第3部分
二次元にしか興味はない。梶尾秀一は常日頃よりそう嘯いている。自然に任せた蛋白質の造形など、人の叡知から生まれた完璧な美少女に及ぶはずがなく、完璧な世界に一秒でも長く浸るため現実の女には見向きもしない。
と、平時は思っている。
しかし今、彼の身には常ならざる事態が起きていた。
朝の東西線は空気が曇るほどの人いきれに包まれている。すし詰めにされた企業戦士たちは臨戦の面構え、その堪忍袋は車両と同じくらいパンパンだった。
そんな殺気を尻目に、北習志野から悠々座っている秀一だが、今その左肩には見も知らぬ若い女性の頭部がのしかかっていた。
「どうしたもんだろうか」
花のようなコロンの香りを強く感じながら呟き、目線をやや下げる。
女の胸元で急角度に突き出るサマーニットの膨らみ。脇から頂点へ流れる稜線が電車の振動に合わせて寒天菓子のように微細に震え、裾野が秀一の腕をそよそよとわずかに撫でている。
その大きさは非凡の一言であった。
さて、並の男であればここで宿命的な葛藤が生じるだろう。偶然を装って肘を動かすか否かだ。そして常日頃の言にも関わらず秀一は今、並の男であった。
よれた服のラインと、小さなカードには収まらない真に迫ったサイズ。決して完璧ではない三次元の野放図な世界に、本能のどこかが「これはこれで」と告げる。動いたら当たっちゃうのでなんだか焦れる気分だ。
女性の神聖な部位に触れるのは非紳士的であり、場合によっては神罰が下るだろうが、寄りかかって来たのは向こうである。迷惑を被っているのはこちらで、なのに動いたら罰を下されるとはなんと理不尽であろうか。
理不尽なのでいっそ肘を盛大に押し付けてしまおうかとも思ったが、なんの意味のないのでやめた。
かといって起こすのもなにかバツが悪く、身を捩ることもできずうずうずと座っているうちに、車窓から差し込んでいた外の光が消える。
そして南砂町への到着を告げるアナウンスが響いた時、女が唐突に体を起こした。インコのように首を振ってきょろきょろし、わずかに撒かれる涼気とコロンが鼻をくすぐる。そして何往復目かでとうとう目が合った。
派手目の化粧は右頬のあたりがわずかに乱れている。それを何度か撫でた後、唐突に事態を把握したようで、凄まじく嫌そうな表情を見せた。まるで気持ちの悪いアニメオタクでも見るような顔だ。
電車はやがて停止し、溜め息のような空圧の音と共にドアが開く。女は立ち上がり体を守るようにバッグを抱え、出口へ押し寄せている流体のような人波へばしゃりと飛び込んだ。
吐き出した人と同じくらいの人を飲み込み終え、靴音の嵐が止んだ頃、再び電車の溜め息と共にドアが閉まる。シート越しに響く鉄軌の音を体で感じながら、職場の東陽町へと運ばれる間、秀一は思いを新たにしていた。
三次元の女はろくなものではない。