第2部分
せっかく冷えた部屋に泣く泣く背を向け、サウナのようなアスファルトを自転車で駆けた。最寄りの高根木戸駅、脇の踏切を渡って小路に入ると、程なく間口から映写機のようにぼんやり灯りを漏らす古い店が見える。
ちょこんと座り込む電飾看板の脇に自転車を停め、曇りガラスの格子戸を開けると、山の中のような冷気が流れ出て顔を撫でる。あまりの心地よさに引き込まれるようにして中に入り、急いで戸を閉めた。
「あら、秀一くん。いらっしゃい」
Lの字に敷かれたカウンターの内側、割烹着姿の女将さんがにこりと笑ってテーブル席を指差す。秀一が会釈しながらそちらを見ると、奥に座って手を挙げるスーツ姿の優男。
「よお秀一」
テーブルには半ばほど空けられたビールジョッキ。向かいに座って秀一も同じものを頼む。
「お前も今日買っていたとはな」
「当たり前だろ。発売日に買わなきゃ推しに申し訳が立たん。あ、俺もお替わりお願いします」
女将さんが手拭きとお通し、そして二杯のビールを持ってくると、西方将暉は中性的な童顔に似合わない速度で残ったジョッキを空け、新しい方を掴む。
「うぃー、かんぱーい」
「おつかれーい」
めいめい不明瞭な音頭を発しながら杯を合わせ、ぐびりと飲んだ。暑い中を自転車を飛ばして来たので大変沁みる。
将暉は隣の椅子に置いていた鞄を探り、一枚サイズのカードバインダーを取り出した。そして仄暗い笑みを浮かべながらパラパラとめくってみせる。
秀一も同じサイズの携帯用バインダーを出し、交換した。
「うおぅ、結構いいのが出てるじゃないか」
「これとこれと……これは持ってない。そっちがダブってるのなければこの三枚同士の交換でどうだ秀一」
将暉とは、小学時代には並んでテレ東の美少女アニメを眺め、中学時代には背中を預け合って秋葉原へ通い、高校時代にはなけなしのバイト代で意中のトレカを血眼に探し交換した仲だ。大学は別のところへ行ったが、社会に出てからもこうしてカードと情熱を分け合っている。
「よしそれで。またいい取引ができたな将暉」
「お互い趣味が違うのはこういう時便利だな」
「ああ、親友が異端で助かっている」
将暉とは集めるトレカの種類を同じくするが、嗜好は正反対と言ってよかった。彼は小さきものを愛する異端な紳士であったのだ。このような収集趣味に目覚めた頃から、二人は平野と双丘の交換によりパレート最適を実現してきた。
今回の取引も無事に終わり、二人は再度杯を合わせた。
「しかし将暉よ、新パックを発売日に買いに行った上こんな時間に飲みに来て、彼女は大丈夫なのか?」
「まあ大丈夫だ。ちょこちょこ埋め合わせはしていく」
もう一つ、将暉と秀一とで大きく異なる点があった。彼は甘いマスクを持つ社交的な男だ。三次元の女子とも多くの親交があり、今の彼女とはステディな同棲生活を送っている。
彼は銀杏を摘みながら自慢のマスクに苦味を走らせ、物憂げに口を開く。
「お前もそろそろ彼女作れよ」
「自分で描くのは得意じゃなくてなぁ」
「いや二次元ではなくて」
その言葉に秀一は鼻を鳴らし、今しがた交換しバインダーに収めたカードを眺める。シャツとショートパンツ姿で海に足を浸し、両手で水をはね上げたみなみんのいたずらっぽい笑顔。ざっくり開いた胸元から見える白肌と、波飛沫が太陽を跳ね返す。こんなに美しいものが手元にあるのに、高次元を求める必要がどこにあろうか。
「お前は本当に好きだなぁ、みなみん」
「ああ。大きいことはいいことだ」
「そうか。俺はもう少し現実に即したものが好みだ」
確かにそのサイズはもちろん、上を向く角度とかシャツなのに服が妙にぴったりくっついちゃっているところとか、まっこと非現実的である。
しかし秀一にとっては「美少女」それ自体非現実的だし、もっと言うと「海」ですら極めてインドアな生活からしたら非現実的。要は全てが非現実的で、愛しているのはその非現実そのものなのかも知れない。
ぱたんとバインダーを閉じて毅然と言い放つ。
「俺は二次元にしか興味ないし」