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第7部分

 茅場町にて東西線に乗り換えた。車内は休日の色に染まり、平日は悲痛な顔で取引先にペコペコしていそうなおじさんも、大魔神のような顔で先輩を睨み付けていそうな若い女も、リラックスした表情で連れ合いと静かに談笑している。

 先程まで秋葉原という戦場にあった秀一は、ここにきてようやくほとんだような気持ちになり、空きだった席を後ろから来た赤ん坊連れに譲って吊革を掴んだ。

 鉄軌をがりごりと擦る音とともに駅の光が遠ざかり、地下トンネルのざらついた闇が車窓を流れていく。夏の夕方の気怠さを抱えた車両は小刻みな揺れとともに進んでいった。

 この暇にとスマホに目を落とし、SNSを起動した。そして将暉とのチャットを開き、メッセージをしたためようとして指を止めた。

 仙人と繋がりたい。そんな怪しいハッシュタグのような趣旨をどう伝えていいか迷う。別に昆野に義理立てをするつもりはないが、秀一自身にも会いたい気持ちがあった。

 遡っては十年ほど前、高校生の時分だ。バイトに勤しみ、汗水を流して得た金を得た先から女の子の絵に変える、世人がこぞって目を逸らすような輝かしき流れ作業に邁進した青春。そんな思い出の光景には将暉の他にも何人か暑苦しい盟友たちの姿があり、そしてその片隅の方には一人分の影が小さく霞んでいる。

 三次元女性の前では地蔵のように無口だが寄り集まって趣味の話が始まれば饒舌な男たちの只中、彼はずっと寡黙かつ控えめであった。だが時折見せる博識さと、いざという時の行動力は目を見張るものがあったことを覚えている。あれは確か、津田沼の裏通りで怖い先輩に絡まれた時……。

 記憶の沼をかき回す作業は途中で止まった。鞄を持つ左手をわずかに引っ張る感触に気付いたからだ。

 かくんと視線を落とすと、鞄の口から蒸気船の煙突のように飛び出た紙の筒、その丸まりきらず外に跳ねた端っこを、ぽってりしたチビ饅頭のような手が掴んでいる。小刻みに動くそれを辿ると目の前の席、母親の膝にでんと座った赤ん坊が、デカ饅頭のようなほっぺをふるふるさせていた。

 目をまん丸に見開き、口を小さな富士山型にぽかんと開けた、真剣味溢れるぷにぷに顔。

 人の真剣な様子を笑うのは失礼なこととは承知だが、そのぷにぷにさについ顔が綻んでしまう。秀一が愛でるのは二次元のみだがこれはまたジャンルが別だ。すくすく育てよ、などと考えながら視線を上げ、そしてすぐにまた戻した。

 小さな手が握り込む厚手の紙がなんだったのか、それを思い出して血の気が引いた。

「ちょ、やめて……」

 口内に留まるような小声で言いながら鞄を引くが、人の言うことになど聞く耳を持たぬ傍若無人のベイビーが離してくれるはずもなく、眼前でちょいちょいと動き出した玩具に更に興味を引かれて目を丸くする。幸いその意思の強さに反比例して握力は弱いようで、ちらちらと光沢を放つ表の面には不可逆な皺はまだ見えない。

「や、やめてやめて」

 しかしながら新鮮な手遊びに傾倒するベイビーの動きは激しさを増していき、しかも不器用なもんだからいつビリリといってもおかしくない。店主が自分を信じて託したみなみんのポスター、是が非でも助けをと母親を見ると、スマホを弄るのに余念がない様子。なんだか目付きのキツい……いや育児にお疲れ気味の顔をなさっている母親に、子供をなんとかしろと声をかけるのはチキン……いや紳士な秀一にはハードルが高い。ましてや赤ん坊を力尽くで離すことなぞ。

「次は、西葛西、西葛西」

 と、その時、美しく澄んだアナウンス音声が響き、まるでそれを福音とするように車内には明るい光が溢れた。電車が地上に出たのだ。これは秀一にも福音で、ポスターが一身に浴びていた視線が車窓へと向く。動き出した景色に幼い好奇心を剥き出しにてやや身を乗り出している。

 注意が逸れて緩んだ手から、小悪魔の触覚を刺激し過ぎぬよう鞄をそろりそろりと動かし救出を試みた。全神経を集中し、心の中で唱える。ああ、この任務を無事に終えたら、俺はみなみんのポスターを部屋に飾るんだ……。

 電車が駅へ向けて速度を落とし、同時にこちらのゴールも見えてくる。ちんまい指先の間から紙の端がとうとう抜け出した時、我が六畳間に掃き溜めの鶴のように飾られる美しき双丘が目に浮かんだ。

 その瞬間、目の前の母親が唐突に腰を上げた。右手はスマホを持ちながら、左手は身を乗り出していた赤ん坊を押さえあぐね、それに気付いて中腰で止まった時には既に遅かった。持て余し気味の大きな頭がこちら側に傾いて、バランスを取ろうとする素振りもなく人形のように無防備に床と正対する。そのまま釣瓶落としのように落下するまでの刹那、秀一の脳はフル回転していた。

 右手一本では助けられない。左手は鞄で塞がっている。では鞄を打ち捨てるか、しかしその鞄にデリケートに刺さっているのは愛しの女の肖像、というか二次元の人物なので肖像が本体だ。彼女をそんな危険にあわせていいものか。先程想像に現れた六畳間、その壁に貼り付いて微笑むみなみんの顔が再び頭をよぎる。彼女なら今、何と言うだろうか。

 秀一は一気に膝を折り、五体投地の姿勢で重力に引かれ始めた赤ん坊の両脇に下から手を差し込んだ。なんと柔らかく心地よい重みか。当の本人は、並の「たかいたかい」よりはるかに「本物」の落下を味わいケラケラと笑っている。

 さてポスターは。したたかに打ち付けた痛みとともに膝に残る、何かを踏み潰した感触。下を見ると白い紙筒が、いつか交通事故の映像で見た標識ポールのような悲惨さで、ひしゃげていた。

 絶望がじんわりと胸を覆っていく。その姿勢のままゆっくりと上を向くと、目が合って我を取り戻した母親が秀一の手から赤ん坊を抱え返した。

「大丈夫? 大丈夫?」

 泣きそうな声を出しながら、傲岸不遜に笑うベイビーをまさぐり無事を確認する。そして、手と膝でそれぞれ異なる喪失感を味わいながら立ち上がる秀一の方を見て、頭を下げた。

「本当にありがとうございます。すごい勢いで膝ついてたけど怪我してないですか? あっ、そこに何か落ちて……」

「だ、駄目」

 鞄から転げ落ちぐったりとしたようなポスターを、赤ん坊を小脇に抱えたまま拾い上げ、止める間もなく少し広げた。それは親切心からだったろう。くしゃっとなった部分を直しながら、恐らくそこに顔を出した電脳少女と目が合い、手を止めた。

 そして手元の紙と持ち主の男の顔を見比べ、UMAでも目撃したような表情で「ひっ」と鋭く漏らしながら取り落とすと、いつの間にか開いていた電車のドアから西葛西のホームへと駆け出していった。

 投げ出されたポスターはクセで再び、潰された時より少しだけ綺麗に丸まって転がり、ドアへ向かう男に足蹴にされる。更に偶然に偶然が重なり、後ろから来た二人の男に見事なパスを回され、最後の一人がホームへとゴールを決めた。得点者はゴールセレブレーションの代わりに蹴ってしまった物に向けてひとつ首を捻り、そのまま去って行った。

「のおおおお!」

 ヒロインを無惨に失い絶望の声を上げる男に、周囲の怪訝な視線が突き刺さる。すぐに駆け寄りたいが、膝の痛みにもどかしいほど足は動かない。

 俺は愛する女一人も守れないのか、という無力感と、まあ愛する女と言っても実体はそこらで手に入る販促ポスターだしな、という気持ちがないまぜになり、諦めかけたその時、体の脇を涼風が流れた。

 綺麗な黒髪が翻り、細身の後ろ姿がホームへと躍り出る。そして既に虫の息のポスターを拾い上げ、秀一の方をくるりと向いて電車に戻った。

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