嵐の前のひと時②
自分は表に出ないよう常に陰に身を潜めていろと言ったのは乱だった。ところがカリンが現れてからというもの、カリンの世話役などという表に出る役をさせるこの態度の変化は一体なんなのだろう、と苛立ちが止まらない。天外は握った両手に力を入れた。
「親方様はカリン殿がここへ残ると決めた気持ちを尊重したいとおっしゃってるんです。それを邪魔する勝手な行動をするつもりなら私は協力できません。それに、もう少し時間をかければきっとカリン殿が動かしてくれるはずだともおっしゃっていました。輪廻の輪を……」
白木蓮がまだ言い終わっていないにもかからず、天外は白木蓮の耳元から顔を離した。
「またその話か……。その輪廻の輪って何だよ?その輪廻の輪を回したらどうなるんだよ?ここの住人のためにその輪廻とやらを回すことがそんなに大事か?ここに居るやつらは来世に転生する事に怯えて、過去にしがみついている奴らばかりだ!そんな奴らのために輪廻を回して何になるって言うんだ?そんなことより、さっさとカリンを現世へ戻すほうがよっぽど優先だとは思わないのか!」
「天外、口を慎しんでください!」
声をひそめて話していたはずが、感情が爆発した天外は自然と声を荒げていた。自分に険しい表情向ける乱に向かって言葉をぶつける。
「現世の者がどうして修羅界に留まる?留まればその分危険も付きまとう。もし万が一ここの住人に消されでもしたら、それこそ取り返しがつかなくなることぐらいわかってるよな?」
「わかってる」
乱は天外を真っすぐ見据え、一言そう答えた。まだ話が終わっていない中、天外は二人に背を向ける。
「どこに行くんです?話はまだ終わってません」
「さあね」
だが天外は引き留めようとする白木蓮に目もくれず、庭から屋根へと飛び移り、そして姿を消した。白木蓮は呆れた視線で乱を見る。
「親方様……」
「ああ、天外なりに心配してくれてるんだろう」
◇
乱がカリンの部屋へ様子を見に行くと、上掛けを掛け大の字で寝ている咨結と、壁に寄り掛かったまま寝息を立てているカリンの姿が目に入った。
「……現世の魂よりここの住人の方が大事かって?もちろんお前が大事に決まってる。だがお前をすぐ現世に戻してもお前はまたきっと戻ってくる。結局お互いがお互いを必要としてる。終わらせるにはお前もそうしたいはずだ……」
乱は壁に寄り掛かっているカリンをそっと抱えると、咨結の隣へと運んだ。
◇
カリンが目を覚ますと、寝息を立てた乱の顔がすぐ目の前にあった。
驚きのあまりまどろみの残っていた意識が一気に目覚める。どうして今こうなっているのかとカリンは記憶を遡った。
確か、咨結がうたたねをしていて、窓の外を眺めていたら見知らぬ色白の男が現れて、咨結に視線を移したらすぐにいなくなっていて、それで、その後は……気を失ってしまっていた?よく思い出せない。
「ん……」
カリンの慌てた気配に気付いた乱も目を覚ました。
「起きたのか。こんな時間に寝るのも気持ちいいものだな」
乱は横になったまま、肘をついた手に頭を乗せた。そして優しく笑いながらカリンの髪に手を伸ばす。
「お前が気持ちよさそうに寝てるのを見てたら、俺も眠くなっちまった」
乱はカリンをしばらく見つめると、人差し指をちょいちょいと動かす仕草をした。
カリンは耳を貸せと言っているのかと思い、おずおずと耳を近づける。しかし、待てども何も聞こえてこない。気付いた時には乱の喉の奥で笑いを堪えた声が聞こえて来ていた。
からかわれたとわかると、慌てて後ろに大きくのけぞった。その勢いでそのまま後ろに転がるカリン
「おい、大丈夫か?」
乱は寝ている咨結を起こさないよう笑いを堪えながらカリンの体を起こしてやるが、カリンは怒って乱の手をはねのける。
バタバタと手を動かし暴れるカリン。真っすぐな性格のカリンがこんなにも慌てている姿に、乱は思わず笑みがこぼれる。
「悪い悪い、そう怒るな」
乱はあくびを一つするとどっこらせと起き上がると、笑いをこらえながら階下へと降りて行った。
乱が階下に着くと、ふてくされてどこかへと出かけていた天外が廊下に姿を現した。
「どこに行ってた?」
嫌味を放つ天外は、乱に対してなのかカリンに対してなのか、苛立ちがまだ消えていないようだった。乱は居間の出入り口を塞ぐように立つ天外を避けて部屋に入る。
「お前、俺に何を隠してるだろ」
乱の問いには答えないまま、天外が質問を重ねる。
「なあ、カリンはお前の眷属だろ?違うか?」
乱は袖に手を入れたまま、天外をまっすぐ見る。乱が小さな溜息を吐いたのが天外の耳にも聞こえた。
「そうだとしたら何だって言うんだ?」
「答えになってない。俺の質問に答えろ」
「あいつは普通じゃない。だから天外を世話役にした。十分な答えだろ?」
またもや曖昧に答える乱。
「それよりお前の眷属は見つかったのか?ちゃんと探してるのか?」
「話を逸らすな!カリンが輪廻を回す役ってどういう意味だ?どうしてそんなにカリンにこだわる?やけに辛気臭くてここの住人と変わらず、今にも死にそうな魂じゃないか!何も特別な過去はない普通な人生を持つ魂。なのにどうして特別扱いするんだ?」
天外の言葉に乱はいたずらっ子のような顔で笑ったが、天外は訝し気な表情を返す。
「そうか、お前には普通に見えるか」
「……。じゃあ、何だって言うんだよ。えらくもったいぶりやがって……。ああ……、そうか。俺を信用できないからか。だから俺に言えないんだろ。俺は人を殺してる殺人者だから信用できないんだろ!」
天外の言葉に、乱ははっとする。
「どうしてそれを……?誰から聞いた?」
そう、過去の記憶がない者の大半は過去世で罪を犯したことのある者だった。もう半分の者は過去世において、とてつもなく酷い心の傷を負い、過去世に未練を持たない者や過去世を忘れたい者たちだった。
乱はもちろん、白木蓮だって口が軽い人間ではない。以前伊佐治も言っていたように、本人の過去を他人がわざわざ本人に伝えるようなことはしない。それが乱の仲間うちでは当然の礼儀であり暗黙の規則だった。
「俺だって馬鹿じゃない、ここらの住人を影からずっと見てたんだ。誰かに言われなくたってうすうす気付くさ。まさかそのせいで俺を表に出さなかったとか言わないよな?」
「そうじゃない」
「なら、カリンは一体何者なんだ?一体何を隠してる?まあ、人を騙して殺すような殺人者を信用できないのも当然か」
乱は力を入れた拳を作ると天外の顔のすぐ真横に振り下ろした。天外のすぐ耳元で木製の板がバキバキと壊れる鈍く乾いた音が響く。
乱が自分以上に怒りを露わにしている様子に、天外は今どういう状況なのか一瞬理解できなかった。
「二度と……、俺がお前を信用していないような言い方をするな。俺は、殺人者だろうと犯罪を犯した者だろうと、身請けした奴には自分の縁者と同じように扱っているつもりだ。俺がお前の信頼を失うのは仕方ないが、俺がお前を信頼しない理由はない」
冗談半分の、口から出まかせのように言っただけの何気ない一言が、普段温和な乱をこんなにも平常心を乱したことに天外は驚きを隠せなかった。
「紅梅と約束したんだ、カリンをここに残すようにと……」
乱は壁に突っ込んだままの拳を引っ込めると、静かにそう言った。
「俺の見立てが合っていればだが、そのうち自然と全てがあるべきところに戻る。俺も確かじゃないが、今言えることはあいつの感じるままにさせてやる事があいつを現世へと戻す、この先に繋がる最良の方法なんだ。だから天外には誰にもあいつに傷一つつけないよう見守ってやって欲しい。それを頼めるのはお前しかいないんだ」
神妙な面持ちの乱を前に、天外は息を飲んだ。ここで出て来た予期しない紅梅の名前。どうして紅梅とカリンを合わせず、紅梅だけを転生させたのかここで繋がる。
「……カリンをここに残すことが最良の方法?全てがあるべきところに戻るとはなんだ?まだ何か隠してるならその理由を教えて俺を納得させてくれないか」
「お前は因縁を信じるか?」
「信じるも何も事実だろう。ここに戻ればかつての縁者と再び顔を合わせることになる。記憶を持っていれば、の話だがな」
「そうだ。だからお前は一人じゃないってことだ」
「はあ?意味が分からねぇし、どうしてそこに俺が出て来るんだよ。なあ、乱には記憶のない俺を同じ眷属として迎え入れてくれたことに感謝はしてる。でも……事情を話してくれなけりゃあ、いざという時お前を助けられない。それだけは忘れるなよ」
乱は切なげな笑みを浮かべたが、今はそれ以上何も話そうとはしなかった。