拈華微笑(ねんげみしょう)②
一の字に結んでいたカリンの表情が瞬時にして緩み、すぐさま足元から顔を上げると助けを請うような視線を乱に投げつけた。
そう、今まで生きて来たカリンの姿がここへ来てから変わっていた。鏡の前に立った時、自分の姿が映るべきなのに別の誰かが映っていたときの事を思い出す。肝が冷えるとは、こういうことを言うのか。状況が全く理解できなかった。
背が小さくなったというよりは子供になったとでも言うべきか。どうりで咨結意外は誰もがかなり長身に見えた。
若返ったのか、子供の姿になっただけなのか、全くなにがどうなっているのかわからないが、とにかく以前の自分の姿ではなくなっていた。
乱はカリンの表情から自分が言い当てたことを察すると、ほっとしたように笑みを浮かべた。
「ここでの姿は現世で思い入れがあった姿だとも言われているし、見る人によっても違うと言われている。それゆえここの住人には、小さいから子供だとか大きいから大人という概念はあまり関係ない。だが、お前が現世と違う姿なのは、現世の魂はこの修羅界の魂と比べて生きてきた歳月がそもそも違うからかもな。だからといって今言ったように、今まで繰り返してきた歳月分が今の姿を表しているというわけでもない。ややこしいが外見はあまり気にするな」
カリンはようやく今の自分に何が起きているのか理解できたような気がして一つため息を吐く。ここにいる魂達の姿は、今まで輪廻転生を繰り返してきた歳月分が積み重なっているのだと理解し、なるほどと思った。
だが、それと同時に今さっき訊ねようとしていた事が、乱に推測されていたことにも驚いていた。
「現世に戻るとここでの記憶は恐らく覚えていない者がほとんどだ。だが、現世から修羅界に戻って来る時は今までの現世での記憶を覚えているんだ」
そして再び、カリンの考えていたことを読み取ったかのように乱は続けた。
「でも、まぁ、そうだな。お前もいつか一世を終え、ここへ来る時はまた違った姿になっているかもしれないな」
乱はカリンは何か言いたげそうなのに気づいた。
「どうした?」
輪廻転生が本当だとしたら、亡くなった魂は皆ここに来るのか。カリンは生前の祖母達を偲び、そしてその想いを心の中にとどめる。
カリンの父方も母方も早くに父を亡くしていた。つまり父も母も小さい頃にはすでに父親がおらず祖母の女手一つで生活をしていた。だから当然カリンに祖父はいない。
本来なら祖母たちは夫と共に居れる時間が長く続くはずだったのに、戦争や病気といった避けられない時代の壁に、思いもよらず短い結婚生活に終わってしまっていた。
愛する人との突然別れ。
その後は独身のまま人生を全うした祖母たちは生前どんな気持ちで余生を送っていただろう。家族がいても本当のところは幸せだっただろうか。それとも、愛する人と別れずっと寂しかったのではないだろうか。
そんな祖母たちの心情を想像すると、現世で寂しい想いをした分、ここで祖父と再会できていたらどれだけ心が救われるだろうと思っていたのだった。
「お前は優しいな……」
言葉を口にしたはずはないのに、カリンの心情を読み取ったかのような乱の台詞。カリンはあまりのタイミングの良さに驚いた。
居間に入ると、先ほど乱が吹きとばして壊れたて残骸となった障子は、かろうじて応急処置が施されて形を保っていた。つぎはぎの間から庭が見えた。
「食事だ」
見ると、座敷の上に食事が乗った膳が三つ並べられている。
乱と咨結は膳の前に座ると箸を取り、さっそく食べ始める。そんな二人を前にし、座らない訳にもいかず、箸を手に取り恐る恐る一つ口に入れてみる。
思ったよりも普通に美味しい味がした。
この修羅界に来てあれよあれよと言う間に事が進み、今こうして乱や咨結、天外に世話になっていることが、改めて考えてみると不思議な事だと思えて来る。巽乱、天外、咨結、この三人はどういう関係なのだろうか。初めて会う自分にどうしてこんなに”親切”にしてくれるのだろうか、そんな思いが浮かんできた。
「どうした?こっちのものは口に合わないか?」
物思いにふけっていたせいでぼうっと見えたのか、乱はカリンに声を掛けた。
まだ口に食べ物を入れたままカリンは首を横に振る。
「ならいいが、天外が居ない間は俺が世話役だからな。もし食べさせて欲しいなら遠慮せず言ってくれ」
親切な人だと思えば、人をからかう一面もあるようだ。カリンは冷めた視線をこっそりと乱に送る。
乱はカリンの視線がこちらに向けられているのに気付いていた。また何かからかってやろうとしたが、カリンの頬が微かに紅く染まっていたので、ふっと笑い、からかうのをやめた。
◇
食事を終えると咨結はカリンの手を引き、紫陽花が咲く庭を案内していた。
二人の空間は常に沈黙。だが全く沈んでいるわけでもなく、むしろ軽やかで愉しげな空気が二人を包んでいるようだった。
一方、乱は廊下を挟んだ居間の向かいの部屋にいる誰かに話しかけていた。
「紅梅、本当にあいつに会わなくていいのか?こんな機会なかなかないと思うが……」
すると部屋の中から障子越しに若い女性の声が返ってくる。
「今はカリンという名前なんですね。こうして遠くからあの子を一目見れただけで私は十分満足です」
声の主はコホコホと小さな咳をした後、一呼吸おいて会話を続ける。
「前世での私の正体を明かしたところで、あの子に辛い気持ちを思い出させてしまうかもしれない。自分の自己満足のためにあの子を傷つけるくらいなら、来世での再会を待ちましょう」
「あの別れ方では確かにそうかもしれない。だが、いつもすれ違いばかりだったんだろう?次がいつ、その会える来世になるか分からないだろう。今でもいいんじゃないか?あいつのためにも……」
乱は庭に居るカリンに視線を移す。
「でも、私と会えばあの子は現世へ戻ることになってしまいます。あの子は繊細で人の気持ちを慈しむことに長けている。だからどれだけ時間がかかっても、必ず私を見つけてくれます。あの子はそういう子です。だから今私と会ってすぐに現世へ戻してしまうよりも、ここに残しておくべきです。それを知らせるために咨結はあなたの元へ来たのですから。大丈夫、皆の輪廻は回り始めています。それに、ほら……お迎えの時間も来たようですから……」
いつの間にやって来たのか、一匹の蝶が乱の目の前にふわりと現れた。そして障子をすっと通り抜け、女性のいる部屋へと入って行った。
「下手に会って辛い思いをするよりは、会わない辛さを選ぶ……か。待つ方と待たれる方、どちらがいいんだろうな」
乱は静かに目を閉じた。
◇
もともと空は灰色に覆われていたが、さらに空がだんだんと暗くなりはじめ、そしてしとしとと雨が降ってきた。
カリンは咨結と庭から引き揚げ来ると、黙々と何か書いている乱がいる居間に面した縁側で、人懐こいけど何も話さない咨結と共に静かに雨が降るのを眺めていた。
雨の雫が落ちるのを上から下へと追う。無心で眺めていると、本当に心が洗われるような気持になるようだった。この時ばかりは嫌な事を忘れられる。
カリンは手持ち無沙汰でいると、天外が傘を持っていない事を思い出した。気は進まなかったが、特にすることない。玄関先に置いてある傘を取ると、外門でいつ戻ってくるかわらかない天外の帰りを待つことにした。
すると、咨結もカリンの真似をするように、ちょこんと隣にやってきた。カリンの視線に気づきニコリと笑って見せる。
傘から覗かせるくったくのない笑顔を、こんな自分に見せてもらえることが嬉しいと思った。
あの羽織にはここの住人に溶け込む効力があるのだろうか。通りすがりの人たちに時折じろりと見られることもあったが、傘で顔を隠しなんとか視線を耐える。
「せっかくの着物が濡れるぞ。中で待っていたらどうだ?」
しばらく立っていると、乱が手で作ったひさしを額にあてながらやって来た。雨にあたった肩は雨粒で濡れている。
「俺はもう濡れちまったが、俺には傘を差してくれないのか?」
口端を上げた乱にそう言われ、カリンはしぶしぶ傘に差し入れてやる。
「ここでは色々と不便かもしれないが、本当に現世に戻らなくていいのか?」
乱は行き交う魂達を見ながらカリンに尋ねる。
カリンの方も覚悟は揺るがないとでもいう様に、正面を向いたまま静かに頷くと、乱はそれ以上あれこれ言うようなことはしなかった。
「天外はいつ帰ってくるかわからないぞ。それに玄関から戻ってくるとも限らない。家の中で待ってたらどうだ」
そしてまた、額に手で作ったひさしを当てながら家に戻って行った。
玄関から戻ってくるとは限らない、とはどういうことだろうかと思いながら咨結に視線を向けると、お互いの目が合い、思わず口元が緩んだ
乱に言われた通り家に戻り玄関先で傘の雫を落としていると、家の奥からカリンを呼ぶ声がした。
咨結は階段を指さして、乱が二階にいることを教えてくれた。階段を上りきると廊下の奥に確かに乱がいた。
「ここはお前の部屋だ。好きなように使ってくれ」
案内された部屋を見ると、鏡台、布団、箪笥、机、座椅子など一通りの昔ながらの家具が揃っていた。そして向こう側の壁には円い形をした窓もついており、その窓からはさきほど散歩をした紫陽花の庭も見渡せた。
窓から庭を覗くカリンは、乾ききった土に水分を与えられた花のように、瞳が生き生きとしていた。
「それにしても……」
乱は"それにしても現世に戻りたくないとは、どれだけの理由があればそう思えるんだ……"と言葉が出そうになったが、カリンの胸中を察すると言葉を飲んだ。勝手にそう決めつけるのは自分がする事ではない。そう思ったはずなのだがだが、やはり……。
乱はカリンの頬に触れようと手を伸ばす。だが、カリンは怯えからか体がびくりと動き、そして固まる。人に対する恐怖感———。
乱は伸ばした掛けた手を引っ込め、カリンを見つめた。カリンの心を見透かすように、瞳のずっと奥を。
「今まで辛かったろう……」
乱のその言葉を聞いた途端、カリンは目を見開く。
心の奥へと鍵をかけて静かにしまっていたはずの扉が開き、感情が濁流のごとく一気に押し寄せる。