明朝の戦い
朝から戦います
轟く雷鳴、降り止まぬ雨。
辺り一面の瓦礫の山。
ーーお城は危険だから、従者と共に逃げなさい
どれだけ走っても、叫んでも、返ってくる声はなかった。いくら手を伸ばしても、掴んでくれる人はいなかった。
一緒にいたはずの人たちも皆いなくなり、暗い世界に、彼女は独りだった。
大切なものが無くなった空っぽの世界で、傍にあったのは黒い影と、一振りの剣。
ーー…生き抜くための、力が欲しいか?
影は囁く。
力なくくずおれた彼女に手を差し伸べながら、惑わし、堕とし、彼女を救うための言葉を。
「…わたし、は…」
この手を掴んだら、後戻りはできない。
そんな予感がした。
それでも少女は、恐る恐るその小さな手を伸ばす。
「…力が、欲しい」
***
はっとして目を覚ますと、視界に映ったのは鬱蒼と茂る木々だった。
木の幹にもたれて眠っていたため、背中は嫌な汗で湿っており、最悪な目覚めである。
「どうした、悪い夢でも見たのか?」
そう声をかけてきたのは共に旅をするルディスだ。向かい側の木の上で、彼は果実の外の皮を剥いていた。
リティエラはしばらく呼吸を整えていたが、やがて口を開いた。
「少し、昔の夢を…もう大丈夫」
「…そうか。珍しいこともあるものだな。ほら、食べるといい」
ルディスはそう言って剥き終わった実を投げて寄越した。
食べても害のない薄い皮に包まれたその実は甘く、後味は爽やか。のはずなのだが。
「すっぱい…」
「季節外れだからな。目が覚めるだろう?」
「…」
先に言えよと半眼になって訴えたが、ルディスは完全に見て見ぬふりである。
「この時間ならまだ人も少ない。早速隣町を目指すか。そろそろ新しい情報が入っているかもしれない」
「そうね、顔洗ってくる」
リティエラはそう言って立ち上がった。
数十メートル先に小さな川と湖があることは確認済みである。
屈んで水をすくい顔を洗うと、その冷たさに身震いしたが、すっきりした。
ルディスのいる所へ戻ろうと踵を返したとき、ふと幾つもの足音が聞こえてきた。
(気配…それも大勢の)
顔を拭くと、リティエラは腰に差した剣を抜いた。
それとほぼ同時にルディスが駆けつける。
「リティ、無事か?」
「…近くで誰かが戦っているみたい」
リティエラは恐ろしいほど静かに言った。
彼女を初めて見る者であれば、間違いなくその表情にぞっとしただろう。
「…そんな顔をするな、血の臭いはしない。戦争に繋がるような戦いではないはずだ。賊か何かだろう」
ルディスはリティエラの肩をぽんぽんと叩いた。
リティエラは感情が乏しいところがある。
しかし、かつて戦争で家族や親しい者たちを失った彼女は、争いに対する怒りと嫌悪は人一倍だ。
「とりあえず様子を見に行くか」
「ええ、大事になりそうなら止める必要がある」
二人は気配を感じる方へと同時に駆け出した。
しばらくすると、言い争うような声が聞こえてきた。
木の陰に隠れ様子を窺うと、隣町に続く道で、雑多な武器を構えた大勢の男たちが老夫婦の行く手を阻んでいた。
高価な宝石や衣装を身につけた者がまばらにいることから、やはり賊だろう。
立派な荷馬車があるため老夫婦の方は商人だろうか。艶のある黒い馬は怯えているのか全く動かない。
「おい、じじい!つべこべ言わずその荷物全部置いてとっとと失せろ!そうすれば命は取らねえっつってんだろうが!」
ふざけた物言いに、リティエラは思い切り不快感をあらわにした。
「ルディス…斬っていい?」
「待て、どう考えても戦には繋がらないぞ。俺たちの出番はないだろう」
怒りに任せて今にも飛び出しそうなリティエラの腕を掴み、ルディスは耳を澄ます。
「今回は薬も多いんじゃ!早く届けなければならん!頼むからそこを通してくれ…!」
「そんなこと言っていいのかぁ?そこで震えてるばあさんをあの世に送ってやってもいいんだぜ?」
弓を構えた男が一歩前に出る。その鏃は年老いた婦人に向けられた。
「町にはあたしたちの息子が…先の戦乱での負傷者がまだ大勢いるのよ…!」
それを聞いた瞬間、リティエラはルディスの手を振りほどこうとした。
「…おまえに、得があるのか?」
ルディスが冷たい声で問う。疑うような、探るような、そんな視線を向けながら。
リティエラは息を呑んだが、ルディスの目を見据えながら言い放つ。
「…いいから、離しなさい」
彼女の表情と纏う空気に逆に気圧され、ルディスはため息をつき、ゆっくりと手を離した。
「じゃあな、老いぼれ」
空を切りながら、矢が老婆の方へと真っ直ぐに進む。
楽しむような笑顔、恐怖に歪んだ顔、愚者たちの歓声、響く叫び声。
次の瞬間、その全てを嘲笑うかのように、リティエラは放たれた矢を弾いた。
その場にいる誰もが目を見開く。
「この人たちは、殺させない」
リティエラはまるで時間が止まったかのようなその空間で、剣を横に薙ぎ払った。
強い竜巻が起こり、道を塞いでいた賊たちを巻き込んで森の奥へと吹き飛ばす。
「さあ、行って。急いでいるのでしょう?」
賊の叫び声を背中で聞きながら、茫然とする老夫婦を促すと、二人は驚いたように目を瞬きながら感謝を述べた。
「…む、娘さん、ありがとうございます!この御恩は忘れません…!」
「本当にありがとうございます…!お嬢さん、あなたも上手く逃げてくださいね」
馬を駆り荷馬車を引きながら慌ただしく去っていく二人を見送り、リティエラは肩越しに振り返った。
「貴様…何者かは知らんが邪魔しやがって!許さねえぞ!」
傷だらけで息巻く姿にリティエラは一つ息を吐くと、言い放った。
「ルディス、手伝いなさい。わたしに力を貸すと言った以上は」
『人の気も知らずに、わがままな契約者だな…』
台詞の割には面白がっているような声音だ。辺りに反響し、どこから聞こえてくるのかはわからない。
「この声…どこから…!?」
『さあて…案外すぐ後ろにいるかもしれないな?』
それを聞き振り返った瞬間、男は切り伏せられていた。自分に何が起きたのか、理解する前に。
他の賊たちはその様子を見てざわつく。
「団長が…斬られた…」
「何なんだあいつは!?」
「おい、女の方が消えたぞ!」
誰か一人が焦り、混乱すると、それは波紋となり賊全員に広がる。そうなれば、潰すのは簡単である。
「わたしは、ここにいる」
突然背後から吹いてきた一陣の風に、幾人もの賊が木へと叩きつけられた。
長年鍛え上げてきた二人の剣の腕というのはそこらの兵士よりも上だ。
さらにリティエラは風を操ることも可能であり、粗削りの賊などに負けるはずがない。
二本の剣は弧を描き、あるいは交差し、次々に賊を倒す。誰一人死んではいないが、皆呻き声を上げている。
そこに、突如として第三者の声が響いた。
「大丈夫か、青年!お嬢さん!」
その声の主は鎧を纏った騎士であった。賊の動きがぴたりと止まる。
「聞け賊ども!じきに王国兵団が到着する!覚悟しておけ!」
それを聞き、賊たちは一斉に武器をしまい、二人から離れた。
「ちっ…退散するぞ!」
退散、退散という声があちこちで響き、やがて遠ざかっていく。
鎧の男は一つ大きなため息をつき、笑顔で近づいてきた。
「お二人さん、大丈夫だったか?いやぁ、ところで二人とも強いな、ぜひ俺の騎士団に来な…」
「結構です」
リティエラは言葉を遮り即答した。
「剣撃だけでなく拒否も早いな…まあそう言わず、一度団員と話を…」
「悪いが、俺たちには行くべき場所がある」
ルディスはそう言って背を向け、さっさと歩き出した。リティエラは一度頭を下げ、ルディスの後を追う。
少しも興味を持たれることなく拒否されてしまった。こんなことは初めてだ。
「仕方ない、あの二人は諦めるか…惜しいな」
男はそう呟き、一人、兵団の到着を待つのであった。
「あれはおまえの目的に適う行動か?」
隣町を目指して歩きながら、ルディスは尋ねた。
リティエラの目的。それは世界から争いを無くすこと。
果たしてその目的に先程の人助けは必要だったのか、と彼は問うているのだ。
「意地の悪い問い…さすが悪魔ね」
そもそもどのようにして世界を変えるのかもわかっていない。
だからこそ、旅をしているというのに。
「戦乱に巻き込まれたやつらが回復したところで、新たな戦いに駆り出されるだけだろう。俺はおまえの目的の邪魔となるものを救うことに意味を感じないだけだ」
リティエラは立ち止まり、明るくなってきた空を見上げた。
意味を感じないといえば、確かにそうなのかもしれない。
だが正しかったのか間違っていたのか、それを決めきることはできなかった。
「…わからないわ」
次は『ヘラネの町で』です!