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恐る恐る目を開けると、先ほどまで壁際で影のように控えていた執事がアシュフォード様の首根っこを掴んでいる。
「坊ちゃま、そこまでです」
「もう少しいいだろう」
「坊ちゃま、あなたは盛りのついた犬猫ですか?」
「キスくらいでガタガタ言うなよ、爺。しばらく老眼にでもなっていたらどうだ」
「勉強が足りませんな。老眼は近くのものが見えにくくなるのですよ。先ほどまでいた壁際からの距離ですとソファの上の出来事がよく見えるはずですな」
「ちっ。良いところだったんだからもう少しぐらい見ない振りをしろ」
「女性に淡泊、いえ嫌悪を抱いていた坊ちゃまがブロンシェ様にこれほど心を許して執着されるとは、爺も坊ちゃまのご成長を嬉しく思っておりますよ」
初老の執事はわざとらしく泣き真似をする。
怒涛の嫌味の応酬に驚きながらも、アシュフォード様って舌打ちも絵になるわぁと関係ないことで感心する。しかし、これ以上の恥ずかしい思いはもうしなくていいようだ。アシュフォード様が襟を掴まれているうちにソファに座りなおす。
見回しても相変わらず他の使用人達と目は合わないが、なんだか部屋の雰囲気が生暖かい。
「じゃあ、あと3分見逃せ」
「坊ちゃま、3分でどこまでする気なのですか……あのですね……女性にはムードも大切なのでございます。こんな衆目の中でしかもソファの上で睦み合うなど嫌われますよ?」
「うっ! そうなのか?」
執事さん、注意するところはそこなんですか。もっと違う所ではないんでしょうか?
「はい。ここはやはり、庭師が丹精込めて世話している庭園。口付け以上をするなら屋外はお勧めしないので人目のない温室はいかがでしょう。温室ならどの季節でも寒くありません。まぁ坊ちゃまも初心者ですから、背伸びせずに坊ちゃまのお部屋でも十分でございますよ。ムード作りはハウザー公爵家の使用人の威信にかけて我々で致しますので」
「そうか……私の勉強不足だったようだ。ブロンシェ、悪かった」
「あ、えっと、いえ……その……」
こうも明け透けに会話をされ、直球に謝られると恥じらっていた自分の方がおかしい気分になってきます。なんかさらっと口付け以上とか聞こえましたが……。
「ブロンシェ様、こんな坊ちゃまをどうぞ末永く、いえ一生よろしくお願いいたします」
「え、えっと……あの……」
「ブロンシェ、顔が赤い。大丈夫か?」
顔が赤いのはあなたのせいなんですけどね。
ジト目で見遣ると、アシュフォード様は紅茶を取り替えようと近寄ってきた侍女を手で制し、いつもと変わらない様子で冷めきった紅茶に口をつけています。
後方では執事の指示で他の使用人達がキャンドルに灯を灯し始めました。アロマキャンドルらしくいい香りが漂ってきました。そろそろ日が落ちるのでしょうか。カーテンを閉め始めた方もいますね。
「ブロンシェ」
紅茶をテーブルに戻したアシュフォード様に腕を軽く引っ張られ、体を預ける形になる。
私を後ろから抱きしめたまま彼はそれきり言葉を発しない。なんだか今日はスキンシップがかなり多い。それに私も口付けを普通に受け入れたりして、流されすぎだ。そろそろメリルもお菓子を堪能しただろうし、もう家に帰らないと。
「嫌いにならないでくれ」
身じろぎしようとするとアシュフォード様の小さな声が降ってきた。
固まった私の視界の端に先ほどまで給仕をしていた使用人たちが次々と部屋から小走りに、しかし音を立てずに出て行くのが映る。執事さんは控えているが、目を細めて頷いているのはなぜだろうか。
「その……それは私のセリフでは?」
婚約してからずっと思っていることだが、アシュフォード様ならもっと美人あるいは可愛い、そしてうちより家格の高いご令嬢と婚約できただろう。今すぐに私との婚約を破棄できるのはアシュフォード様なのだ。このように嫌いにならないでくれとか、捨てないでほしいと縋るべきは私なのだ。
困惑した声を上げた私の頭に手を添えて、ゆっくりと体勢が変えられた。
今度は私がアシュフォード様に膝枕をされた状態だ。頭にあたる太腿って案外固いのね、なんて呑気に思って瞬きしていると、アシュフォード様の顔が近づいてくる。
ぎゅっと目を瞑ったが、彼の吐息は私の耳をかすめた。
「また変なことを考えていただろう? 私はブロンシェがいい。私の婚約者は……私の未来の妻は私が決める。そして君に会った時に決めた」
耳元で囁かれた内容に目を見開くと、今度こそアシュフォード様の唇が降ってきた。
今度のキスは苦しくなって彼の胸を叩くまで続いた。アシュフォード様は名残惜しそうにしながらもなんとか離れてくれた。
私が長いキスの余韻の涙目でソファから起き上がると、壁際の執事は明後日の方向に向かって坊ちゃま、なんとか合格点ですと呟いているのが見えた。
「続きはまた今度」
聞き間違いだと信じたい。アシュフォード様は私の髪を愛おし気に直しながら耳元でそうつぶやいた。