傷の形①
乱の家からそう遠く離れていない場所でそれは現れた。
周囲の空気が緊迫し、騒がしくなる。すでにたくさんの人が集まっており群衆の壁が出来ていた。
群衆が途切れ、人だかりが囲んでいたその中心には、体から血を流した人物がうつぶせに倒れていた。すぐ近くには原因のそれがいた。
それは黒い煙が渦巻いているような人の形をした、何か。人の形をしているけど人ではない、現世離れした何か。だけど、それは人と同じように頭や手足を持ち、動いている。
周りの者は日頃から見慣れているのか、特に混乱しているような者は見当たらない。むしろ他人事のように無関心そうにただ眺めていたり、人の不幸を喜んでいるような様子さえ感じられる。
人の姿をした黒い煙は頭部を右から左へ見回す仕草をし、次に誰を襲うか周りの魂達を物色しはじめた。その黒い煙の行動に野次馬が一斉に逃げ出していく。
その中の一人に狙いを見定めると、黒い煙でできた手をひゅっと伸ばす。
次の瞬間、伸ばした手は切り落とされていた。
体から離れてもなお、地面でビチビチと生きた魚のようにうごめいている。足元からぞわぞわと寒気が全身を駆け巡る光景だった。
黒い煙の手を切り落としたもの———それは現れた、袈裟に身を包み顔を面で隠した二人の人物によるものだった。
一人は細身で手に弓を持っており、もう一人は中肉中背で手には錫杖を持っていた。
そこへ逃げ出したはずの野次馬たちが、一人、二人とまた戻って来ては黒い煙を中心に集まって来る。身の危険を察し逃げて行ったはずなのに、黒い煙の行く末を見届けようと野次馬根性を必死に働かせている。ところがどうもそういうわけではないらしい。群衆の視線は先ほど現れた弓と錫杖を持った人物に向けられている。忌まわしい物でも見るかのような嫌悪感を含んだ、絡みつくような重々しい視線だった。
袈裟を身に着けた二人の人物は、人が死後も執着するその理由を探り、その執着に苦しむ人たちを根本の苦しみから解放するのだった。名を回帰士という。その執着と言うのが人の姿をした黒い煙である。黒い煙は人の執着心が生み出した執着の形、人々はそれを妄念と呼んでいた。
妄念が現れると回帰士が現れ対処してくれるのだが、修羅界の住人は、とある理由から回帰士たちの事を憎んでいた。
弓を持った回帰士はおもむろに経を唱え始めた。
「オン ヂリタラシュタラ ララ ハラマダナ ソワカ、オン ヂリタラシュタラ ララ ハラマダナ ソワカ……」
そして経を唱えながらゆっくりと空に向かって弓を構え、妄念の左前方へ矢を放つ。
すると、なんと妄念が口を開いた。この場にいる全員の心の臓に響くような、空気圧を感じる人でない声。ある者はこの声に悪心を覚え、嘔吐するものもいた。
『どうしてみんなこわい顔をしているの?わたしなにか悪い事したの?』
「いいえ。ですが私たちはあなたを救いに来ました」
錫杖を持った回帰士は回帰士に返答する。
『わたしを助けに?助けてほしいってずっと思ってたのに、いままでだれにも気づいてもらえなかった』
「今なら私たちが居ます。聞かせてもらえますか、あなたの苦しんでいる理由を」
回帰士は地面でビチビチとうごめく自分の手を眺めると、もう片方の手で拾いあげ断面と断面を合わせて切り落とされた腕を体に押し付けた。黒い手は一瞬でくっつき元の腕の姿に戻る。
『わたしにはお父さんとお母さんとおばあちゃんがいてね、普通の家族だったの。でもね……』
悲しくて泣いている子供のように、妄念は涙を拭う仕草をしながらその場へ座り込んだ。そして自分の過去世での記憶を語りだす。
「オン ベイシラマンダヤ ソワカ、オン ベイシラマンダヤ ソワカ……」
弓の回帰士は錫杖の回帰士が妄念と話をしている間も経を唱え続けながら、妄念を中心とした東西南北全てへと矢を放ち終える。
妄念の前世は小さい頃から両親の夫婦喧嘩が絶えない家庭だった。両親の喧嘩が始まると恐くて自分の部屋に逃げ込むが、部屋にいても父親の怒声と、母親の激高した声が聞こえてくるのだった。
その夫婦喧嘩はほぼ毎日、二人が家に居る時ならいつでも起きた。皆集まる食事の時間は最悪だった。食事はもちろん喉を通らないし、目の前の自分の父親と自分の母親がすごい形相をしながら、お互いを憎み、罵り合う姿が見えてしまう。
あまりに酷い言い争いでは、父が母を殴り、それに対して母が刃物を持ち出し、二人が殺し合いをしてしまうのではないかというほど緊迫したこともあった。
子供の目の前で夫婦喧嘩をすると、子供の心は萎縮し、恐怖でいっぱいになる。しかも本来子供の逃げ場所である両親が当事者になってしまうと、逃げ道は断たれ、小さな心はどうしていいかわからず心身に異常を残すことになる。
「本来あなたを助けるべき人が、傍にいてくれなかったことはさぞ辛かったでしょう。あなたがその両親を恨むには十分な理由です。それでもここは修羅に進むか、人として進むか、己の来世を選ぶ場所。誰にもそれを選択できる権利が平等に与えられています」
『ちがう!わたしは家族をうらんでるわけじゃない!』
錫杖の回帰士の言葉に被せるように、妄念は真っ向から否定する。激高する感情に合わせて妄念の姿が一瞬乱れる。
『ただ、仲がいい家族でいたかっただけなの!しあわせな家族でいたかっただけなのおおぉぉ!』
妄念は頭を抱えさらに口調を荒げる。
「誰も恨んでいないのなら、なぜ過去に執着し、あなたを生み出しているんですか?」
錫杖を持った回帰士はひるむことなく、心が乱れている様子の妄念に語り掛けさらに話を聞き出そうとする。
『あなたはどうせわたしの気持ちはわからない。わからないでしょう!?』
妄念は喚き散らしながら目の前の錫杖の回帰士へと、手を次々と伸ばし襲い掛かりはじめた。だが、錫杖を持った回帰士は妄念の動きを見切っていたかのようにことごとく攻撃を避けていく。
残っていた野次馬たちはいよいよ自分に被害が及ばないよう、今度こそ慌てて散り散りに逃げだして行く。一瞬にしてその場が混乱の場へと変化する。
錫杖の回帰士は四方八方へ逃げ惑う野次馬に押し戻されて体勢を崩し、持っていた錫杖を落としてしまった。すると転がった錫杖の近くにいた人たちは、またさらに散り散りに逃げ惑い始める。まるで汚いものでも避けるように、みな顔がひきつり、悲鳴を上げていた。
「確かに私はあなたの苦しみをすべて理解することはできません。本当の苦しみはあなたにしかわからない。全てを理解してあげることが出来ず申し訳ありません。ですが、あなたが心にひどい傷を負っていることは理解しているつもりです。だからあなたをその苦しみから救うお手伝いをさせてください」
妄念は錫杖を持っていた回帰士の言葉に耳を傾けていた。想いを巡らせ考えあぐねている様子だ。と、錫杖を持っていた回帰士が転がった錫杖を拾う瞬間を見逃さなかった。妄念は錫杖の回帰士が自分から視線を外したその瞬間、一気に襲い掛かった。
が、次の瞬間、妄念は見えない何かに弾かれ後方へと吹き飛ぶ。
妄念を弾いたもの、それは、弓を持った回帰士の放った矢が結界の役割を果たし、妄念を囲った範囲から外には出られないようになっていたのだった。
弓を持った細身の回帰士は、いつの間にか弓ではなく錫杖に持ち替えていおり、さっきとは別の経を唱えながら、懐から取り出した小さな紙切れを周りに振り撒きはじめた。その紙切れは桜の花びらのようにひらひらと舞いながら、吹き飛んで転がっている妄念を中心に円を描きながら広がっていく。
錫杖の回帰士は、今まさに起き上がろうとしている妄念の懐に素早く入り込むと拾いあげた錫杖の先を喉元につけた。シャンシャンと金属の弾む音が響く。
「これ以上ご自分を苦しめないでください。ご自分を苦しませても何も解決しません。それでも修羅の道を選ぶというのであれば、我々もあなたを隠滅しないといけなくなります。修羅に身を委ね、自ら来世への縁を断ち切るんですか?この先の来世にはあなたを苦しめる因縁だけでなく、あなたを待っている因縁もあるはずです」
妄念は喉元に錫杖を突き付けられたまま動かなかった。黒い煙のようなものとはいえ、子供の背格好をしているそれが、急所を狙われている様はなんとも痛々しい姿である。
「あなたにはまだ二つだけの選択肢がある。一つ。因縁も記憶も過去から繋いできた全てを受け入れ、このまま来世へ進む輪廻を選べば、記憶も縁もそのままあなたを待つ人の元へまた還ることができます。二つ。執着心をあなた自身から解放するというのであれば、過去から繋いできた全ての記憶だけは消し去る手伝いができます」
必死で心の葛藤と戦っているのか、妄念の姿が丸みを帯びて柔らかくなっていく。振り撒かれた紙切れは妄念を中心にしばらく舞った後、役割を果たしたのかだんだんと薄れ、ついに消えてなくなった。すると、消えたのと同時にヒタヒタと小さな鳥の足跡のような印が道に浮かび上がり、どこかへと続いていた。
その足跡を確認した錫杖の回帰士が弓を持った回帰士の方へ目配せすると、相手も応えるように小さく頷く。
「あなたが何処にいるか見つけました。今からあなたの元へ向かいます」
そう言って錫杖の回帰士は大きく跳躍すると、間髪入れずに持っている錫杖を妄念の胸へと突き刺した。さらに刺さった錫杖へ着地し、深々と食い込ませとどめを刺す。すると、たちまち大きな爆発のようなが起き黒い煙は線香の煙のように薄れていくと、やがて完全に消失した。
子供への暴力は虐待と言われていますが、暴力を振るうだけが虐待ではない事を知りました。
ネットでたまたま目にした記事で知ったのですが、子供の前で夫婦喧嘩(面前DV)をすることも充分な虐待なのだそうです。外国の映画では夫婦が大事な話をする際は、子供に二人きりにしてほしいなどと伝えていますが、文化がごく当たり前のように習慣づいているんですね。
面前DV———子ども(18 歳未満)に対する著しい暴言や拒絶的な対応など、子どもに心理的外傷を与える言動や態度は、児童虐待防止において子どもへの心理的虐待として扱われています。