一念化生(いちねんけしょう)
一念化生、仏語。
心を集中して念じることにより、他の姿に生まれ変わること。
乱が階下へ降りると、玄関先に雨で濡れた天外が手ぬぐいで髪を拭いていた。
「おかえり。どこに行ってたんだ?」
天外は顔を覆っていたびしょ濡れの黒い布を取りはずしていると、乱がいつになく嬉しそうな顔をしているのに気が付いた。
「?……何かあったのか?」
「いや、何もないが」
乱の返答に苛立ちを覚える。
「俺は日陰者だからと、表に出るようなことはするなと言ったのは乱だよな?その俺に何の相談もなしにいきなりカリンの世話役をおしつけて一体どういうつもりだよ?あいつの縁者だっていう紅梅がいるうちに、せめてどういう関係かを教えてやったらいいじゃないか。そうすれば現世へ戻ると言い出すかもしれねぇ」
「紅梅なら転生の迎えが来たよ。俺だって紅梅に会わせようと思ったさ。だが、あいつはしばらくここに残ると決めたんだ。それを尊重してやりたい。だからあいつが現世へ戻るまでの間、あいつがここの住人に傷つけられることがないようくれぐれも目を離さないでくれ」
「いくら現世の魂とはいえやけに過保護だな。そこまでする義理があるのか?……うん?お前、俺に何か隠してたりしないか?」
「これから紅梅を来世へ送ってくる。いいか、あいつの事は今はしばらく一人にしてやってくれ」
乱は天外の問いには答えず、引き出しからひもを取り出すと肩まである髪をざっくりと一つに束ねた。そして闇に包まれた雨の降る外へ続く玄関の戸を開ける。それと同時に、障子の奥に身を潜めていた紅梅が姿を現す。
「おい、乱!」
乱は天外が呼び止めるのに少しも気に掛けることなく、紅梅と共に雨の中へと消えて行った。
天外はどこかよそよそしくなった乱の背中を静かに見送るのだった。
「隠し事をされたらお前に恩を返せないじゃねぇか……」
◇
———あの子がまだ私を覚えててくれているからこそ、まだ縁が繋がっていられる———
重く薄暗い空。体にまとわりつくような湿った雨。
乱と紅梅が向かった場所は香寿堂という、乱と咨結がカリンと初めて出逢った場所である。
紅梅は髪が肩程までの短髪に着物に身を包んだ中肉中背の姿で、目は終始閉じたままだった。
香寿堂の境内に着くと、カリンが座っていた神木へと向かった。と、神木の手前で紅梅は自分の手を引いていた乱の手を離し、手探りするようにしながら神木の前に立つ。
「心残りはないか?」
「はい、やり残したことは昨日終えましたし、同じ時を一瞬でも過ごせて本当にありがたいことでした」
ふう、とため息を吐く乱。
「そうじゃなくてだな。本当にあいつに会わずにこのまま来世へ輪廻していいのか?」
乱が言うあいつとはカリンの事だ。誰しもが必ず自分と同じ意見、考え、気持ちであるとは限らない。しかし……時と場合にもよるだろう、と一人で焦る気持ちをなんとか落ち着ける。
「いつもすれ違いばかりですが、いつか必ず会えます。あの子が私を覚えててくれている限り、縁はつながっていますから心配はしていません。次はどのような姿で会えるのか……それが今から楽しみでなりません」
ほほ笑みを浮かべた紅梅の表情に迷いといったものはなく、明らかに希望でいっぱいの様子だ。どのような姿だろうと、カリンと会えることが何よりの幸せ。そのいつの日かまで縁が続いて行くことが何よりの報いなのだという揺るぎない思い。
「あの子をからかうのはほどほどにしてやってくださいね。それではあの子をよろしく頼みます」
「わかってる」
乱は紅梅の言葉に一瞬ぎくりとしたが、冷静を装ったまま差していた傘を閉じて足元に置いた。そして懐から数珠を出し両手を合わせる。
「四無量心を学びし魂、修羅神の名の下にここに汝を解放する。諸法無我、色即是空……」
乱が言葉を呟きはじめるとどこからともなく蝶が現れ乱の周りを舞う。昨日障子をすり抜け紅梅の部屋へ入っていったのと同じ蝶だ。
乱の差し出した右手に蝶が止まる。すると、同時に紅梅の体はみるみる炎の光のように姿が変わっていく。紅梅だったその光は一滴の雫のように乱の手に止まっている蝶へと落ちて合わさると、蝶は大きな光をまとったまま神木の中へと消えて行ったのだった。
薄暗かった空間を照らしていた光は消え失せ、降りしきる雨音だけが残る。
乱は俯き、一人呟いた。
「紅梅、お前さんは会わない辛さを選んだが……俺はやっぱり、顔を合わせることもなく生まれて間もなく亡くなった、あいつの弟だったと教えてやりたかったよ」
◇
昨日から降り続いていた雨は、乱が家に戻る頃にはすっかり止んでいた。
天外は水たまりに紫陽花が反射する庭を、居間で一人、気だるそうに眺めていた。
「あいつは?」
「まだ二階だよ。さっき咨結も二階に行ってそれっきりだ。咨結の奴、カリンにべったりだな、話をしたがらない似た者同士で気が合うのかねぇ」
天外は視線を庭から乱へと移す。
「それにしても……紅梅は本当にカリンに会わないまま来世へ行ったんだな。さっさとカリンを連れて一緒に現世へ行けば良かったものを……」
「そうあいつを邪険にするなよ。それより今日は明衣のところへ連れて行ってくれ」
「明衣!?勘弁してくれ、あいつはいつもガミガミとうるさいくてたまらねぇ!乱が連れて行けよ」
天外は乱の言葉を聞くなり、自然と鼻息は荒なり両手に力が入る。それを見て乱は涼しい顔をして笑っている。
「そうしたいところだがこれから客が来るんだ。もし白木蓮がここにいたら、”明衣に限らずお前はどうせ誰でも苦手だろう”とか言われてただろうなぁ」
「くそっ、白木蓮の奴もいつも人を小馬鹿にしやがって……、どいつもこいつも!どうして俺が明衣の所へ行かなきゃならねぇ!」
こうして仙夾の一言を頼りに、カリンの縁のある人物を求めて明衣に会いに行くこととなった。
◇
窓の外には自分がいた世界と変わらない姿の人たちが、自分がいた世界と同じように日常生活を営んでいる風景が広がっている。
現代風のスーツに身を包んだサラリーマンもいれば、時代劇に出てくるような刀を腰に差した姿の青年、カリンと同じように袴に身を包んだ女学生たちもいる、やや変わった景色ではあるが……。
そんな日常風景を見ていると、聞き覚えのある笑い声が聞こえて来た気がした。
この声は誰の声だったか、思い出しそうで思い出せない。カリンは過去の記憶をひっくり返して、思い出せる限りの色々な顔を思い出浮かべていく。
再びまた聞き覚えのある柔らかい笑い声が耳を撫でる。
カリンは右から左、左から右へと目を凝らす。すると目に飛び込んできたとある人物に、カリンは思わず目を見開いた。
その人物とは襟が白い水色のシャツの上に紺のブレザー、チェック柄のスカートという学校の制服に身を包んだ、村上知心という名の高校時代の同級生だった。同じクラスになったことはなかったけれど、ある時体育の授業で、偶然彼女も体育を見学していた。その時初めて話したのだが、思わぬほど気が合い、それ以来仲良くなった数少ない友人の一人だった。
だが、成人式を迎える二十歳の年に、自宅のベランダから飛び降りて自ら命を絶ってしまっていた。
咨結がカリンの様子に気付き、心配そうな瞳で見つめる。カリンはその心配振り払うように、咨結の手を握った。
知らぬ間にいなくなってしまった彼女が、今、目の前にいる。声を掛けるべきか———もし探している人物だったとしたら、会えば現世へ戻ることになってしまう。だけど、今はまだ戻りたくない、という思いが強かった。
それでもあんなに若くして命を絶ってしまった彼女のことは、ずっと心の中で引っかかっていた分、まさか再び会えるとは思わなかった。
数少ない友人に声を掛けたいのをぐっと堪え、彼女の姿を追って行く。
高校を卒業するとそれぞれ自分の道を歩み、互いの時間の都合でなかなか会えず、いつしか連絡も途絶えがちになっていた。それでも日々の中、彼女の事を忘れたことはなかった。
そんなある日、共通の友人からの電話。あの一報を受ける。突然すぎで頭が追い付かず、冗談だと言って笑ったほどだった。お通夜の際に見た彼女の遺体はあざだらけでまるで人形のようだった。それがさらに彼女の死を曖昧にする。
向かいにはハンカチを目に当て、むせび泣く中年の女性の姿。しかし、カリンは涙など出てこなかった。
まだ、本当の別れなどを知らなかったあの頃の日々を思い起こし、改めて懐かしさを感じる。まさかこんな形で永遠の別れが来るとは夢にも思っていなかった。
あの日、彼女はどうして一人でいたのだろう。一人で居なければ飛び下りることはなかったのではないか。何がそんなに彼女を追い詰めていたのだろう。カリンは連絡を取らずにいたあの頃の自分に後悔を持たずにはいられなかった。
でもどうして飛び下りたのか、理解できるような気がした。
———自分を守るための手段だ———
とても悩みがあるようには見えない、あの、前向きで柔らかくて優しい笑顔を目に焼き付けた。
その後、カリンは村上さんを再び見かけることはなかった。