嵐の前のひと時①
明衣が帰って間もなく、再び玄関の開く音が聞こえて来た。
「乱はいるかい?邪魔するぜ」
カリンたちが話しているところに誰か訪ねて来た。
「今日はやけに客が来る日だな」
乱がぼやきながら玄関先を見に行くと、顔と腕に模様のある中年より上、高齢よりは下くらいの男性が玄関に腰かけていた。
「伊佐治の旦那、こちらに来るとは珍しい」
「いや、最近どうかと思ってな。少し出ないか?」
乱は好都合というように口端を上げた。
「天外、少し出てくる」
「あいよ!」
わざと奥に居る天外に向かって大声で言う。まるで、今この家には天外しかいないと伊佐治に知らせるように。
乱と伊佐治の二人は、乱の家から目と鼻の先にある茶屋に腰を下ろした。
店内には数人の客が居て、それなりに賑わっていた。
ファミリーレストラン風の制服に身を包んだ女性にそれぞれ飲み物を頼み終えると、先に伊佐治が口を開いた。
「最近人宿はどうだ?順調か?」
伊佐治という中年男性が先に口を開いた。
人は一世を終えると、通常、自分の過去に縁のあった家族や親族、友人知人といった”眷族”の元へと戻るのだが、時にはある理由でそういった自身の眷族の記憶を失くしている場合がある。
人宿とは、修羅界に過去世の記憶がない者を一時的に自分の縁者として身請けをする修羅界ならではの職業である。
「ああ、特に問題はない。そっちはどうです?」
「俺のほうは少し前に一人身請けしたんだが、千城寺っていう自分の名前以外の過去の記憶がないのをえらく気にしててなぁ。記憶がないのは珍しい事じゃないと言ったんだが、部屋にこもっちまって姿を現さないときたもんだ。木板は渡してやったから切紙様に見つかる心配はねぇと思うだが……参った参った」
「確かに記憶がなければ自分の縁者の元へたどり着けないからねえ、焦るのも無理もない。それで、記憶がない理由は話してやったんですか?」
「まさか!それは記憶が戻った時に嫌でも知ることになるんだ。俺がわざわざ言わなくてもいいだろ」
乱はそれもそうだとばかりに、椅子の背もたれに寄り掛かる。
「それより役回りはどうだ?」
「それも特に問題はないですよ。旦那や明衣たちが単独で動かなければよりいいんですがね」
「俺は乱と違って一人で動くのが性に合ってんだ」
伊佐治は豪快に笑った。そんな伊佐治にもの言いたげな視線を投げながら乱は背もたれから体を起こすと、テーブルの上に両肘をついて指を組んだ。
「旦那、わざわざこっちに来たんだ、そんな普通の話をしに来たんじゃないでしょうよ」
乱の言葉に伊佐治はまた豪快に笑った。
「何だ、俺がここに来た本当の目的を知ってたのか」
乱は何も答えず、伊佐治の次の言葉を待っていた。
「そんなに警戒するなよ。この前、天外と一緒に歩いている女の幼子の新入りを見かけてな。その後どこに行ったかわからねぇんだが、誰が身請けしたかお前、知ってるか?」
その時、月代の頭髪をした着物姿の男性が、二人が頼んだ飲み物を盆にのせてやって来た。飲み物をそれぞれの前に置く。そして男性が去っていくと、中断していた会話を続けた。
「ああ、同じ人物かどうかは知らないが、俺も最近一人身請けしましたよ」
「ああ、やっぱりなぁ。同じ人物に決まってるだろうよ、あの嬢ちゃん目立ってたからな。お前が見つけねえ訳がねぇと思ってた。あの嬢ちゃん……ここの者じゃないのはわかってるよな?」
視線をようやく乱へと合わせる。嘘をついてもすぐわかるぞ、というような意味を含んでいた。
「ああ、わかってます。しばらく預かるつもりですよ」
「預かる……?おめぇ、面倒を承知でか?」
「面倒?とんでもない。素直でいい子ですよ」
「はは、それなら心配いらねぇか。だが悪い事は言わねぇ、早くあの嬢ちゃんを現世へ戻してやんな。俺たちにあの子は必要ねぇ。ここにいるべきじゃあねぇんだ」
◇
明衣とのあまりの長話に様子を見に来た天外だったが、特に問題ないとわかると再び階下へと降りて行った。お互い一人になりたいと思っていたが、乱の指示なので仕方ない。天外はせめて、カリンから距離を置いた場所からカリンを護衛する。
再び咨結と二人になったカリンは窓のすぐ下に座り込むと一息ついた。咨結もちょこちょこと膝立ちでカリンに歩み寄ると、隣にくっついた。
子供のように見えるが、子供とどこか少し違うその人懐っこさは、思わず頭を撫でてやりたくなる。
現世では自分に近寄ってくる人は皆無なのに、咨結はそうではない変わった子。
ほぅ、と深呼吸し咨結の頭に手を伸ばす。
ざんばら髪は見た目とは違って、ふわふわしていていつも触れてみたいと思っていたが、見た目通り軽い感触だった。
咨結の髪を撫でているカリンの心は落ち着き、そして撫でられている咨結もとても心地よさそうだった。だんだんと姿勢を崩し、うつぶせになり両肘をついた。
言葉を交わさなくてもいつも傍にいてくれる咨結に、現世で出逢えていたらどれだけ心強かったろうと思った。
そしてうつらうつらと眠気が襲ってきた咨結は、気付くとすでに寝息を立てていた。
寝入ってしまった咨結の髪から手を離すと窓から庭を眺める。相変わらず現世にいるのとまるで変わらない世界が広がっている。
同じ世界なら現世に居るよりも、この世界の方が自分の過去を知る人がいない分、しがらみのようなものがなくなってむしろ晴れ晴れしいような気さえする。死の世界だというのに。
この世界で人生を続けられたら上手くいくかもしれない、と、想像の中の幸せな自分を思い描いてみる。
今までの人生が嫌であったし、こんな人生がずっと続くのかと思うと絶望でいっぱいになる。そして自己肯定感の低すぎる自分が心の底から大嫌いだった。
そもそもどうしてそんな自分になってしまったのか、いつから自分を嫌いになっていったのか、きっかけを思い起こしてみる。
"誰にでも幸せになれる権利がある"———物心ついた頃にはすでに生きることに疑問を持ち始めていたカリンだったが、いつの頃だったかその言葉が頭に現れた。
その言葉は、辛い事があってもいつか必ず幸せは訪れるのだと信じ、自分自身を支えた。
しかし、その言葉に裏切られる出来事が起きた。
それはいつだったろう……。何が起きた?
”———そう、まるで生き地獄———”
「随分と険しい顔をしていますね」
カリンはその言葉に我に返ると、辺りを見渡した。視線は庭を見下ろしていたが、物思いにふけっていたせいで実際は全く見えていなかった。声のする方に視線を向けると屋根の端の方に、色白の中性的な男性が腰かけカリンの方を見ていた。
「ふふ……」
あまりに美しく透き通るようなその姿の人物を前に、カリンは緊張し、体が金縛りにあったように動かなくなった。
咨結に何か声を掛けようとそちらを向くが、咨結は心地よく寝入っている。仕方なくすぐに視線を男性の方へ戻すと、男性の姿は消えていた。例えるなら天使とでも言うのか。大げさかもしれないが、そのくらいの特徴を持った人物だった。
「親方様、ただいま役回りから戻りました」
色白の男性は居間にいる乱の前へと姿を現した。色白の男性とは白木蓮であった。
「ご苦労さん」
伊佐治と話を終え屋敷に戻ってきた後、乱は途中だった書き物の続きをしていた。
天外は壁に寄り掛かり目をつぶっていたが、白木蓮が戻るなり手招きをして自分の側に呼び寄せた。
「白木蓮、カリンの縁者の手掛かりは何か見つけたか?」
乱に聞こえないよう、声をひそめて話す。
「いえ。残念ながらまだです」
「何?!」
天外は思わず大きな声を上げた。
文机から視線を上げた乱が天外と白木蓮の二人を不思議そうに見やった。天外は口をぎゅっと結ぶ。乱は首を傾げると再び書き物に戻った。
「そんなすぐには見つけられませんね。手掛かりもないので……」
「おい、そんなこと言ってないでお前ならなんかわかるだろうが、役回りしてるんだから。近からず誰かしらカリンを見知った奴と接触してるはずだろ?ちゃんと確認してるのか?」
「……何をそんなに焦っているのです?まさか……?」
天外は早くカリンを現世へ戻したくてたまらなかった。カリンの世話係という役目も不満だったが、それよりも自分の信頼する乱を、いつも乱の側にいた自分の居場所をカリンに奪われたような気がし始めていた。