第5部分
大衆居酒屋のチープな椅子に腰掛け、秀一は店員を呼び止めた。向かいの椅子ではろくでなしがビールをあおっている。
「たこわさと、ザーサイと、あと焼きうどん」
背後の壁には油の染みた短冊が貼られ、するめのようにパリパリと乾いている。そこに書かれた無軌道なメニューから適当に見繕うと、それ以上に無軌道な目の前の男はジョッキを置いて大袈裟に肩を竦めてみせた。
「お前よぉ、いきなり焼きうどんはないだろ。まだ注文の組み立てがなってないな」
はあ、と溜め息と返事の中間くらいの声を漏らしながら秀一もビールを飲んだ。
「早出しの二品はまあいい。だが次はサラダが欲しいところだな。その次の肉や魚は時間がかかるから注文はこのタイミングでもいいが、麺類はもっと後に……」
「で、今日はなんなんですか、昆野さん」
垂れ流されるご高説はきりがないので遮った。
このろくでなしは、同じ課で三つ年上の昆野だ。担当先が違うため仕事ではほとんど絡まないが、最も頻繁に飲みに連れて行ってくれる先輩である。人間よりパソコンを好む者の多い我が社において「会話」という習性を持つ希少種で、まあ単なる口数の多い男なのだが、それを後輩たちへも振り向けるあたりが「面倒見」という美質として扱われ、なんとなく慕われていることになっている。
これは一種の社交能力と言い得るのだが、彼のそれが「まとも」であるかどうかは疑問符がつく。と言うのも、彼はそうして得た歓心を仕事に活かすことはあまりなく、会社間異性交流のコネとして主に利用するという悪癖があった。今日急に飲みに誘われたのも、その絡みに違いない。
しかし昆野はそれには答えず、下世話な笑顔で秀一の肩を指差した。
「それ口紅だよね? お前もやるねぇ」
「ああ、これは不可抗力っすよ。電車で付けられただけ」
げに汚い物を見るような女の顔を思い出し、吐き捨てるように答えた。そして芋づる式にもう一人の女の顔も記憶に蘇る。
「会社でも野澤さんに変な顔されるし」
「野澤さんなぁ。可愛いんだけど性格がきついよなぁ」
ひひひ、と笑いながらビールのおかわりを注文する。秀一も続いた。
昆野はいまいちろくでもない男だが、不思議と社内には触手を伸ばさない。毎年の研修により全身に注入されたコンプライアンスの賜物だろうか。
「お前どうなの、野澤さん。狙ってみたりしないの?」
秀一はにべもなく答える。
「無理っすね」
「なんで?」
「俺は平面が好きなんで」
「平面じゃん。あの子」
「いやそういうことじゃなくて」
お互いアルコールと反比例して血中コンプラ濃度が薄まり、会話は猥談の様相を呈していく。
しばらくそんな話をしながらちまちまと飲んだ。昆野はあれだけ文句を垂れていた焼きうどんを積極的に啜り、ジョッキを空けて追加注文を行う。
そしてハイボールを受け取った頃合い、不意に真剣な顔になり、少し間を空けてから切り出した。
「でさ、今日の本題は合コンの話なんだけど」
あまりに予想通りの展開に、秀一は侮蔑の目を向ける。多分女性がアニメオタクを見る目と似ていたと思う。
「お前が前に連れてきてくれた子いるじゃん。あのイケメン」
「ああ、将暉ですか」
半年ほど前に両手を合わせて乞われ、面子の不足した会社間異性交流に将暉と共に参加した。彼の八面六臂の一人勝ちには親友として鼻が高かったが、その時とは状況が変わっている。
「あいつはもう呼べないですよ。今彼女と住んでるんで」
「いや、彼自身じゃなくてさ、彼が言ってたあれ……『仙人』」
ちらりと記憶が蘇る。確かに将暉はあの男の話をしていた。
「『仙人』がどうかしたんですか?」
「あの話にえらいウケてた子いたじゃん、読モの。あの子に仙人連れてきてくれるならまた合コンやりたいって言われてさ」
「いやぁ、無理ですよ。だって……」
言い終わる前に昆野が口を挟んできた。
「頼む、確認だけしてみてくれないか? 次はモデル仲間の女の子を連れてきてくれるらしいんだ」
両手を合わせて頭を下げるお決まりのポーズ。つむじが澄ました目のようにこちらを見つめる。彼の伝家の宝刀であるこの拝み倒しは見慣れたものではあるが、どうもこれをやられるとはっきりと断りがたい。
「……多分無理ですよ」
そう静かに答えると、昆野は顔を上げてにっと笑った。