三毒煩悩
・カリン―――この物語の主人公。生まれ持った自分の特性から、現世で苦しく寂しい日々を過ごしていた。自己肯定感が低く、ネガティブな思考を持つ。大人しくて静かな性格。
・乱―—―修羅界でのカリンの身元引受人のような存在。身請け人(家族や身内)がいない人の身元も引き受けている。
・天外―—―乱に身請けしてもらっている男性。カリンの世話役を頼まれている。切れ長の目元をした、少しぶっきらぼうな性格。
・咨結―――乱の知り合いの男の子。いつもニコニコとしている8歳くらいの男の子。常にカリンの不安を察知してくれる、とても優しい子。なぜか話をしない。
・明衣―――乱の知り合いで、可愛らしい姿とは反対に勝気な性格で、言葉遣いが少し古臭い女性。過去世での出来事から人を信用していないが、カリンにだけは心を開いている様子。
・ひな菊―――乱の知り合い。淑やかで優しい女性。
・ななお―――カリンに威圧感のある細身の男性。
・仙夾―—―乱の知り合い。着物の仕立屋をしている、無表情で無口に近い男性。手先がとても器用だが、物忘れが激しい面がある。
・伊佐治―—―額と腕に入れ墨のような絵が描かれていて、一見いかつい人に見えるが実がとても世話好き。身請け人(修羅界での家族のようなもの)がいない人の身元を引き受けている。
・白木蓮―—―乱の知り合い。色白で中性的な姿をした男性。どういった人物かは謎。
修羅界に来てからというもの、時間の概念というものがなくなってしまったような感覚。空は常に薄暗く、水分を含みねっとりした空気がカリンの体にまとわりつく。
"時間"の変化を感じられるのは降ったり止んだりの雨くらいだろうか。その雨も、じとじととあちらの世界の長梅雨を思わせ、誰もがカリンとカリンに付随する過去を知らない、という以外何一つ現世に居るのと変わらない。時間などあったところで意味をなさない、と自棄にも似た思考に陥る。
自分を知る人へ心構えをする必要もなく、自然体でいられることのなんと心の軽いこと。
どうしてそう思えるのかはわからない。それでも時折、現世にいた時よりも心が浮き立つような気分になるのを、カリン自身、心の奥で感じてはいた。けれどもただ感じているだけで、その感覚にしっかりと気付いているのか、というと気付いてはいないだろう。
それは、すすきの穂先が鼻をくすぐる程度の、まだ小さな、小さなもの。
突然廊下をバタバタと騒々しい音を立てながら、咨結が目の前を走り抜けていく。その後ろを天外が大声を上げながら追いかけて行く。何が起こっているのかと乱の姿を探すも、外出したのか姿は見当たらない。
二人は縁側からそのまま勢いよく庭へと飛び出す。
紫陽花の咲くやや広い庭を隅から隅へと忙しなく動き回る。咨結の方は子供だというのに、なかなかすばしこい。天外がどうやって捕まえようかと、右往左往しているのがわかる。
「何度言ったら分かるんだよ!食うのはいいが、あちこちこぼすなと言ってるだろ!掃除するのはいつも俺なんだぞ!」
怒鳴る天外の追跡を咨結は余裕で躱していく。
「座って食え!」
この分だと二人のやりとりは当分時間がかかるだろうと思った矢先、それはあっさりと終わりを迎えた。終ぞ咨結に追いつけないと諦めた天外が身を翻し、息を切らしながら庭から引き揚げてきた。切れ長の目を吊り上げて、何やらぶつぶつと文句を呟きながら。
廊下や縁側に目を向けてみれば、確かに食べかすらしいものがあちこちに散らばっている。そして咨結の両手には、どこから持ってきたのか、お菓子らしいものが握られている。咨結が天外に追いかけられていた理由を理解し、自然と口端が緩んだ。
「なあ、そうやっていつまで黙ってるつもりだ?笑いたいなら笑えばいいだろう。面倒くさい奴だな」
天外は息を整えながら額に浮かんだ汗を手で拭い、カリンの前に腰を下ろした。カリンは一歩後退する。
「本当に縁者を探す気あるのか?ないならさっさと現世へ戻ったらどうだ」
トゲのついた言葉がカリンの心をチクリと刺す。
するとそれまで天外から逃げ続けていた咨結が、口をもごつかせながらあっさりと、しかし慌てた様子でこちらへ駆けてきた。
カリンを傷つけようとする天外から守ろうというのか、それともカリンを慰めようとでもいうのか、カリンの元へ来るなり膝へちょこんと腰を落ち着けた。話があるなら自分を通せ、と言わんばかりにカリンの膝に収まっている。
まだ一度も互いに言葉を交わしてもいないというのに、心が通じ合っているかのように常にカリンの不安を察知し、寄り添ってくれるちょっと不思議な男の子、咨結。
でも、そんなことはカリンにとってどうでもよかった。変わっているというのなら、自分も間違いなく変わり者なのだから。咨結が傍にいてくれればそれでいい。ずっと一緒に居れたらそれでいい————と、ある一つの推測がカリンの心にひらめく。
咨結と居る時のこの安心感。もしや、咨結が自分と繋がりのある証拠ではないのだろうか、と。
もし咨結が、カリンの探している縁者なのだとしたら?
冷静になり、考えてみる。
しかし、もしそうだとしたら、未だに自分が現世に戻らず|修羅界《ここ》にいるのはおかしい。
ななおは、自分と深い縁のある人物と会えば現世へ戻れると言っていたし、乱もそう言っていた。だとすると自分が逢うべき縁者は咨結ではない別の誰かということ。
そう結論に至り、まだこの世界に居られるという妙な安心感を宿し、深い溜息を吐いた。
探している人物が咨結ではなかったことに少し落胆はしたものの、同時に、自分の探している人がまだどこかにいる、と改めて思うと不思議な気持ちが入り混じる。
探し人が見つかれば、自分を消してしまいたいという気持ちでいっぱいになる現世に戻らなければいけなくなるというのに、自分の探している人とはいつから繋がっていて、どんな繋がりがあり、どんな人なのか、興味が止まらない。
今まで感じたことのない高揚感がカリンの心を前へと押し出していく。
鼻をくすぐっていただけのススキの穂の存在は、やがて流れ出る一筋の水へと変化していく。
「なあ……、やっぱりどんな奴か会いたいものか?」
何か煮え切らないような、珍しく控えめな口調の天外。それに反して、改めて問われる、心の芯を突く質問にカリンの心臓が大きく跳ねる。
『———あなたさんが会おうとしている縁の深い者はあなたさんにとって良い縁の者かもしれんし、悪い縁の者かもしれんということじゃ———』
明衣の言葉が頭をよぎる。ずっと独りだと思っていた自分に、過去から繋がりのある人など果たして本当にいるのだろうか。
————会いたい?
会ってみたい。
自分に?
縁者なんているわけがない!———
カリンの返答がないのを肯定と捉えた天外。
「なぜ会いたいと思うんだ?もし……」
一呼吸おいて話を続ける。
「もし、逢った奴があんたの望むような理想の人物でなく、例えば罪を犯していたとしたら?それでも会いたいと思うか……?」
天外は右膝に肘を突いた手を頬に当て、物思いにふけっているかのようだった。
カリンは、ぐ、と口を一文字に閉じたまま。ここに残る、と自分の意思を表示して以来ずっと口を開いていない。
「例えばの話だからな!そういう可能性だってあるから、そうなったら会わなかったほうが良かったと後悔する可能性も十分にあるって事だ。再会したのが仮に理想的な人物だったとしても、現世に戻ればここでの出来事は何もかも忘れちまうし、そいつはすでに死んでて現世にいないわけだから、現世に戻っても会うこともない。でも、それでも会いたいと思うものなのか……?」
いつしかカリンに向けられた天外の視線は、助けを求めているかのような眼差しになっていた。
確かにカリンの探している縁者は自分にとって悪い縁の人物かもしれない。しかし、会って見なければ良い縁の人物なのか悪い縁の人物なのかわからないのも確かだ。
それに例え悪い縁だったとしても、すでに今まで十分傷つき、心の傷はたくさん受けて来た。今更傷が一つ増えたところで大差はない、と自虐的になれることが逆に会いたいと思う原因なのかもしれない。
再び、沈黙を肯定と捉える天外。
自分をまっすぐ見据えるカリンの表情が、ここに残ると意思を示した時を思い出させる。その様は内なる自分の葛藤と戦っているようにも見えた。
一体何が頑なにカリンをそんなに無口にさせているのか……。
「ま、答えなくても別にいいが」
カリンの頑固さに負け、お手上げとばかりに息を吐いた。
「お前さん……白すぎるんだよな」
綺麗だが、何色にも染まれる白い魂。
そして脆すぎると思った。
まるで、みすぼらしいほどに埃で汚れている忘れ去られた古いガラス瓶のよう。生に対しての執着がほとんどない、いつ壊れてもおかしくない魂。
天外の頭の中に、とある二人の人物が現れ、やがてその二人の姿が重なる。
(この幼子の姿をした現世の魂、そういえば俺を身請けしてくれたあの人————そうだ、乱にとてもよく似ている)
乱はいつも他人を気遣ってばかりで自分の気持ちは押し隠しているのを、天外は良く知っていた。だからこそ、カリンをすぐに現世へ戻さずカリンの気持ちを優先する、と言い張った乱にはとても驚いた。あれはカリンの気持ちを優先したのではなく、自分の気持ちを押し出していたに違いない。
(カリンも、自分の感情を押し隠す乱に良く似ている。……あの乱が自分の気持ちを優先したのなら仕方ない。俺はカリンを助けるんじゃない。あくまで乱を助けているんだ)
それまでカリンを見下していた天外の心が動く。
現世に戻れば記憶はなくなる。そんな部外者にわざわざこの世界の事を教えてやるつもりはなかった。
「こっちに来てみな」
天外が向かった先は、乱の敷地に出入りする正門だった。門の四角い額に合わせて、見える視界も四角く切り取られる。それでも立派な幅広の門の内側からは、家の前を行き交う魂の姿が良く見えた。
乱に、理由も教えられぬまま表へ出るなと言われてからというもの、天外は人前に姿を現すことを避けてきた。過去の記憶はなかったが、本能的にもその事だけは正しいと感じていた。
だが今だけは、自分でも不思議だと思うくらい、人前に出ることに抵抗を感じない。
「人は少なからず歩んできた人生に後悔や妬み、恨みといった苦悩を持つようになる。その苦悩に執着したまま死ぬと、死後も苦悩に囚われ続けずっと苦しみ続ける」
いつもの嫌味のような含みはない。天外は頭を掻くと、腕を組み塀に背を預けた。
「苦悩の中でも最悪なのが"貪・瞋・痴"という三つだ。貪は貪り、貪欲、瞋は怒りや憎しみ、痴は無知、愚かさという意味だ」
咨結は全く話に興味ないといったふうで、両手に持っている菓子をまだ頬張っていた。
「貪りは、例えば、あの人見てみな。あの派手な服を着たおばさん」
天外はあごでくいと、その人物の方を差し示す。その人物がちょうど正門の前であるカリンの視界に入って来る。
その人物は現世風の肩の出た洒落たワンピースを身にまとった女性で、天外が言うほど派手な気はしない。”おばさん”などと呼んで大袈裟だなと思いつつ、女性の顔をよく見た瞬間ぎょっとした。カリンからすると、おばさんどころか男性か女性かさえわからない。顔は歪み、輪郭のないいわゆる霊のように見えたからだ。
修羅界で暮らす人々の姿は、現世で想い入れのあった姿をした魂なのだと聞いていたが、その姿は見る人によって違うこともあるという、乱の言葉を思い出した。
「あのおばさんは生前、人の親切に漬け込んで金を巻き上げて来た詐欺師だ。初めて会った男が貢いでくれたのに味を占め、それ以来困っている人間を装ってはそこに寄ってくる親切な連中を片っ端から金づるにして騙していたんだ。名前を変え場所を変え、ついには顔を変え、死んだ今でもまだ彷徨ってるみたいだから、未だに金に執着してるんだろう」
顔が歪んで見えたのは、金に物を言わせただけの中身のない人生の記憶しかないからなのかもしれない。身なりだけは輪郭がはっきりしているのに、生気のないあの表情で歩いているその姿がやけにアンバランスで、妙に不気味だった。
「それから、怒りや憎しみの例でいうと……ああ、あいつ」
天外は次の事例の人物に目をつける。
「一見するとただの普通の男に見えるが、内に怒りを秘め……」
すると偶然にも、その人物の視線が天外とかち合った。
「……!」
天外の様子に異変を感じた咨結も頬張る手を止め、天外の視線の先を見る。天外は相手に目を奪われ、息をするのも忘れているかのようだった。
その人物は黒の半そでシャツに黒のパンツの上下を着ており、二十代後半に見える現代風の若い男性だった。どこにでもいそうな、至ってごく普通の人物に見える。
その人物はふいに天外から視線を外すと、何事もなかったかのように乱の家の前を通り過ぎて行った。
(え?どこかで……会った?)
天外の狼狽ぶりは、カリンも手に取るように見てわかった。それまでの天外とは明らかに様子が違っていた。それにあの男性の目。とても冷たく鋭い目をしていたのが深く心に残っていた。
「う、内に怒りを秘め、人に心を許さない。それが自分を孤立させ、悪循環になる。そしてその怒りは最終的に外に向かうこともある。外ってわかるよな?」
カリンは首を振る。
「男は外、女は内に行くことが多いと言われている。怒気が人に向かう、つまり人に攻撃するってことだ。内は自傷行為のことな。まあ、人に心を許さなくなったのには理由があるんだろうがそこまでは俺もわからねぇや」
天外は肩をすくめて見せると、次の事例の人物がいるらしい、乱の家からやや離れた、斜め向かいのほうの家を指さした。
「最後に無知だが……。あの屋敷———」
その家屋からは、ちょうど親子らしい二人が出て来た。何やら目くじらを立てている表情から察するに、少なくとも和やかに話をしている雰囲気ではなさそうだった。
「あれは、自分たちの縁者は十分いるはずなのに、それでも満足できず自分の縁者を犠牲にしてでも、さらにたくさんの眷属との因縁を築こうとしてる一族、”千和蓮”だ。輪廻してもろくな人生を送れないからという理由かららしいんだが、結局のところ、現世において、盗み、虐待、賭博、暴力その他もろもろ、ろくな人生しか選択してこなかった因果応報だというのに、それに全く目を向けようとしない」
そう話す天外の顔は、少し寂しそうだった。
親族は縁者と呼ぶが、親族以外の友人知人の他、過去に自分と何らかの縁のあった人物も含めた関係の繋がりを眷属と云い、修羅界においてはそれも充分大切な縁なのだった。
「……愚かだよな」
ぽつり、と呟く天外。
その一言には、今、天外が思っている感情すべてが凝縮しているかのようだった。
因縁は仏語で、「すべての結果には、必ず原因がある」と考えられており、一切の存在は、因縁によって生じ、因縁によって滅するとされる。
また、良い事も悪い事も含めたことが因縁とされています。