第1部分
双丘。双丘が連なっている。
年季の入った六畳間。茹だるような熱帯夜は主人の留守の間に我が物顔で居座っており、今しがた点けたばかりの冷房がそいつとがっぷり四つに組んで唸りを上げている。
未だに額を滴るシャワーの名残からタオルで視界を守り、梶尾秀一は耽美の溜め息を漏らした。物心ついてから齢二十六までの年月を共に歩み、思い出とともに茶色く色褪せた畳の上には今、蛍光灯の光を燦然と反射する十数枚のカードが並んでいる。
長方形に切り取られた小世界には毒々しいほどきらびやかな背景が広がる。ライト煌めくライブ会場を中心に、あとは夏の海や幻想的な森なども。そして決まってその前面には、色とりどりの髪とハイライトの目立つ大きな瞳、シミ一つないつややかな肌を持った完璧な美少女たちが、弾ける笑顔とやや心配になる露出度の衣装でポーズを決めている。
美少女たちはその背景も含め、美少女でもなんでもないアニメーターが溢れる才気と最新鋭の画像処理で創り出した全き空想上の存在であり、それ故に完璧なのであった。
秀一はそのうちの一枚、阿漕なランダムパックからようやく引き当てた目的のカードを掲げる。『みなみん』だ。一年くらい前からはまっているこの美少女トレーディングカードシリーズ『エンジェルヒルズ』、その登場キャラである『美波ちゃん』をそのファンたちは親しみと、やや汁気の強い愛情を込めてそう呼んでいる。秀一も然りである。
スポットライトの下でアイドル風の衣装を纏った画。剥き出しの鎖骨の下では柔らかな曲線がぐわしと盛り上がり、エアブラシ塗りの肌にピンクの陰影で描かれた谷間が二つの重量物を際立たせる。スケールの大きいながらも愛らしい、まさに小高い双つの丘。
「うーん。芸術的だなぁ」
呟きながら、口角が釣られた魚のように意図せず上がってしまう。実際まんまと釣り上げられたからこうして金を使っているわけだが。
みなみんほどの標高ではないが他キャラにも双丘持ちはいて、それらのカードを選って並べた。そして壁一面を埋める本棚から一冊のバインダーを取り出し広げる。白銀に輝くリフィルシート、九つに区画されたポケットにはみなみんを中心にまた双丘が連なっている。
カラーボックスから小袋を取り、そこから極薄のプラシートを一枚慎重に抜き出す。澄んだ空気のように透明で、少し曲げ圧力をかければ跡が付いてしまそうに繊細。これは「スリーブ」と呼ばれる袋型のフィルムで、カードを保護するためのものだ。
わずかに左右に押し開いた袋の中に、氷細工を扱うような手つきでカードをストンと落とし込み、それごとリフィルシートの空きポケットに差し込む。
それを全峰やり終えると、満ち足りた溜め息をまた一つ大きく吐いた。
「もう十時か」
時計を見ながら独り言を漏らし、畳に残ったカードを扇のように広げてみる。いずれ劣らぬ輝かしき美少女たちだが、コレクションの席にも限りがある。その奥ゆかしい身体を見ていると心は痛むが、ここは涙を飲むしかない。
いつも通りにするか、そう思いながら別れを惜しむように彼女たちを蛍光灯に透かした。そしてようやく部屋に満ち満ちた涼気の中、ナマケモノもかくやというほどだらりと本棚に背中を預ける。顔もすこぶる間抜けであろうと想像していると、襖が開いて生ぬるい空気が流れ込んだ。
「ちょっと、いきなり開けないでよ!」
秀一は体の後ろに彼女たちを匿う。覗いたのは空想美少女たちとは別方向に見慣れた顔。向こうもこちらの間抜け面と、そしてオタク趣味も見慣れているだろうが、母は良き歳なのでこのビビッドカラーを見たら酔ってしまうかも知れない。
「さっき将暉くんが来たよ」
母はジャズシンガーのようなしゃがれた声で言うと、眠ぼけ顔を引っ込めて襖を閉めた。
スマホを見ると、通知欄に一通、SNSメッセージの着信が来ていた。