐らく26,7才くらいの男性。イエズス会の記録によると1852年6月の本能寺の変にも信長軍と共に本能寺に来ていたらしく、居合わせている。ただし、同軍の人間と共にいて、暴れていたところを明智光秀に見つかり、大人しく刀を渡せと言われてすんなり渡し、光秀に「外国人だし、獣みたいなものだから」と助命されてイエズス会に帰されたとのこと。以降の記録はない。また、家忠日記は信長軍の一員として戦場についていったらしいことは伺えるものの、信長に仕えてから本能寺の変に至るまでの幾つかの戦における戦功者の記録に名前がない。恐らく、戦闘に直接参加はしておらず、そもそも戦闘スキルがあったのか、敵味方の区別がついていたのかも不明。(多分まだ親しく接した者以外日本人の区別がついていなかったのでは?彼の故郷に日本人はいなかっただろうし)この頃、信長は自身が戦場で前線に出ることはなくなっていたため、側仕えをしていたなら同じく前線に出ない方が自然。

仮に弥助が織田軍で出世したとすれば、そのロールモデルにできるのは元々軍内にコネのない身分もない人間ということで秀吉公だろう。つまり、①戦功を上げる②織田軍内の士族の娘と婚姻を結ぶ③派閥を作り出す。この三つが不可欠である。ちなみにどれも記録にない。本能寺の変がなければそうなった可能性もあるのかもしれないが、残念ながら弥助が信長に仕えた期間は一年ちょっとで他の織田軍内の人間との交流記録すら残っていない。変の後に改めて他の武士の家臣になることもなかった。

某フィクション小説において弥助のスペックはもりもりに盛られているそうだが、逆に言うとそれくらいハイスペックにしないと彼の主張するような活躍はさせられなかったのである。実際には信長への譲渡もイエズス会への返還も一切揉めないし引き留められていないことからして、並程度のスペックだったと考えられる。信長に気に入られたのも黒い肌が珍しかったのであって、"彼"である必要はなかったのだろう。当時、日本に黒人は外国人が連れてきた分しかいなかったのである。また公に奴隷制がなかったため、黒人奴隷も身分の低い外国人にすぎなかった。白かろうが黒かろうが、文化言語の異なる異国人であることに変わりない。西洋人のことも南蛮人(南の方から来た野蛮な人々)と呼んでいたくらいである。

また長身だったといっても、実は信長的にそこまででもない可能性がある。先述の通り、弥助は182㎝くらいだが、信長は170㎝ほど。更に彼の家臣には185㎝くらいという記録のある者がいたり、関わりのあった武将の中に190㎝ほどの長身と伝わる人間もいる。栄養状態のいまいちな農民たちを含めれば平均身長は150㎝代になるが、武士に限って言えば似たような身長の日本人はちらほらいたのである。

更に言えば、武士および侍は武力だけでは務まらない。文武両道をこなせねば無粋なのである。漢籍に親しみ、和歌を詠み、茶道に通じるような教養もいる。一年では付け焼刃にも身につくかわからない。物理的に学ぶ時間が足りるか怪しい。また当時の戦におけるメインウエポンは実は刀ではなく弓である。勿論鉄砲隊もあったし、騎馬隊のある軍や槍を主に使う武士も多くいた。ついでに言うなら刀も一年ばかりでは扱いの身につかない日本独特の武器であり剣術である。武家の人間が幼い頃から習い修める文武の知識と技術を、何の素養もなく、習い親しんだ言語の違う外国人が一年で身に着けるのはまず無理だろう。そもそも教導者が用意されるかすら怪しい。彼にそれらの知識を与えるためには教導者自身が一人前の武士であり、彼と同じ言語を十二分に身に着けている必要がある。そんな有用な人物を教育係につけるような理由が信長側にないのである。当時はそんな平和で暇のある時期ではないので。




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