第1章 第1話 雪割の花
レヴァナント王国と言えば大陸の北部に位置する、広大な領土を持つ国でした。領土の広さこそ、世界でも一二を争う規模でしたが、取り立てて目ぼしい産業や観光地があるわけでもない、到って平凡な国でした。庶民的、と言い替えても良いかもしれません。
昼は短く、夜の長い土地でした。
夏でも陽は低く、冬ともなれば陽の昇らぬ日もある所でした。
そんな雄大で壮大で荘厳な自然に護られた地で私、リッカ・レヴァナントは育ちました。
今でも時折帰りたいと夢見る故郷が、私は好きです。
ですから、おじい様からレヴァナント王国が十余の国々と隣接していながらも、侵略など受けずに存続していた理由を教わった時には驚いたものです。それはつまり、レヴァナントの地は人が住むには厳しい土地であり、侵略の価値もないと他所の人たちが評価していたからに他ならないのです。これもあの人の言うところの、「相対的な幸福」なのでしょうか?朝が寒いことを除けば、こんなにも平穏で心安く暮らせる所は他にはないだろうと、子供ながらに思ったものですが。
心優しいお父様とお母様がいて、聡くて自慢の弟がいて。大臣や給仕長は時々お説教が長くてうんざりすることもあるけれど。城下町に出れば誰もが皆、笑顔で。そんな平和な日々が未来永劫続いてゆくと、私は本当に、本当に、信じていたのです。
一つ年下の弟、ワイトの手を引いて進んで行く先には、ただただ降り積もった雪が光り輝いていました。
まだ朝日が地平線にお出掛けの口づけをして名残を惜しんでいる時間では、空気は澄みわたっていて、冷えきっていて、いくらコートを着込んでいてもとても足りたものではありません。
お城のすぐ脇の小高い丘の上、一本杉の根本が私たちの目的地。追手に捕まらないよう、細心の注意を払いながら。こんな朝早くにお城を抜け出して来たのも、全てはワイトのため。私たちの後について従う犬のアンドリューも含めてみんながみんな、雪よりも白い息を吐き、新雪を踏みしめて丘を上って行きます。
こんな寒い中でも杉の木は揺るぎなく生きていますから、その根本には輪を描いて地面が顔を覗かせています。
そんな生命の力を感じさせる小さな輪の中に咲く、一輪の雪割草。
小さな六枚の花びらを大きく拡げて咲く花を見付けて、ワイトは声にならない歓声を上げるのでした。
吐息と瞳を輝かせて花に見入っている弟を見ていると、何だか誇らしくなってしまって、尊大な気持ちになってしまうのを抑えるのはとても困難でした。胸を張ってよいのは、己を誇ってよいのは、この小さな花に他ならないというのに。
「可愛いでしょ?」
と尋ねれば弟は笑顔で大きく頷いて、それだけで私はもう、嬉しくて仕方ないのですが、そこは姉としての威厳を保つために、必死に笑みを噛み殺すのでした。
どれだけの間、そうやって花を眺めていたのか定かではありません。しかし、目的を達した以上、速やかに撤収するべきでした。そんなことにも考えが巡らないほど、雪割草に見入っていた私たちですから、忍び寄る陰に実際に首根っこを押さえ付けられるまで気が付かなかったのは無理もありません。
「姫様!こんな所で何をなさってるんですか!」
恐る恐る振り返るとそこには、確かめるまでもなく、教育係のデイジーが鬼のような形相で立っています。お母様とそう変わらない細い体で私を軽々と掴み上げるのですから、やっぱりデイジーは鬼の化身か何かではないかと思ってしまうのですが、そんなこと間違っても口にはできません。
「違うんだ、デイジー。僕が姉上にねだって……」
「嘘はいけませんよ、ワイト王子」
怯えながらも咄嗟に私を庇うワイトですが、デイジーには通用しません。こうなるともう、
「ごめんなさい」
と、私が素直に謝るしかありません。拘束は解かれても、お説教はここからです。
「ワイト王子はお体が弱いのですから、姉である貴女がそれを労わらなくてどうするのです?さぁ、皆心配していますよ。早くお城に戻りましょう」
思いの外お説教が短かったのは、ワイトの目がどこか熱っぽいからでしょう。やっぱりこんな寒い中、朝早くから出てきたのは良くなかったようです。
最後にもう一度だけ、チラリと一瞥しただけのつもりでしたが、デイジーにはしっかりとバレてしまいました。
「雪割草……ですか?」
「うん。ワイトにこれを見せてあげたくって」
デイジーは、私が正直にしていれば優しくて、理解もあります。いえ、私が自分の心に素直な行動を取る度に怒っているのですから、これは誤謬がありますね。
もうとっくに怒ってなんていなかったけれどもデイジーは、私の気持ちを汲んでくれた、のだと思います。
――なかなかお城の外に出してもらえないワイトに、これを見せてあげたくって。
「でしたら、後で誰かにお城の庭に植え替えさせましょう」
「ダメ」
反射的に拒絶していました。自分でもよく分からないままに、拒絶を重ねていました。
「絶対に、ダメ」
きっと幼いなりに、よく分からないままに、それがいけないことだと察していたのでしょう。思えば、あれだけ食い入るようにして見入っていたワイトですが、彼もまた、花に手を伸ばすことはありませんでした。
あの日の私には難しかったことですが、今の私なら、その理由をちゃんと説明することが出来ます。
あの雪割草は、あの丘の上でああして咲いていることに意味があったのです。価値があったのです。
それは私たちの手でどうこう出来るものではありません。実際のところはその気になれば容易く摘むことのできるものですが、そうしてしまえばあの雪割草の意味も価値も失われてしまうのです。
デイジーが難しい顔をしていたのはきっと、あの花を植え替えることで私がワイトを連れ出す理由がなくなるとでも考えていたのでしょう。それでもデイジーは、優しくて理解のあるデイジーは私の意見に納得してくれたのでした。
「それでは今後はワイト王子とお出掛けなさる際には必ず、事前にご相談下さい。でないと……」
「でないと……?」
どんな恐ろしいお仕置きが待っているというのでしょう?恐る恐る訊ねてみます。
「でないと、私が王妃に怒られます」
鬼のように恐ろしいデイジーにも恐れるものがあるのかと思うと、笑いが堪えられませんでした。
「さぁ、早く帰りましょう。帰ったら二人とも釜茹での刑ですよ」
それは、かなり笑えません。
片腕でワイトを抱え上げ、残る手で私の手を引くデイジーに従って、丘を下ります。
デイジーの肩に頭を乗せてしがみつくワイトが、少し眠そうな目で笑えば、この早朝の小さな冒険譚はハッピー・エンドのうちにそっと幕を閉じるのでした。




