傷の形②
二人の回帰士は一息つく間もなく、道に現れた足跡のような印を追いかけて行く。その小さな足跡は二人が進むのに合わせて道に現れるので、見えない何かがそこを歩いていて、二人を導いているようだった。
そこへ、笠を目深に被り、袈裟を身につけ、錫杖を持ったまさに僧侶の姿をした回帰士が現れると二人と合流した。
足跡が導いた先には一人遊んでいる女の子がいた。路地の突き当りになっており小石で地面に絵を描いて遊んでいた。
突然回帰士に囲まれ、目をきょとんとさせている。いたって、ごく普通の女の子だったが、さきほどの妄念の背格好が女の子とぴったりと重なる。この女の子が妄念を生み出した本人に違いなかった。
女の子はみるみると青ざめていき何かを悟った。なぜ回帰士に囲まれているのか。力なく自分を指さす。
笠を被った人物は同情するような表情で頷いた。
「名前は何て言うんだい?」
「…詠菜」
「詠菜、気付いてないだろうが、お前さんの妄念が人を襲った。このままでは恐らくお前さん自身、まもなく妄執になるだろう」
笠の回帰士と詠菜が話をしている傍で、弓の回帰士は先ほどと同じ手順で経を唱えながら、詠菜を中心に東西南北の位置へと速やかに矢を放ち粛々と彼女の魂を消滅する準備を進めていく。
ごくごく普通の子供と何ら変わりはない女の子。さっきの妄念のように苦しんでいる様子も見受けられない。なのに、魂を消滅数しかないのかと思うと矢を放ちながら胸が痛んでいた。
「中断するな!」
笠を被った人物からいきなり叱責を受け今の作業に集中する。いつの間にか経が途絶えてしまっていた。
笠を被った回帰士は、詠菜の隣に腰を下ろすと再び話しかけた。
「詠菜、お前さんが苦しんでいる理由はおおむね妄念から聞いた。両親の喧嘩を目にしてさぞ怖かったろう。お前さんが両親を恨んでないことも知っている」
詠菜は頷く。わずかだか嬉しそうだった。
「どうした?俺がお前さんが喜ぶような気の利いたこと、言ったかい?」
「おとうさんとおかあさんをうらんでないこと、わかってもらえて嬉しいの」
今度ははっきりと嬉しいというような笑顔をを見せる。
「そうかい。おまえさんは二人が大好きなんだな、お前さんの気持ちが俺にも伝わってくるよ」
笠を被った回帰士は詠菜の頭を撫でた。それから一息ついて真剣な面持ちでこう尋ねた。
「だが、二人を恨んでないのにどうして妄念が出て来たのか、もう少し詳しく教えちゃくれねぇか?お前さんが苦しんでいる本当の理由があるはずだ」
その言葉が合図だったかのように、詠菜の姿が突然人ならざる姿に崩れた。そして火傷の跡が広がっていくかのような、さっきの妄念とそっくりにだんだんと黒く変化して行く。
「やっぱり……、やっぱり、誰もわたしのきもちをわかってくれない……」
その黒さは平常心を忘れた修羅の心を表しているかのようにどす黒いかった。
ついに詠菜の姿は二つに分かれ、完全に原型をとどめていない手足を生やした異物。もはや人ではない姿。
片方は、その分裂に驚き怯んでいる弓の回帰士に襲いかかった。弓の回帰士は受け身を取る暇もなく、後方に大きく突き飛ばされてしまう。
もう一方の詠菜は笠を被った回帰士に向かって、素早く手を繰り出すものの自分の背後から錫杖の回帰士の気配を感じ取りひらりと身をかわした。
こうしている間にも、二人に分かれた魂は、さらに黒く変化して行く。心臓辺りから始まり、残すは手足と頭。
(やっぱり妄執になったか……。だが一体何が詠菜をこうさせた?俺は何を間違った?三毒が回るのが早くて時間がねぇな、”燐”で浄化をしながら隠滅するか……)
笠を被った回帰士は、離れた場所に居る二人の回帰士に視線で合図を送った。
その合図を確認すると、二人は錫杖で地面をたたき一定のリズムを取りながら短い経を唱え始めた。
「オン バザラ タラマ キリク ソワカ、オン バザラ タラマ キリク ソワカ……」
まるで錫杖が打楽器の役割を果たし、経が経でなく、歌を歌っているかのような錯覚に陥る。そしてその歌を裂く断末魔のような叫び。
果たしてこれが正しいことなのか、と弓の回帰士は疑問を浮かべる。人助けをしているはずなのに、こんなにも苦しい思いをさせてしまうのならそのままにしておいてもいいのではないか。執着に心を見失い自我がなくなるその時まで、縁者の元に置いておいてやっても良かったのではないか———。
経の効力により、分裂していた詠菜が徐々に丸く光を帯びた炎へ変化して行く。いつしか詠菜の断末魔も止んでいた。代わりに可愛らしい声が三人の耳に触れる。自我を取り戻した詠菜の声だった。
「因縁が繋がっていたら、またおとうさんとおかあさんに会う?」
「ああ、安心しな。隠滅せずに済んだから、みんなちゃんと来世に続いているぞ」
「また会うなら、また憎み合うかもしれない。私を”執着”から解放しても、あの二人が憎み合う因縁までは変わらない。そうでしょう?」
笠を被った回帰士は要領を得ない表情で詠菜の話を黙って聞いている。弓と錫杖を持った回帰士も同様に思いながら、詠菜の会話にまさかと思いつつも、話の流れから何を言いたいのか察する。
「自分の家族同士の醜い姿はもう見たくないよ。あの家族は大好きだけど……もう見たくない……よ。私の今までの因縁を全て消してください」
そう言って炎になった詠菜は一粒涙を落とす。
「せっかく心を取り戻したのに、お前さんは敢えて3つ目の選択をするのかい?」
「哀しい記憶を持ったまま来世の来世にも続いて行くのは、嫌だから」
「……お前さんの心がそれで救われるというなら、俺らはそれを尊重するだけだ」
笠を被った回帰士は”あい、わかった”と返事をすると、錫杖で二度地面をたたいた。
「四無量心を学びし魂、ここに修羅神の名の下に汝を解放する。諸法無我、色即是空」
どこからともなく蝶が現れ、笠を被った回帰士の周りを舞いはじめた。右掌を差し出すと、そこに蝶が止まる。
他の回帰士二人も続いて経を唱えはじめる。
「かんじーざいぼーさーぎょうじんはんにゃーはーらーみーたー じーしょうけんごーうんかいくーどーいっさいくーやく—————」
雫が垂れるように詠菜の炎がゆっくりと蝶に合わさって行く。完全に合わさると蝶はまるで神々しい神聖な生物のように見えた。詠菜の炎を受け取った蝶は大きな光をまとい、ふわりふわりと香寿堂の神木へと舞って行った。来世へと転生するために。
◇
三人の回帰士は複雑な顔で詠菜を見送った。詠菜の暖かく優しい光が、三人にとって唯一の救いだった。
なぜ自分の大切な家族の縁を消す選択をしたのか。縁が繋がってさえいれば来世でも必ず会える、いわば赤い糸という役目なのだ。それを、本人自ら不要だと言う。
「俺ら回帰士は本人の意思を尊重するしかねぇ。家族が拒否をしても、本人がやり直したいというならそうするまでだ。あの子は因縁を切りたいと思うほどに、身内同士が争う姿は見たくなかったんだろう。あの子はそれだけ家族を大事に想っていたんだろうが、両親はそうではなかった。皮肉でならねぇな……」
三人の回帰士は家々の並ぶ屋根へと場所をうつしていた。
笠を被った回帰士———すでに笠を取っていたが———は、額と腕に模様がある中年男性、伊佐治だった。
「どうして自ら隠滅を選んだのか納得行かないですか?人は誰にでも幸せになる権利があります。そして、幸せだと感じることは人それぞれ、幸せになる方法も人それぞれということですよ」
「わかっている」
錫杖の回帰士に言い添えられ、その細身で弓を扱っていた人物が顔の面を取りながらぴしゃりと返事を返す。面の下に現れた顔、それはひな菊と一緒にいたななおだった。
「だが、すぐに助けを求められる人間はいいが、それが簡単にできない人もいるのを知っているか?お前のような奴にはわからないだろう」
最後のもう一人、錫杖を扱っていた人物は名を橋姫と言った。女性らしい名ではあるが、一応魂の姿は男性である。年齢は10代後半で短髪、常に口を半月のように笑みを浮かべている姿はどこかつかみどころのない雰囲気を表しているようだった。
回帰士の役回りは奉仕活動のようなもので、妄念に気付いた者、又は距離的に妄念に近いものが自主的に駆け付け対応するという仕組みである。彼らは常に妄念の役回りに当たりすでに見知った仲ではあったが、それぞれの個性と合うかと言うとまた話は別であった。
「そのくらい僕もわかってますって。自分から言えない人には、周りが気付いてあげることが重要だとね。ただ、人は自分が幸せだと他人の悩みになんてなかなか気づかない。所詮薄情みんな薄情なんですよ」
「だから我々がいるのだろう?最期まで苦しむ理由は誰にも理解されないまま、誰にも伝えないまま、さらには修羅界でも現世へ執着する理由を誰にも知られぬままに消されてしまうのはあまりにも酷だ」
ななおは大きなため息吐いた。掌を見つめ、そして力強く握る。この手で救えなかった後悔を確かめる。
執着する理由が誰か一人にでも理解されるということは、執着から解放される事。従って執着する理由を理解されないまま役をこなすより、執着する理由を理解するということは、回帰士の役回りをする上での重要な信念だった。
「さて、と。伊佐治さんは詠菜の妄念に襲われた人の確認に行くんですよね?なら、もう解散でいいですよね?」
「ああ、構わねぇが扇木は少し残ってくれ」
伊佐治が答えると、それじゃ、と言って橋姫は屋根から裏道にひょいと降りると、何食わぬ顔をして人々の中に溶け込んだ。
伊佐治はななおの正面に立つと、目尻を上げながら詰め寄った。
「扇木、役回り中余計な事を考えていたろう?途中で術を切りやがって。隠滅される本人は不安でいっぱいなんだ、お前が不安を煽る様な態度を見せてどうする?最後まで目を背けず敬意の心を持って来世へ送り出してやる、それが俺たちだ。わかったか?」
「ああ、わかっている」
「それから隠滅するまでは気を抜くな。もしお前が妄執に取り込まれて、妄執にでもなってみろ。ひな菊になんて説明すりゃあいい?!俺に、お前を隠滅した、なんて言わせるんじゃねぇぞ!」
「……すまない」
ななおは肩を落とし、悔しそうな表情を滲ませる。呟くように伊佐治に謝る。面を懐へ突っ込むと伊佐治にくるりと背を向けた。
・四無量心
一見難しい四字熟語のような言葉ですが、この言葉を知り、さらに意味を知って、何か救われたような感覚になりました。
思いやりをすべて書き出すと、こういうことなんだと改めて思わせてくれる素敵な言葉だと思いました。
仏が一切の衆生に対して、無限で平等な4種の心
1.あらゆる人に深い友愛の心を限りなく配ること (慈無量心・慈しみの心)
2.あらゆる人と苦しみをともにする同感の心を限りなく起すこと (悲無量心・憐れみの心)
3.あらゆる人の喜びをみてみずからも喜ぶ心を限りなく起すこと (喜無量心・喜びの心)
4.いずれにもかたよらない平静な心を限りなく起すこと (捨無量心・動揺せず、平静で落ち着いた心を持つこと)