言の花1
・カリン―――この物語の主人公。生まれ持った自分の特性から、現世で苦しく寂しい日々を過ごしていた。自己肯定感が低く、ネガティブな思考を持つ。大人しくて静かな性格。
・乱―—―修羅界でのカリンの身元引受人のような存在。身請け人(家族や身内)がいない人の身元も引き受けている。
・天外―—―乱に身請けしてもらっている男性。カリンの世話役を頼まれている。切れ長の目元をした、少しぶっきらぼうな性格。
・咨結―――乱の知り合いの男の子。いつもニコニコとしている8歳くらいの男の子。常にカリンの不安を察知してくれる、とても優しい子。なぜか話をしない。
・明衣―――乱の知り合いで、可愛らしい姿とは反対に勝気な性格で、言葉遣いが少し古臭い女性。過去世での出来事から人を信用していないが、カリンにだけは心を開いている様子。
・ひな菊―――乱の知り合い。淑やかで優しい女性。ななおと一緒に暮らしている。
・ななお―――カリンに威圧感のある細身の男性。ひな菊と一緒に暮らしている。
・仙夾―—―乱の知り合い。着物の仕立屋をしている、無表情で無口に近い男性。手先がとても器用だが、物忘れが激しい面がある。
・伊佐治―—―額と腕に入れ墨のような絵が描かれていて、一見いかつい人に見えるが実がとても世話好き。身請け人(修羅界での家族のようなもの)がいない人の身元を引き受けている。
・白木蓮―—―乱の知り合い。全体的に色白で中性的な姿をした男性。どういった人物かは謎。
言葉を真に受けてしまうカリンにとって、天外のようなぶっきらぼうな人物との関りはどうも苦手だった。いつも威圧感のようなものをまとい、平気な顔で人の気にしていることを直球で口にしてくるからだ。
そんな天外が、今はどこか弱々しく見える。
視線の先のいがみ合う二人を見つめるその表情には、非難をしつつもそれとは別の感情も見え隠れしている。
(嫉妬……?憧れ……?)
いがみ合う二人に強く惹かれている、そう思った。
見ず知らずの、しかもいがみ合っている人に惹かれる理由とは?
天外と距離を置きたいと思う自分の意思とは反対に、心が締め付けられ、天外の気持ちを理解したいという思いが止まらない。何か言葉を掛けてやりたい。そんな思いの自分もいるのだが、喉の奥が硬直して口が思うように動かない。
心も、身体も、自分のものでありながら動けない自分が、とても情けなく惨めでで仕方なかった。
こんな時に言葉を掛ける事すらできないとは、なんて自分は無意味な人間なのだろう。
「どうせ忘れるからわざわざ教えてやる必要はないんだけどな!ここにはああいう三毒煩悩を持ってる奴らがたくさんいるんだよ。カリンも自分の事を不幸だとか思っているのかもしれねぇが、下には下がいるのを忘れんなよ。死んでからじゃあどうにもできないけど生きてりゃ軌道修正できるんだから、いつまでも下向いてるなよな」
一人思い悩むカリンに降り注いだ、嫌味を含んだ憎まれ口に我に返る。自分が勝手に思い悩んでいただけではあるが、そんな人の気持ちになどほんの少しも気づいていない天外に、さっきまでの自分がバカみたいだと思わせる。とはいえ、自分には持ち合わせていないあっけらかんとしているところは、案外天外のいい面でもあるのかもしれないと思い直す。
「なんだよ?また薄ら笑いしやがって。とにかく、俺は現世に戻ったほうがよっぽどいいと思うね。現世に執着してる奴らばかり見てると、そのうち気が滅入って来て現世に早く戻りたい~!ってなるに決まってんだから」
一瞬、カリンの脳裏に、天外の腹に握り拳を当てている自分の姿がよぎった。
それまでカリンの背後にいた咨結が何気なく門の外に出ると、誰かに向かって手を振り始めた。誰か知り合いでも来たのかと四角く切り取られた視界を見てみるも、誰も咨結に手を振り返してくる人物は通り過ぎない。
一体誰に手を振っているのだろうと不思議に思った矢先、聞き覚えのある声がした。
「天外とずいぶん長話ししてたみたいだな」
正門から姿を現したのは乱だった。
咨結の頭をガシガシと撫でる。
正門のすぐそばに居たとはいえ、成人男性の背の高さ以上の塀に囲まれた内側から見えるのは限られた目の前の四角い景色のみ。その塀の内側にいながら、まだ遠くにいたはずの乱の帰宅にどうやって咨結は気付いたのか、ただただ不思議に思ったが、やがて、ただの偶然だったのだろうとカリンは一人胸の内で納得した。
「世話役に乗り気じゃなかった天外が、こいつに興味を持ったみたいだな」
咨結を撫でていた手が今度はカリンの頭に伸び、撫でる。子供の姿をしているとはいえ、まるで子供扱いだ。
「興味を持つ……?何の話だ?」
天外の切れ長の目がさらに細くなる。
「こいつに色々教えてやってたんだろ?関心を持たなきゃ教えてやろうとは思わんだろ」
「あ?何でそうなるんだよ。乱が色々と話してやらないから、代わりに俺が教えてやってたんだ!」
「表へ出てまでか?いくら俺でも、そこまでしてお前に頼もうとは思ってなかったが」
「そ、それはカリンに分かりやすく説明をするために……」
うろたえる天外に、乱はニヤニヤと笑みを浮かべている。
乱と天外は押し問答を繰り返しながら家へと歩き出した。咨結もそれに続き、カリンの手を引いた。その時。
一羽の蝶がひらりと正門から舞い込んできた。淡い黄色とも白ともいえない、柔らかく優しい色。光を帯びているようにも見え、見方によっては金色にも見える。
思わぬきれいな蝶の来訪に、咨結にも見せてやろうと握られている咨結の手を引き寄せようとした。が———それをしてはいけない、と直感が告げる。
もしこの蝶を咨結に見せてしまったら、咨結がいなくなってしまう、そんなとてつもない嫌な予感。
蝶はひらひらと咨結の背後をしばらく舞った後、そのまま正門から出て行っった。
家の中に移動しても、乱と天外はまだ押し問答を続けていた。
まったく困った奴だな、などと言っている乱の顔は少しも困っているようには見えない。自分の子供の成長を喜ぶ親のように、とても嬉しそうだった。
「それより役回りは終わって来たのか?」
天外はいい加減乱との押し問答に飽き飽きして別の話を振った。
「ああ、それがちょっとおかしなことになってな」
「おかしなこと?」
「妄念の本人が見つからないんだ。今、白木蓮が本人を探しに行ってるが、お前たちが心配になって一旦俺だけ戻って来たんだ」
「それより、さっき目つきの悪い男とすれ違わなかったか?!」
さっき目がかち合った男の行方が気になるのか、天外はまくしたてるように乱に訊く。
「縁者探しか?」
「違うに決まってるだろ!ちょっと気になる奴を見つけたから、どこの一族か調べておこうと思ったんだよ!もういい、少し追ってくるからな!」
二人は一通りの会話を済ませると、天外は庭から屋根へと飛び移り、そして姿を消した。
庭から屋根へジャンプするなんてなんて人間離れしているのだろうと、カリンがあっけに取られていると、同じく天外の姿を追って屋根に視線を向けていた乱はとぼけたような口調で口を開く。
「前に俺が言った、あいつが玄関から入ってくるとは限らないって意味、これで分かっただろう?」
額に落ちた髪をふう、と吹き上げながら笑う。
「あいつは俺の縁者でも眷属でもないんだ。だからってわけじゃないが、あいつを守るために人との接触を避けさせてる」
誰が訊ねたわけでもなく、天外が表に姿を出さない理由を素知らぬ顔で口にした。
眷族とは、自分の親族を含む、友人知人の他、過去に自分と何らかの縁の繋がりがあった関係者を全体を指す。そして、死後は現世で成し得なかった時間を取り戻すように、誰しも自分と深い縁者や眷属と再会したいと願うのは当然だろう。
「あいつはここに来た時、現世での記憶を持っていなかったんだ。記憶がないから自分の縁者を探そうにも、自分がどこの誰で、縁者が誰か、どこにいるかわからない。だから修羅神に迷い人とみなされて隠滅されないよう、あいつの記憶が戻るまで俺が縁者となって身請けしてるんだ。もし隠滅されれば、魂を含む生きてきた痕跡全てが消え去られてしまう」
天外のその言葉を受け、カリンはさっき天外が呟いた言葉の意味を今、理解した。
『愚かだよな』
すでにたくさんの縁者と再会できているにも関わらず、さらに欲で縁を探し求める人たち。かたや記憶がないために、いつまでも縁者と再会することができず、ただ一人、記憶が戻るのを待つことしかできない孤独な天外。
天外はあの時、あの二人に嫉妬していた理由、そしてあの表情は、きっと自分の縁者を想ってのことなのだろう。
「おっと」
天外の素性に意識が集中していたカリンは、急に立ち止まった乱に気付かなかった。天外の背にぶつかり、カリンは体勢を崩す。乱はすぐに腕を広げて受け止めた。
「悪い、悪い。大丈夫か?」
乱はいたずらっ子が笑うように口を三日月のように開けて笑っている。そんな顔を見ると、わざと転ばせたのだろうかと勘ぐってしまう。意地悪なのか、親切な人なのか、全く分からない天邪鬼な人物。
その時ふと、あることに気付く。乱の手の甲付近に傷がついているのが、着物の袖からちらりと見えた。出掛ける前まではそんな傷はなかったような気がしたのだが。
その傷は血が滲んでおり、つい最近付いた比較的新しい傷に見える。太い一本線を描いたような小さくもない目立つ傷なのに、手当てもしないで乱は気付いていないのだろうかと、つい傷を注視してしまう。
すると、傷のついた手がおもむろに動き、乱の頭の後ろへ移動し、そのまま頭を掻いた。
袖が捲れ、傷が露わになる。手の甲だけだと思っていた傷は、上腕の方まで伸びていた。
「普通は縁者の元へ戻りたがるんだが、あいつは自分の縁者を探そうとしないんだ。お前も、ここに残ると決めた時、本当は縁者を探したくないのだと思っていた」
乱の言葉に一瞬どきりとして顔を見上げると、ついさきほどまで見せていた小憎たらしい表情とは打って変わって、どこか陰を帯びた一抹の侘しさと安堵感を混ぜたような表情になっていた。
乱は心配そうな顔を自分に向けてくる咨結の、ふわふわの髪をくしゃくしゃと撫でる。心配しなくてもカリンを傷つけるつもりはない、というように。
カリンの前に片膝をつき、改めて決意を確認するかのように真っすぐカリンの方を見据えた。
突然の設問と正面の乱に、目の行き場を失う。
乱の言葉は間違っていないのだから、言い訳の余地はない。確かに、ここに残ると決めた本当の理由は自分自身を消し去りたかったから。現世へ戻るには自分の因縁の魂を見つけろと言われたところで、毛頭見つける気などなかった———はずだった。
それが今は、今では少しづつ気持ちが変化している。それはどうしてか自分でもわからない。
カリンは自分の足元へ視線を落とし、身を強張らせたままじっとしている。思考はぐるぐると凄まじい勢いで巡り、頭の中を混乱と恐怖が占領する。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう!
どう答えるべきか分からない。
ここに残らなければ良かった、と後悔の気持ちが押し寄せる。人と会話をするのも接するのも出来ないくせに、何を浮かれていたのだろうかと今までの自分を恥じた。何か話さなければ、早く、何か言葉を話さなければと、気持ちばかり焦るけど、以前頭の中は以前真っ白で何も言葉が出てこない。
何か話さないと乱が、離れて行ってしまう———現世でいつも皆にそうされてきたように、きっと乱も、乱にも……。
———嫌われてしまう……!———
咨結は沈痛な面持ちでうつむいているカリンの背を優しくさする。
その優しさに、カリンはぎゅっと強く目をつぶり、溢れ出てきそうな涙を堪えた。泣くことは答えにならない。優しさに甘える必要もないと言い聞かせ、コントロールのきかない自分の心を必死に落ち着かせる。
そこに、乱の手がカリンの頭へ優しく載せられる。
「人にどう思われてるかとか考えると恐くなるよな。なんとなくわかるよ。だけど、俺達のことは恐がらなくても大丈夫だから。俺も咨結もずっとここにいる。ゆっくり自分の気持ちを整理すればいい」
いつも言葉がすんなりと出てこずどもったり|、会話中どう伝えようか思案しているだけなのにすぐに言葉が出てこないため相手はカリンに無視されたと思われてしまったり、言いたいことが上手く伝わらず、もしくは相手の言っていることが良く理解できなくて相手を苛つかせてしまったり、といったふうに会話に関するコミュニケーションがとても苦手だった。
乱に答えられなかったことで、修羅界に来て忘れかけていた会話を恐れる要因が次々と蘇って来る。
目を閉じじっとうつむくしかできない。
乱は両手を広げると、カリンを覆った。
それは温かく優しい抱擁。そして、どこか憎めない、親しみ感のある子供のようなこの顔。気付けばいつもこのいたずらっ子の顔をしている。どうしていつも笑っていられるのだろう。自分も彼のようにいつも笑っていられたらどんなに良かっただろうか。
「ここがどこだか、まだわかってないようだな。こんな世界に残ると決めた奴が、これ以上何に怯える必要がある?それとも向こうへ戻りたくなったか?」
カリンは首を振る。
消えるにしても、自分に深い縁のある縁者を探すにしても、まだ戻りたくない———むしろ、ずっとここにいたい。だって、ここはとても……。
「ここにいたいか?」
え?とカリンは思わず乱から体を離す。相変わらずあの表情で笑っているのを見ると、からかわれているようで腹立たしい気持ちになる。だけども、確か、ここに来たばかりの時にも似たようなことがあったはず、と思い返す。
あの時もそうだったけど、本当は、自分の気持ちをこんなにも言い当ててくれたことが、心の底から嬉しかった。
———言葉にしなくても理解してくれる人がいる———
「ここが居心地がいいと思ってるんだろう?」
咨結は優しい笑みを湛えながら、乱の問いに頷く。
「変わってるな」
その言葉は突如として、喜びに浸っていたカリンの心に突き刺さった。一瞬にしてカリンの表情が凍り付く。
本当に自分は変わっているのだろう。自分でさえも自分が何者なのか理解できないのだから。
隠していたわけではないけど、面と向かって改めて自分は”変わっている”と言われると、どうしていいかわからなくなる。存在を否定されているようで。
さっき引っ込んだばかりの涙が、じわじわとまた溢れて来る。さっきとは別の感情で。
勝手に思い違いをしていた。今まで世話を焼いてくれた乱の親切心は、別に自分を受け入れてくれたというわけではなかったのだ。別に自分の心を理解してくれていたわけではなかったのだ。何を勝手に勘違いしていたのか。
カリンは自分の思い込みを恥じた。生きていても居場所がない。死者の世界でも自分の居場所がないことがわかった。いよいよ、自分の居場所がないということが、これではっきりした。
乱はあの笑顔を浮かべると、絶望に打ちひしがれているカリンの口端に、人差し指と中指を押し当て、くい、と口角をあげた。
言葉を真に受け、人を容易に信じるカリンだったが、それでも裏切られることに関してはなかなか信じがたかった。良くも悪くもどこまでもどこまでも、真に受け、人を信じてしまう。
溢れる涙を堪えながら、強い眼差しで乱を見つめるカリン。人を信頼してもいつも裏切られ、傷つけられる。それでも、人を憎むという事はできない性分。
次はどんな言葉が突き刺してきても大丈夫なように、カリンは心の準備をする。いくら傷ついてもいいように、痛みを感じないよう心を、硬く、硬く。