修羅界①
竹林を抜けた先には一昔前の下町のような、時代を感じる昔ながらの風情ある景色が広がっていた。
咨結は、中でもより趣のある建物が並び建つ一角に向かうと、正門の前の用水路にかけられた鮮やかな朱色の小さな橋の先に立つ家へと入った。
正門をくぐると、手入れされた立派な日本庭園が広がる中庭を通る。中でもたくさんの、薄緑の淡い紫陽花が咲き誇っているのがひと際目に付く。
途中から二本に分かれた細い方の石畳の径を抜けて、ようやく玄関に辿り着いた。
外観とは反対の質素な玄関を咨結が開けると、戸に付いた鈴が鳴る。
履物を脱ぎ捨て勝手に家へとあがり込むと、女の子の手を引いたまま、ずんずんと家の奥へ向かって行く。そして、突き当りにある部屋の前まで行くと勢いよく障子を開けた。
「あら、びっくりした!咨結ちゃん、いらっしゃい。騒々しくするなんて珍しいわね」
部屋の中にはしとやかそうな女性と線の細い細身の男性の二人が、洗濯物をたたんでいるところだった。二人の周りには、丁寧に畳まれた朱色と真っ白な洗濯物の山がそれぞれ出来上がっている。
「咨結、いきなり部屋に入って来るとは失礼だろう」
咨結は二人の言葉などお構いなしに女の子から少し離れたところに女性と細身の男性を手でこまねいて呼ぶと、何やら耳元に声をひそめて話はじめた。
「ええ……はい……はい」
女性は咨結の話を聞きながら何度もうなずくが、男性の方は顔を訝しむだけで何の反応も返さない。
咨結の話が一通り終わると、女性は女の子の目隠しに手をかけ外してやった。
「そろろそ目は慣れたかしら……」
女の子はゆっくり目を開ける。
さっきまでは黒くぼんやりとしか見えなかった視界が、今ははっきりと見えるようになっていた。
視界が広がると、目の前に見知らぬ三人がこちらを向いているのに気づき、体を強張らせながら一歩後ずさりする。
「私たちが見える?」
眉を八の字にした女の子は、戸惑いながらも小さく頷く。
「良かった……。私はひな菊、扇木ひな菊。こっちは」
と、隣の細身の男性に手を向けて、
「一緒に住んでるななお。そしてこっちの男の子は咨結ちゃん。あなたをここへ連れてきた子よ」
と紹介した。
ひな菊は鮮やかな和柄の着物に身を包み、とても知的で品のある女性に見えた。
ななおという線の細い男性はひな菊の隣に立ったまま、不機嫌そうな顔で女の子を見下ろしている。腕組みをしているのが、余計に高圧的な雰囲気をうかがわせた。
ひな菊の隣に座っている咨結という男の子はななおとは対称に、にっこりと可愛らしい笑顔を向け、人懐こそうな印象だった。
「あなた、カリンちゃんって言うのね。とても可愛い名前ね。あのね、こんなこと突然言われて混乱すると思うんだけど……あなた現世の人ね」
◇
カリンはひな菊にそう言われ、カリンは八の字眉をさらにしかめた。
言葉の意味が理解できなかった。もちろん言葉の意味はわかっている。だが……。
現世とはこの世のことであり、この世とはカリンが生きている世界のこと。
当然自分はまだ死んだ覚えはないし、生きているからもちろん現世の人間であるはずだ。
「ここは死後の世界で、地獄の一つにも数えられることがある修羅界。あなたに見えているのは私たちの魂の形のはずよ」
カリンはひな菊の言葉に思わず息を呑んだ。
「私たちのことはどのように見えているのかしら」
ひな菊は右手を口元にあてて、ふふふと笑った。
「ここは見た目は現世と変わらないかもしれないけど、修羅界は来世と現世の狭間、輪廻を待つ場所よ。色んな想いを持った魂たちが再び出会う因縁の場所でもあるのだけど」
ひな菊はまたふふと笑った。この笑顔はとても親しみを感じさせ、混乱するカリンを落ち着かせてくれた。
「でもいきなりそんなこと言われても理解できないわよね。あなたは死んでいるわけではないの、恐がらなくても大丈夫よ。安心してちょうだい」
カリンは混乱しながらもひな菊の話を頭の中で繰り返しては理解し、繰り返しては理解し、と少しづつゆっくり咀嚼していく。
それまで相変わらず腕を組んだまま、不機嫌そうにカリンをじっとりと見ていたななおは、突然何かに気付いたように声を上げた。
「お前……!お前もしかして乱の……」
「ななお、意地悪はやめてちょうだい、カリンちゃんを脅さないで」
「ち、違う!」
ひな菊はカリンの手を取って話を続ける。
「でも、困ったわね……乱はうちで身請けして欲しいって言ってるみたいなんだけど……それは構わないわよね、ななお?」
「冗談じゃない!現世の者を我々が身請けだなんて!」
ひな菊はななおの話を無視して話し続ける。
「ただ……現世の魂が修羅界に迷い込むことはとても珍しくて……身請けしたとして、どうやってあなたを現世へ戻してあげたらいいのかしら」
「前にも言っただろう、先のことも考えず安易に引き受けるのは無責任と同じだと。放っておけば遅かれ早かれ切紙様に見つかって嫌でも現世へ戻してくれる」
「そんな言い方しなくても……」
ひな菊は頬を膨らませた困り顔でななおを見つめる。ななおはひな菊の視線に顔を赤らめ、うっ、と小さく鈍い声を上げた。
ついにはひな菊に懇願されるような眼差しに負け、ななおは間もなくゆっくりと口を開いた。
「いつか……聞いたことがある。ここは前世からの因縁が巡り合う場所。その修羅界と現世が交わるのには理由があるという……。この世界の魂がお前を呼んだのか、お前がこの世界の魂を求めてなのかはわからないが、ここにお前と重要な因縁のある魂がいるということ。だからその因縁の魂を探し出せばここに来た理由がわかり、現世へ戻れるだろうと」
ななおは腕組みをしたまま、自分を見上げるカリンにそう告げた。
「でも因縁のある人って、そんな簡単に見つかるものではないでしょう?どうやって探せばいいの?」
ひな菊がななおに聞く。ななおは心配顔のひな菊の顔に右手を当てた。まるでそんなことは心配するな、とでもいうように。
ひな菊とななお、この二人は特別な関係にあった。お互いがお互いを信頼し、そしてお互いを必要としている。どちらか一方だけが支えているのでなく、お互いを支え慈しんでいる、愛情とも友情とも違った別の感情の深い関係。
「とにかく、我々の縁者でもないのに現世の者など到底承服できない。修羅神との問題に巻き込まれるのも御免だ。手掛かりは教えてやったのだから、連れ帰って巽の奴に身請けをしてもらうんだな。後は奴が何とかするだろう」
ひな菊も一瞬考えこんで、そして口を開いた。
「……そうね。ななおの言う通り、確かに何かあっても私達より乱のほうがきっとあなたを守るのに相応しいはず。私たちの元よりきっと乱のところにいた方が安全だわ。咨結ちゃん、カリンちゃんお願いね」
◇
カリンと咨結の二人を見送ったあと、ひな菊はななおの首元にそっと手を回した。
「現世の人間がたまに紛れ込んでくるというのは訊いたことがあったけど……自分と因縁がある人物を探すなんて話は初めて聞いたわ。誰から聞いたの?それとも……初めから知ってたの?」
ななおはひな菊にそう聞かれると、何も言わずひな菊をまっすぐ見つめた。
「あなたより私の方が修羅界に長いのに、どうして私は聞いたことがないのかしらね」
「風の噂だ。真偽はわからない……」
ななおはひな菊の腰に手を回すとそのまま抱き寄せた。
阿修羅道は輪廻転生する世界の六道のうち、天道・人間道と合わせて三善趣(三善道)、あるいは畜生道・餓鬼道・地獄道の三悪趣と合わせて四悪趣に分類される。
果報が優れていながら悪業も負うものが死後に阿修羅に生きるとされていて、阿修羅道はその阿修羅が住まう世界である。
修羅場といった言葉はそういった話からできたそうだ。