拈華微笑(ねんげみしょう)③
———あなたは普通じゃない。普通じゃない。普通じゃない人はいらない。普通じゃないあなたなんていなくなってしまえばいい。
思い出したくない。思い出したくないのに。
忘れられたと思っていたのに、ただ忘れていた振りをしていただけの記憶。
部屋の奥にただ荷物を押し込むように、隠して、見えないことで存在を消していた感情———
乱のその言葉がまるでカリンの心の引き出しの鍵だったかのように、しまっておいた不快なものが感情と一緒に溢れ出て来る。
急に鼓動が早くなり、体中が熱くなり、視覚と感覚が切り離され頭がふわふわと浮いているような麻痺した感覚に陥る。
小さくうずくまる自分の背後で、自分が冷めた目で眺めている。自分が自分じゃないような感覚。
庭を見ていたカリンは部屋の中に向き直ると、全身を小刻みに震わせ、ゆっくりと体を沈ませていく。目の輝きは消えていた。
動揺しているカリンに、乱はさらに言葉を続ける。
「辛くて苦しくて心細くて、さぞ不安だったろう……」
”———お願い、放っておいて。構わないで———”
思っていることとは反対に、心は正直で、素直に乱の優しい言葉に反応している。自然と涙が溢れてきて、視界がぼやけてくる。
無理に何か話そうとするカリンの頭を、乱は優しく撫でる。
乱の一挙手一投足は、カリンが自身に課した"堪える"という義務の足枷を取り払い、そしてカリンの心を受け止める。
今までただ生きていただけの、感情のない中身が空っぽの人間に声を掛けてくれる人がいること、手を差し伸べてくれる人がいること、否定的な自分に目を向けてくれる人がいるという目の前の出来事に、カリンの感情が反応して止まらない。
それに、やはり、何度も人生を繰り返している魂はそれだけ感覚が鋭く、あらゆる経験を察する能力にも長けているものなのかもしれないのだと冷静に思ってもいた。感情が入り乱れ、頭の中も今までにない程騒がしい。
乱は、ただ静かに泣くカリンを優しく包んでやった。
抱きしめたカリンは、まるで薄いガラスでできているかのように、とても脆く、少し力を入れただけですぐに粉々に割れてしまいそうなほど痩せた魂だった。
———生まれてから一体どこで何を間違えてしまったのだろう。何を間違えてこんな自分になってしまったのだろう———
カリンは小さい頃から引っ込み思案で、内気な性格ではあったが、生まれついて自己否定が強いわけではなかった。
幼稚園の頃から友達と一緒に遊ぶよりもよく一人で絵を描いていたはいたものの、皆に混ざって劇を発表したり歌を歌ったりと、人並みに成長していた。
小学校にも入り特に問題なく過ごしていたのだが、初めて違和感を感じ始めたのはその小学校の中学年からだった。
仲の良かった子が引っ越してしまった。迎えるクラス替え、席順の交換、新しく接するクラスメート……。
普段から話し慣れていない子と話す時は言葉がども|りがちになることに気付く。そのどもりを何度か笑われたこともあり、自然と周りと距離を置くようになってしまっていた。
相変わらずの引っ込み思案に拍車がかかり負の悪循環が始まって行く。
勉強で得意な科目は国語と図工。なぜか算数だけはとりわけできなかった。
学校生活にも慣れてなんとなくもやもやと感じ始めたもの、それは、自分だけが『何か』おかしい、漠然とした違和感。
『何か』が何なのかはわからない。でも、気づけば気の置ける友達はいなかった———。
なぜ自分は皆と同じように友達同士で明るく、快活で普通に振る舞えないのだろう。
自分の事が不思議でたまらない。自分で自分が理解できない。
なぜ自分は皆と違うのだろう。なぜみんなと同じに出来ないのだろう。なぜ自分はこんなに変なのだろう。止まらないなぜ、なぜ、なぜ……。
孤独だけがカリンにつきまとうように常にしっかりと隣にいた。
それからといういもの、ただの引っ込み思案ゆえなのか、それとも『違和感』なのか理解できないまま思春期を迎え成長していった。周りに馴染めない寂しさから孤独感が心に居座るようになり、その孤独感が心と思考を占拠し、自分の存在を否定するようになっていく。
自分は果たして普通なのか、普通じゃないのか。答えが知りたい。
自分が何者なのか、わからない。普通じゃないのに存在する”意味”がわからない。どう生きて行けばいいのかわからない。生き方が分からない。存在理由がわからないからなら生きていても意味がないのではないか。
分からない。わからない。わからない———なんて生きることは息苦しいのだろう。
ずっと、ずっと自分に違和感を持っていた。その苦しさを理解してくれる人はいないだろう。
長い間ずっと一人だった。
ずっと、ずっと、これから先もきっと一人なのだろう。
◇
”辛くて苦しくて心細くて、さぞ不安だったろう”———乱の言葉が、カリンの心を優しく、温かく包み込む。
『独り』から解放してくれる、自分の境遇に共感する言葉。自分が、今、一人ではないのだと感じた言葉。
たった一言の言葉。ただの言葉がこんなにありがたいと思った事はなかった。
カリンは手で顔を覆うが、溢れた涙が指の間からすり抜けていく。
乱はカリンの細い肩から離れると、その場に片膝をついてしゃがんだ。顔を覆ったカリンの手をどかすと、カリンの目と鼻は真っ赤になり、まつげは涙で濡れている。
乱は自分の着物の袂を押し当て、光る跡を優しく拭ってやる。
乱の一つ一つのしぐさや言葉が、柔らかい毛布のようにカリンを包み、それがとても優しくて温かかい。
今まで一度も人の優しさに触れなかったわけではないし、ただ人と接するのが苦手だったから耐性がなかっただけなのかもしれない。それでも、乱の優しさは今まで受けて来た誰の優しさよりも人生の中で一番優しいと思った。
涙が収まってきたのにまた涙が溢れてくると、乱はまた涙を拭う。
「我慢する必要はない、好きなだけ泣くといい」
泣いている子供を慰めるように、乱はカリンの傍から離れることなく背中をさすり、頭を撫で、カリンが落ち着くのをずっと見守るのだった。
しばらくしてようやく落ち着いてきたカリン。知らない人の前で大号泣してしまったことを思い起こし、一人、今になって恥ずかしさでいっぱいになる。目と鼻を赤くした次は、顔全体を紅くした。
乱とはここへ来て初めて会い、自分のあんな身の上話など話すはずがない。なのになぜカリンの心が見えているかのように、カリンがかねてから心待ちにしていた言葉を的確に紡いでくれたのかがとても不思議で仕方なかった。
目の前にある、乱の柔らかい表情。時折何度か見せた、いたずらっ子のあの表情とはまるで違う。
さっきの言葉はただの偶然なのだろうか。自分があまりにも惨めに見えて思わず同情されただけかもしれない。もしくは、態度があまりにも否定的でやさぐれているように見えてしまったのだろうか。同情を、哀れみをしてもらうつもりはなかったのに———そんなことを考えていると、壁に立てかけてあった姿見に自分が写っているのが目に入った。
自分であって自分でない自分の姿。これは、そう……悩みや苦しみ、人生の挫折、絶望といったものを知らなかった頃の姿だと思い出す。
そして身を包んだ着物。地が淡い橙色で大小様々な花が描かれている着物に、シンプルな無地で赤味のやや強いえんじ色の袴。実はこれは、カリンが学生の時に卒業式に着たものととてもよく似ている。いや、似ているなんてものではない、違いはないと言っていい。その学生時代だけは不思議と周りが気が合う友人ばかりで、”この袴”は今までカリンが過ごしてきた中で数少ない良い思い出が残っている時代の象徴とも言える。
今でも覚えている。自分でこの組み合わせを選んだのだから。
そんな思い出の袴と、仙夾が気まぐれだけで仕立てたという袴がそっくり同じだなんて……。こんな偶然あるものだろうか。
「本当に良く似合う」
背後からの笑い声に驚いて後ろを振り返る。その瞬間姿勢を崩して鏡にぶつかり、鏡を倒しそうになる。カリンは慌てて揺れる姿見をおさえ事なきを得る。
鏡に映った懐かしい着物からつい過去の想い出に浸ってしまい、すっかり乱がいる事を忘れていた。
その時、階下から玄関が開く音が聞こえて来た。
「ようやく天外のお帰りだ。今日は普通に戻ってきたな。お前はもう少しここで落ち着いてから降りて来ると良い」
言わずもがなカリンの腫れた目を気遣っての一言だった。