傷の形③
橋姫は再び顔に面を取り付ける。やってきた場所は、詠菜を隠滅した所から少し離れたとある一軒家。
その家の木製の玄関扉を数回叩く。
返事はない。
再び玄関扉を数回叩く。すると、ややあって何者か訊ねる声が扉の奥から聞こえて来た。間もなく、ガラと玄関扉が開かれる。現れたのは薄水色のワイシャツに紺のスラックスを履き、髪を後方へ撫でつけた現代風の中年男性だった。
「僕がここに来た理由がわかります?」
「……っ!!」
中年男性は突然目の前に現れた面をつけた人物に、声にならない声をあげ目を剥む。そして体をくるりと反転させ、家の奥へ転がるように駆けて行く。
「詠菜の縁者ですよね……?前世での……父親、かな?」
橋姫は玄関へと踏み入れる。
橋姫は役回り中、この人物が詠菜の隠滅の様子を陰から伺っていたのを見かけていた。それで気になってやってきたのだ。
橋姫の予想は当たっていた。この中年男性は詠菜の元父親だった。自分の子供として因縁があった詠菜の父親と、その魂を隠滅した回帰士とが顔を合わせた瞬間だった。
腰が抜けたのか足がもつれ、男性は顔から倒れ込む。倒れ込んだ音だけが空しく響き、この家には他に誰も居ない事がわかる。
橋姫は面の顎に手を当てながらさらに言葉を続ける。
「僕たちが詠菜を隠滅するのをこっそり見ていたでしょ?」
橋姫は錫杖を両肩に乗せ、倒れたまま視線を合わせようとしない詠菜の父親をわざと覗き込んだ。
「どうして近くにいたのに最後くらい詠菜に会ってあげなかったの?あなたにとって詠菜との因縁はその程度のものだった、ということ?それならあなたが前世で詠菜に対して行った配慮に欠けた行動にも納得いくけど……」
「そんなわけないだろうっ!そんなわけ……」
回帰士をきっ、と睨みつけた父親の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「なら、どうして泣いてるの?普通なら自分の縁者、まして子供との因縁が消されるとなったらみんな拒絶するのに、あなたは彼女の隠滅を止めなかった。因縁の隠滅をされても後悔はないってことで、泣く必要はないはずでしょ?今更被害者ヅラですか?そもそもこの因果を招いたのは、あなた自身なの、わかってます?」
橋姫は男性に蔑んだ視線を投げる。
「まさか!今更後悔してるの?なら何を以って後悔に至ったのか教えてよ。詠菜があなたと因縁を切ったこと?それともあなたたち両親が詠菜にしたこと?でもさ、詠菜はあなた達と因縁を切る事を選んで転生した。今はもうあなたたち親子の縁は切れたんだから、繋がってない人への後悔は必要ないんじゃない?そのうちあなた達から詠菜と関わった過去の記憶が消えるだろうし」
「後悔するな、なんてそんな馬鹿な事あるか……!まさかあの子が、詠菜が我々と縁を切りたいほど心を痛めていたとは知らなかった……!あんなに傷ついていたとは知らなかった……」
詠菜の元父親は俯いたまま、悔しさを握りつぶさんほどの力を込めた拳で床を殴りつける。何度も、何度も。
橋姫は何も言わず、ただただ冷ややかな視線を送るだけだった。
「あなた達はただの夫婦喧嘩だと思っていたかもしれないけど、あなた達が思う以上に子供に恐怖心を与えていたんだよ。ねえ、想像してみてよ。普段優しい親同士が罵声や怒声を発している姿を。あなたが小さい頃に自分の親のそんな姿を見たらどう思ってた?」
「だが、夫婦喧嘩なんてどこの家でもするだろう!なんで俺だけが咎められるんだ?!」
橋姫は右手を額に当て、呆れながら首をけだるそうに振る。
詠菜が苦悩に執着していたことを想うと、この親にあの子はもったいなさすぎる、と心の奥で嘆いた。だが、因縁とは皮肉なもので、どの親にどの子と繋がるかは、くじを引くのと同じく運次第だ。そしてその運もまた巡り合わせでもある。この父親と巡り合ったことは一つの縁であり、それは一概に悪い事とも言い切れないのだ。
「やっぱりあなたはわかってないなぁ!あなたは思ったはずだよ?あなたの親もあなたの目の前で言い争いをしていた。そして、その様子をあなたはとても恐がっていた!つまりあなたには詠菜の気持ちを十分理解できたはずだ!行き過ぎた夫婦喧嘩なんて、子供に見せるものじゃないと知っていたでしょう!」
男性の言葉に被せるように、橋姫は男性の真の心を代弁する。目の前で自分の両親が言い争いをしているのを目にして怯えない子供が、いるわけがないのだ。
「た、確かに私も子供の頃、両親の夫婦喧嘩は恐かった。だが……暴力?確かに恐い思いをさせてしまったかもしれないけど、俺は暴力は振るっていない!俺は手を出されたが、俺は誓ってあの子に一度も手を出したことはない!」
ようやく男性は立ち上がりながら、服についた埃を払う。その動作は自分のいわれのない罪を晴らそうというようにも見える。
橋姫はさらに足を踏み出し玄関の上り口に腰を下ろす。そしてあごの下で両手を組んだ。
「だから……その恐怖心を与えること自体が暴力なの。叩いたり殴ったりすることだけが暴力じゃないんだよ。奥さんへは言葉の暴力だしね。子供の目の前で言い争いをしたり、危害を加えたり、衝撃的な光景を見せることも”心への暴力”なんだよ。ねぇ、例えばどんなことを言ってたの?僕があなたの妻だとして、どんな暴言吐いたのか教えてよ」
「……」
「さあ、さあ!」
「わざわざ言う必要ないだろ!俺を馬鹿にするのもいい加減にしろよ、てめぇ、回帰士だからって俺がビビるとでも思ってるのか……!」
突然、ドスの利いた声が二人の空間を震わせ、そして辺りに広がっていく。
しばらく経っても耳の奥にこびりつく、爆発にも似た言い様だった。
「うん、その口調!恐いなぁ、威圧感があるよ!」
橋姫は口端を上げて笑った。手を組んだままの指で鼻をこする。
「詠菜は、あなたが”おかあさんを殺してしまうんじゃないか”とも思ったそうだよ。子供が見たらどれだけ恐かっただろうね。言葉の暴力の恐怖だけでなく、殴り合い、果ては殺し合いになるかもしれないと言う恐怖。泣かずにいられた詠菜は、本当に凄かったと思わない?一人で頑張って耐えてたんだろうね、一般的な子供の精神状態の限度を通り越して……。そしてあなたは、子供の人生の礎を、つまりは未来を壊してしまっていた」
「詠菜の未来?どうして今、詠菜の人生が関係ある……!?」
言い返そうとする男に手の平を向け、静かにするよう男を制す。
ついさっきまで威勢が良かった男は、面から覗く橋姫の目に静かな怒りが浮かんでいるのを感じ取り、大人しく言葉を飲み込んだ。
「子供のうちに傷ついた心は、成長して大人になっても完全に治ることはない。その傷というのも一つじゃなくて、粉々になったガラスみたく細かくたくさん飛び散って、心の奥に埋もれていく。どこにどんな形のどれだけの数と深さの傷があるか、本人さえも気付くことができない」
橋姫は厳しくも優しくそう諭す。
「そういった心の傷が原因で性格や体験に影響を及ぼし、その結果人生を左右させてしまうこともあるんだよ。子供の人生の礎、その礎は心ってこと。心は色んな事に繋がっているんだ。例えば”性格”は社会で生きていくのに大事な生きる術の一つ。その"性格"に悪影響を与えてしまったら?性格は生まれついたものだから仕方ない、と今までで一度は思ったことはあるんじゃない?」
「あるさ。だって、個性だろう?個性は選べない。そう、生まれついた個性じゃないか。あの子は小さい頃から大人しく、聞き分けが良くて手が掛からなかった。俺がした事とあの子の性格が何の関係があるってんだ?」
「育った環境に問題があったなら、性格に影を落としていることは少なくなかったということ、まだわかんない?」
回帰士は小さく息を吐いた。
「自分は詠菜をしっかり育てて来たと?それはあなたの思い込みだよ。詠菜はひどく心を痛めていたと思う」
「それならどうして俺たちに話さな……。……!」
「詠菜は聞き分けが良かったんでしょ?」
男性は悟った瞬間、口をぽかんと開けて宙を仰いだ。そんな男性に橋姫はさらに追い打ちをかける。
「何が聞き分けを良くさせたの?」
男性はかつての笑顔の詠菜の顔を思い浮かべた。あの、はにかんだ笑顔の裏では自分の行いによる傷で心から笑えていなかったのだと思うと胸がえぐられる思いだった。橋姫の言葉に、男性は立っている力さえすっかりなくし、ひたすらむせび泣いた。
「あなたの醜い部分も見てるからあなたに話そうと思う以前に、あなたに話すという選択肢がなかった。口答えすると怒鳴られるという母を目の前で見て、相談などできるはずないよね。さらに悪い事に長女だからと人に頼られることを当たり前とし、逃げる選択肢もあるという事を教えてあげなかった。詠菜はいつも1人で逃げ場所がなかったんだよ。そんな性格にしたのはあなた達だ」
しばらくの間沈黙が二人を包んでいた。玄関の外からは、皮肉にも幼い子供たちの楽し気な笑い声が聞こえて来た。
「余計なお世話だけど、詠菜って結婚したの?」
「……」
橋姫の質問に父親は心当たりがあるのか口をつぐむ。
「縁があったかどうかの意味で聞いたんじゃないのは、わかってくれたみたいで良かったよ。心の傷というものは、性格を変え、そう、縁でさえ左右してしまう」
橋姫の質問の意図は、生涯を共にする人と出逢えたかどうかではなく、詠菜が生涯を共にする人と出逢いたいと思える心を持っていたかどうか。
家族が好きだった詠菜は、きっと自分も自分の家族を持つ事を望んでいただろう。だが、心の傷を負っていたら、誰かと一緒になりたいという気持ちにはなれなかったのではないだろうか。
今となっては橋姫の推測に過ぎないが……。
その元父親の様子を冷めた目で眺める橋姫。詠菜の心に深い傷跡を残してしまったことを心の底から反省しているのだろうか、と思いながら。
「あなたが詠菜に行なった行為に対して真の後悔を感じている……というのなら、それはいい事だよ。だって、詠菜があなたと縁を切ったことは因果応報としてあなたに報いたのだから。こうなったのはあなたの行いのせいで、その業に対する報いを受けたという事」
因果応報、自業自得。善因善果、悪因悪果。
それは自分の行いが自分に返ってくる、避けられない大きな自分の行為の結果。
「もう詠菜との因縁は切れてしまったけど、来世では同じ過ちを起こさないよう思いやりの気持ちを持つように。あなた方のいがみ合う姿を見たくないというのは、裏を返せば詠菜から愛されていた証拠だと思う。どんな姿になってもあなたを家族として見ていた。本来ならあなたが詠菜を守っていく立場だったのに、あなたの方が生涯詠菜に見守られていたんじゃないかな」
うずくまって泣いている男性。果たして橋姫の話が耳に入っているのかは不明だった。どんなに泣いても、どんなに後悔しても”自分の行いが自分に返ってくる”だけ。
「来世へ向かった詠菜の人生にとって、新たな良い縁が結ばれることを心から願ってあげてください。それが詠菜に恩を表せる唯一の形だと、僕は思うから」今は小さくなった、その男の背中を眺める。
やりきれない気持ちと、自責の念で押しつぶされそうなその姿はとてもいたたまれない。しかし、結局は自分の行った結果なのであれば、誰も、何もできることはない。
とはいえ、男は、いつかこうなることを覚悟していたのかもしれない。
なぜなら、ここは修羅界。自分の生きて来た中の行いに後悔を見出し、その後悔に執着する。
死の間際、感謝と後悔を述べる事が多いのは、現世への執着をしないためなのかもしれない。
橋姫は玄関から腰をあげると、男性の方をぽんと叩き哀悼の意を示した。静かに泣き続ける男性の脇を通り、玄関口に立つと
「後悔先に立たず、だよ」
去り際にぼそりと呟き、男性の家を後にした。
因果応報は主に悪い結果を報いる意味に感じますが、「善い行いをしていれば、いずれ善い結果に報いられる(善因善果)」、「悪い行為には、必ず悪い結果や報いがある(悪因悪果)」という言葉が仏語にあります。なので悪い事だけに報いがあるというわけではないのです。