Versace On The Floor
十二月二十一日、金曜日の午後十一時半。眠らない街六本木は、今日も華やか。クリスマス前だから一際だ。
私は今日もあの人を待つ。
大学二年、十九歳の私は、六本木ヒルズの中にある、スターバックス・コーヒーでアルバイトをしていた。たまたまスターバックスが好きで、都内の中で、六本木ヒルズにあるスターバックスの時給が一番高かったからだ。ただ、それだけ。
スターバックスには、コーヒーを毎日買いに来る常連客も多い。あの人もその一人だった。
ヒルズの中にある外資系金融会社で働くあの人は、平日、午後八時きっかりにやって来た。頼むのは、「トリプルトールノンファットエキストラホットラテ」。無脂肪牛乳のスターバックスラテに、エスプレッソショットを二つ追加したものだ。ミルクは熱め、きっちり八十度で、上の泡のミルクはなし。いつも時間がなさそうで、すぐドリンクが出ないと、店長を呼び出してよくクレームをつけていた。店側からしたら、迷惑な客。だから、ほかのスタッフは彼と話をしたがらなかった。
大学生は暇だ。遊ぶお金が欲しかった私は、夕方から深夜の閉店まで、平日は毎日シフトに入っていた。毎日来るお客様は、自然と名前とドリンク、好みを覚える。それに名前も。だから、私は「お疲れ様です、○○様」と書いてドリンクを出すようになっていた。「お仕事お疲れ様です」という一言と笑顔を添えて。他のスタッフにはない私だけのサービス。それが功を奏し、アルバイトにも関わらず、私は忽ちこの店の看板娘になった。だって、常連さんから話を聞きつけた六本木や銀座のクラブから呼び声がかかるほどだったんだから。
ある日のこと。私はあの人が「一馬」という名前であることを知った。付けていた社員証に書いてあったから。早速、あの人のカップに「お疲れ様です。一馬様。お仕事の息抜きにいつでもここへ」と書いた。そして、あの人のもとに赴き、手渡しでドリンクを差し出した。これは賭けだった。
「お仕事お疲れ様です、いつもありがとうございます」
カップを見たあの人は、自分の社員証と私を交互に見て、初めて笑った。
「…ありがとう」
その日から、あの人は「私」の常連さんになった。店長も社員も驚いた。あの人はその日から一切クレームを言わなくなったんだから。
店長や社員さんは、午後七時五十五分になると、私をバーへ移動させた。あの人のドリンクを用意するために。そして、カップには「お疲れ様です。一馬様」に加え、寒かった日は「これで温まって下さいね」。一際、疲れていそうなときは「お身体に気を付けて。元気が出るラテです」の一言。店が空いている日は、向こうから話しかけてくることもあった。
ある日のことだった。
いつものように、ドリンクを出すと、あの人が耳元で囁いた。
「今晩、一杯いかない?」と。
次の日は授業がない。私は承諾した。
今思えば、少し気になり始めていたのかもしれない。不愛想だったけれど、東大ラクロス部出身、三十前後のあの人は、長身ですらっとして、ハンサムだったし。それに、スーツ姿のサラリーマンと付き合うのは、女子大生にとっては憧れだった。何より、私だけに見せてくれる、あの笑顔が可愛らしかった。
その晩、私はあの人に初めて抱かれた。
その日を皮切りに、私の店外営業が始まった。アルバイト後、ノースタワーの一階にあったウォッカトニックか、マド・ラウンジで待ち合わせし、あの人の家があるヒルズのマンションに行くのがお決まりのパターンだった。いつも、あの人は遅れてきた。あの人が働くのは、投資銀行部門というところで仕事がハードな外資系金融会社の中でも、一番忙しい部署なのだという。しかも、本社はニューヨークだから、深夜の会議もしょっちゅうなのだそうだ。
「まいっちゃうよ」
そう言いながら、あの人が飲むのは、ドライマティーニ。次はカミカゼ。最後にジントニックのライム多めだ。未成年だった私は、ジンジャーエールを飲みながら、あの人の話を聞いた。あの人の仕事の話もプライベートの話も、全く私には異世界だった。聞けば、あの人が働く外資系金融会社の中にも、専用のスターバックスがあるそうだが、思い通りの味ではないらしい。だから、高速エレベーターでわざわざ下まで降りて、私の作る「トリプルトールノンファットエキストラホットラテ」を買いにきているそうだ。私は自分の話はほとんどしなかった。私はただの女子大生。何か話すと、あの人が離れていってしまいそうな気がしたから。
あの人が本当はどんな人か、知りたいけど、知りたくない。
授業中暇だった私は、たまたま、インターネットであの人の名前を検索してしまった。今思えば、最大の過ちだったと思う。出てきた一枚の写真には、奥さんと子ども、そしてその横にいたのは間違いなくあの人だった。万遍の笑みを浮かべて。思えば、本当のところは全て謎。ヒルズのマンションが別宅なのか、本当の家なのか。あの人が今も結婚しているのか、私をどう思っているのか。一つだけ確実なのは、私が行くヒルズのマンションには彼が一人で住んでいるということだ。
私は何も聞かない。だって、あの人は私の恋人ではない。だって彼は、ただの「常連さん」なのだから。分かっている。あの人と私は、もともと住む世界が違うのだ。私だって、自分の六畳一間に彼を呼んだことはない。
あの人は私によく服を買ってくれた。マルニやクロエのワンピース。六本木ヒルズの中にあるエストネーションやブランドショップで。ウインドウに可愛い服が飾ってあると、私にそれを着させた。普段はTシャツにジーンズの私は、あの人と歩くときだけそれを着た。あの人が好きな私になるために。私なりの精一杯のサービスだ。
薄々気づいている。この関係がいつか終わることも。これが虚構の世界だということも。だから、今はこのイミテーションを最大限楽しもうと思うことにしている。
十二時の鐘が鳴り、日付は十二月二十二日に変わった。今日は私の二十歳の誕生日だ。あの人がくれたマルニのワンピースを着て、私はあの人を待っている。
十二時を五分過ぎ、あの人がやって来た。
「待った?」
「ううん、平気」
本当は、三時間も待っていたくせに。
「お待たせしました」
お決まりのドライマティーニに続いて、差し出されたのは、ジンジャーエールではなくピンク色のカクテルだった。赤ワインにジンジャーエールを注いだそれは「キティ」。意味は子猫ちゃん。
「ハッピーバースデー、僕のキティ」
おでこにキスをされ、私は自分に言い聞かせる。
駄目。好きになってはいけない。あの人はただのお客様なのだから。
生まれて初めての一杯は甘くて、ほろ苦く、そして切ない。




