ななおとひな菊1
・カリン―――この物語の主人公。生まれ持った自分の特性から、現世で苦しく寂しい日々を過ごしていた。自己肯定感が低く、ネガティブな思考を持つ。大人しくて静かな性格。
・乱―—―修羅界でのカリンの身元引受人のような存在。身請け人(家族や身内)がいない人の身元も引き受けている。
・天外―—―乱に身請けしてもらっている男性。カリンの世話役を頼まれている。切れ長の目元をした、少しぶっきらぼうな性格。
・咨結―――乱の知り合いの男の子。いつもニコニコとしている8歳くらいの男の子。常にカリンの不安を察知してくれる、とても優しい子。なぜか話をしない。
・明衣―――乱の知り合いで、可愛らしい姿とは反対に勝気な性格で、言葉遣いが少し古臭い女性。過去世での出来事から人を信用していないが、カリンにだけは心を開いている様子。
・ひな菊―――乱の知り合い。淑やかで優しい女性。
・ななお―――カリンに威圧感のある細身の男性。
・仙夾―—―乱の知り合い。着物の仕立屋をしている、無表情で無口に近い男性。手先がとても器用だが、物忘れをする癖がある。
・伊佐治―—―額と腕に入れ墨のような絵が描かれていて、一見いかつい人に見えるが実がとても世話好き。身請け人(修羅界での家族のようなもの)がいない人の身元を引き受けている。
・白木蓮―—―乱の知り合い。色白で中性的な姿をした男性。どういった人物かは謎。
『———もしお前が妄念に取り込まれて、妄執にでもなってみろ。ひな菊になんて説明すりゃあいい?!』
伊佐治に言われた一言がずしりとななおの心に影を落とす。伊佐治の言っていたことは決して間違っていない。
(役回り中に自分が隠滅されると仲間に迷惑をかけるどころではない。ここの住人には隠滅は人殺しとも言われているくらい反感を持たれ、忌み嫌われている行為。そんなことを仲間にさせるわけにはいかない。だが、もし、私が隠滅されたらひな菊は悲しんでくれるだろうか……)
ぼやつく頭でふらふらと歩き、裏路地を見つけるや入り込む。力なく壁に背を預け、ふうと深いため息を吐く。シャランと金属の重なる音が手元から聞こえる。そこでようやく錫杖を持ったままだったことに気付く。誰にも見られていなければいいのだが、と自分の失態で鈍っていた頭がようやく覚める。
肝を冷やしたまま右手に持った錫杖を左の掌にあてる。すると錫杖はそのままするりと手の中へと収まっていった。
そこへ
「また役回り中にぼさっとして来たか」
という女の細高い声。口から心臓が飛び出るほど驚いたななおは、即座に声のした方を振り向く。
そこには明衣が立っていた。
人の背後から足音の一つも立てず現れたことに文句の一つでも言ってやりたかったが、今はとてもそんな気分にはなれずただ大きな息を吐く。
「明衣か、おどかすな!」
「ふん、まだ回帰士をしていることをひな菊に隠しておるのか」
明衣は鼻で笑った。
「尾けてきたとは趣味が悪い」
「いや、加勢に入ろうと向かったが、もう役回りが完了しておってな。そのあとお主がなにやらぼんやりとしておったから、気になってついてきたんじゃ」
「それを尾つけてくるというのだ」
牽制するように細めた目で明衣を見やるも、当の本人は全く気にしていない様子でにやにやしていた。
「ひな菊に正体を隠しておると何かと不便じゃのう」
「余計なお世話だ。お前にあれこれ詮索される筋合いはない。用がないなら私は帰るぞ」
「まあそう言うな。巽の身請けした現世の者、カリン殿をお前はどう思うておるか聞きたくてな」
明衣は眼鏡に手をやり、垂れてきた前髪を耳に掛ける。
「……興味ないな」
「そうか?———この前カリン殿に挨拶をしに行ったんじゃ。実際、謙虚で控えめ、生真面目そうないい子じゃった。じゃけぇ、どうも好かんかった……」
「お前の好き嫌いを話しに来たのか?」
「お前はあの子と会うて何も思わんかったか?」
不機嫌なななおを横目に明衣は構わず話し続ける。
「巽には言わんと約束したけぇ……カリン殿に興味のないお前に話しても構わんじゃろ。……カリン殿は自分を偽っておる。現世に戻らんと修羅界に留まるのは、ここで死に場所を探しておるのかもしれん」
「だとしても私には関係ない。現世の者に好きにさせればいいだろう」
「そうけぇ。カリン殿はとてつもない暗闇を抱えておるのを感じたろう?あのみすばらしいほど生に執着しとらん枯れ果てた魂。わしは、あやつにわしと同じような道を辿ってもらいとうない」
「なおさら勝手に身請けをした巽に任せておけばいいだろう。他人の人生に我々が何ができる?現世の者の対応を優先するというならそうすればいい。だが現世の者と何の接点もない我々が巻き込まれるのは御免だ」
明るくさっぱりしているとはいえ常に人の粗をつつき、人に懐きにくい面もある明衣。特に天外との相性は最悪で、顔を合わせれば必ず大なり小なり言い争いが起こる。そんな明衣が今は生き生きしているように見えるのがとても奇異だった。
明衣はななおが修羅界へ来る前からいたため、どういった過去世を持っているのか当然知らず、聞くつもりもなかった。そのため会った時からこんな性格なのだと思っていたが、いつになく人に興味を示す明衣のこの態度。もしかしたらカリンと因縁があるのだろうか。
ななおはこの時初めて明衣の過去世を一切知らないことに気付いたのだった。どうしていつも一緒に役回りをしている仲なのに、こんなにも明衣の事を知らなかったのだろう、とななおは少し自分の無関心さを恥じた。
「とにかく私は余計な問題を増やす気はない。自分の問題だけで手いっぱいだ。明衣もカリンに構うのは構わないがひな菊だけは巻き込むな」
ななおは腕を組み、ふい、と裏路地の間から見える表通りに視線を移す。早く話しを終わらせてくれないか、といったふうだった。
「そうじゃな、お前らには縁のない話じゃの。時にひな菊はどうじゃ?息災かえ?」
明衣の何気ない問いにななおの眉がぴくりと動く。ななおはひな菊の話題にはとても敏感だった。当然明衣はそれを十分承知した上での問い掛けだった。
「ひな菊は……いつも通りだ。この前は家に石を投げられ、その前はいきなり着物を剥がされた……」
そう答えてからななおは唇を強く噛み締めた。ななおの顔は地獄を引き連れているかの如く、怒りに満ちていく。
「落ち着け、落ち着け。お前が妄念を生み出しでもしたら洒落にならん。しかし、着物を剥ぐ?それはなんとむごい。さらにその前は突き飛ばされたと言っておらんかったか?なぜやり返さぬ?」
明衣は同情を乗せた溜息をついた。ここの住人のひな菊に対する態度が酷い事は明衣も承知していた。その原因がひな菊の姿——異様な姿をしているからという偏見の差別——に由来するということも。
「現世で似たようなことを経験した連中が修羅界へ来てもまだそれを繰り返しておるとは、まったく因果応報はどうなっておるのじゃ……!お前もひな菊が心配ではないのか?なぜひな菊を一人にしてまで回帰士を続ける?」
ななおは明衣の質問に少し間を置き、やがて口を開いた。
「私はこの通り、ひな菊とは反対の……男とも女とも見える姿をしている。私は前世でこの姿が嫌いで嫌いで嫌いでたまらなかった。なのに修羅界に来てもまた同じ姿だという。私を見かける連中は、私の魂がきれいだの、前世での行いが良かっただの好き勝手言っているが……」
ななおは歪んだ口で笑った。宙を眺めしばらく口を閉じていたが再び話し始めた。
「私からすればそんなことはどうでも良い。私はとにかくこの姿から解放されたかった!なのに、まさか死後でもこの姿になるとは思わなかった」
「お主が姿に執着した因果かのう。まったく理不尽極まりないわ」
ななおは帰るのを諦めたのか、腰を下ろすと地面に尻をつけあぐらをかいた。続けて明衣も腰を下ろし、人の雑踏から離れた路地裏で向かい合った二人は話を続ける。
「修羅界に来たばかりの私は自分の姿に絶望していた。そんな私の前にひな菊が現れた。彼女の存在を認めない奴らから虐げられ、地面に顔を伏せてうずくまって黙って蹴とばされていた。奴らは満足すると去って行ったが、彼女は当たり散らすことも怒ることもせず、着物の汚れを落とすと何事もなかったかのように気丈に歩いて行った、とても痛くて苦しいはずなのにそんな態度は一切見せず。その時見た彼女の後ろ姿はとても美しかった……。私なんかよりも遙かに彼女が美しいということだけは見た瞬間にわかった———」
———縁者を捜し歩く気にもなれず、一人川の傍にどれほどの時間居ただろうか。川の先は真っ暗くてまるで地獄に繋がっているように思えた。
転生したところでまたこの男とも女とも言えない姿に生まれ変わるのかもしれないと思うと、情けなくて恐ろしくて絶望でいっぱいだった。そんなことならいっそ、全ての過去を手放して地獄に行った方がましだと、どこに繋がっているかもわからない川へ入ろうと思ったその時。
「この川は現世に続いているのかしら。それとも川の流れが誰かの縁と繋がっているのかしらね。全てが誰かに繋がっているのかと思うととても感慨深いと思わない?」
ひな菊だった。
皆私を見ると第一声は必ず姿がどうのこうのと褒めて来たものだった。ところがひな菊はそんなことなど一言も口にせず、私を普通の一人の人間として声を掛けてきてくれた。
私の幼少期は普通に過ごしていた。普通に過ごし普通に生き、そして普通に一生を終えると思っていた。
だがいつしか、明るい色よりも落ち着いた色を好んで選ぶようになり、女児が選ぶような華やかな柄の着物を自然と選ばなくなっていた。友達も淑やかにしないといけない女子と一緒にいるよりも、振る舞いを気にしない男子と話している方がとても気が楽だという、少しづつ訪れている変化に全く気付くことはなかった。
しかし、体はやがて女として成長していく。
私はそれが心の底から嫌だった。どうして女にならなければいけないのか、自分の体が汚れていくようで、とても不快でたまらなかった。止められない成長。胸などそぎ落としたいとさえ思った。いつか、見栄を張るように着飾り、男を魅了し、振る舞い、結婚し、家庭を持ち、子供を産まなければいけないのか。
逃げ場のない未来には絶望だけ。どう生きればいい?———
四苦八苦。仏教用語。
根本的な生・老・病・死の四苦と、それに愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦 を加えた八苦。
・生苦 - この世に生まれたことの苦しみ人(生まれる場所、条件を選べない)。
・老苦 - 老いることから逃げられない苦しみ。
・病苦 - 病から逃げられない苦しみ。
・死苦 - 死ぬことから逃げられない苦しみ。
・愛別離苦 - 親・兄弟・妻子など愛する者と生別・死別する苦しみ
・怨憎会苦- 怨み憎んでいる者に会わなければいけない苦しみ
・求不得苦 - 求める物が思うように得られない苦しみ
・五蘊盛苦 - 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならない苦しみ
誰もが必ず一度は考える事がある悩みや疑問。
生きることが辛いのは当然と説かれているので、肩を張って日々のストレスを正面から耐えるよりも、むしろ辛いことがあって当然という、軽い気持ちで受け流せるようになると心が軽くなるかもしれません。