第8部分
双丘。双丘が連なっている。
「あの……これ」
日常的に会話する女性など実母と野澤というドスの効いた面子しかおらず、大人しげで可憐な声はなんだか染み入るようだ。声の主は遠慮がちに、今しがた救助してくれた満身創痍の憐れな紙筒を差し出してきた。
しかし秀一は今ポスターよりも、窮地に手を差しのべてくれた救世主のご尊顔よりも、その少し下で白いシャツに浮き出る双丘に視線が釘付けとなっていた。
「あ、ありがとごじゃいましゅ」
やっとのことで礼を絞り出し、みなみんをその手に取り戻した。発車アナウンス、ドアの閉まる音、車輪の軋みが呂律の回らない語尾をかき消してくれるのをありがたく思いながら、視線はまだ離せない。
長い黒髪の先の幾筋かが、雪丘のように盛り上がった白い衣服を滑って頂点から跳ねている。電車の揺れに合わせて小刻みに震え、蠱惑的な動きに頭の芯が酔わされるようだ。
とりあえず、茶色の足跡をいくつか受けてへろへろなみなみんポスターを案じつつ鞄に差し込んだ。そして深呼吸し、もう一度目の前の女に向き合う。
可憐な声と裏腹に、服の上からでも分かるその胸部のサイズと重量感、まるで凶器である。あれでビンタを喰らえばさぞかし強烈な脳震盪が……と、いつまでもそこに注目するのは非紳士的だと首を振って、視線を上に移した。
身長は男の平均よりやや高い秀一がほんの少し見下げる程度、女性としては高い方だろうが、年齢に関しては雰囲気的にかなり下に見える。
見た目は置いておいて、もう一言礼を言わねば。できれば少し気の利いた感じで。昔から女性の前では貝になる性質ではあるが、青海システムズという魔窟においては抜群のコミュニケーション能力を持つと自負している。仕事ならばどう言うかで考えてみた。
この度はご助力をいただいたお陰で影響を最小限に抑えることができました。梶尾家に暮らす全エンジェルヒルズグッズに代わって感謝を申し上げます。つきましては、今後とも良き協力関係を築いていきたく、懇親を深めるために是非お食事でも……。
駄目だ、とまた首を振る。明後日の方向に行きがちな思考を持て余し、お互い言葉もなく向かい合っているうちに、短い駅間はすぐに終わりを告げる。
「あ、じゃあ……」
彼女がぺこりと頭を下げ、開いたドアの方を向く。双丘が刹那の名残とともにそれに続き、その余りに柔らかい動きに口が勝手にぱくぱくとした。
休日の牧歌的な人波に乗り、細身の後ろ姿がホームに出る。このままろくに礼も言えない挙動不審なオタクっぽい奴として彼女の大きな胸の裡に留まることがどうしても忍びなく、小賢しい考えを捨てて心のままを口に出した。
「ありがとうございました!」
半ば叫ぶような声に周囲と、そして彼女も振り向く。しかし視線が交錯する寸前に、その姿は閉まるドアに隠れた。窓から覗いてみるが既に雑踏に紛れて見つけることはできず、気持ちの悪いアニメオタクを見るような顔をしていたか否かはついぞ分からなかった。