第八話 突然の来客
夕方が近づいてきた午後、家に帰りつくと、トルコブルー色の少し底の厚い靴が、黒い大理石に置かれていた。それは、見知らぬ靴だった。
「ただいま帰りました」と言った僕の声を聞きつけ、どこからか、染谷さんがシュタタタと早足で玄関に参上した。
「お帰りなさいませ、堂月様。お客様がリビングでお待ちです」
「え、僕ですか?」
染谷さんは深く頷くと、またどこかへ、早足で去ってしまった。
忙しい人だ。僕は、彼女を見る度そう思う。
リビングは、僕の部屋がある西棟の一階、玄関を背中に左に曲がり、真っ直ぐ行った突き当たりにある。この家で、食堂と並ぶ大きな部屋だ。そこには、幾つかベージュのソファーがあり、僕はまだ一度しか行ったことがなかった。
リビングの引き戸を開けると、そこには幸時さんと、もう一人、僕より五cmほど背が低い細身の人が座っていた。その人は、僕がよく知る人だった。
彼女たちは向かい合って楽しそうに笑っていたが、入ってきた僕を見たその人は、嬉しそうに顔を輝かせ、勢い良く立ち上がってスリッパをぱたぱた鳴らしながら駆け寄ってきた。
「穏風〜っ!」
その人はその勢いのまま、僕に抱きついてきた。体は軽いけれど、僕は少しよろけた。
「まぁまぁ、本当に仲が良いこと」
幸時さんがソファーに座ったまま言って、フフフっと笑った。
僕は倒れそうになるところを踏ん張り、何とか無事だった。
「穏風、会いたかったぞッ!」
その人はニィっと、満面の笑みを浮かべた。
「紳、どうしたの突然?」
僕の驚く顔を、紳は面白がった。紳がどうしてここを、僕が幸時家にいることを知っているのか分からなかった。紳はフランスに留学しているはずなのだ。
「留学はこの間終わったのだ。それで、日本に帰ってきたのだけど、父さんと母さんは二人で温泉旅行に行くって言うし。やっと長い旅を終えて帰ってきたボクを置いて旅行に行くなんて、信じられない!」
紳は一気に喋り終えると、ゴクゴクとコーヒーを飲んだ。
「元気そうだね、紳。それで、どうして僕がここにいるって分かったの?」
僕がそう言うと、紳はまた堰を切ったように喋り始めた。
「そお!帰ったら穏風がいなくって、すっごく寂しかったです。で、母さん達に問いただしたら、ここに居候してるって白状したのだ!」
「別に問いたださなくても、普通に聞けば良かったんじゃ・・・」
「それで、もう大慌てで飛んできたってわけなんだな。大変だったんだぞ、ここまで来るの。まったく、あちこち移動するなよなっ」
紳はプゥーと頬を膨らませた。これは、昔からの紳の癖だ。
「いや、ここ以外に僕どこにも行ってないんだけど」
しかし、紳は聞いていなかった。
僕がやれやれとため息をついたとたん、幸時さんが吹き出した。僕は彼女がこんなふうに笑うのを初めて見たので、ビックリした。
「ど、どうしたんですか?」
僕が訊くと、彼女は深呼吸をして、僕の問いに答えた。
「あなたたちの会話が面白くて」
すると、紳の顔がパアー・・・っと、ますます明るくなった。
紳は、自分のした事で人が笑ってくれるのをとても喜ぶ人間なのだ。
「いつもこんな風なの?」
「そうなんです。もう穏風ったらいつもこんな感じで・・・。あ、幸時さんに一つお願いがあるんですけど」
紳がそう言った瞬間、嫌な予感がした。
「もうすぐお正月ですよね。だから、ボクも少しの間ここに居候させていただけませんか?」
・・・嫌な予感的中。
幸時さんは爽やかに微笑んで、
「もちろん。人数は多い方が楽しいに決まってますもの」
と言った。
(勘弁してくれ・・・)
「穏風、この家はとても広いのだな!どうなっているのだ?」
紳は、染谷さんに部屋を案内されてから数分も経たない内に僕の部屋に遊びに来た。紳はとても方向感覚と記憶力が良いのだ。一度行った場所や見たりした事は忘れないし、新しい所に行っても、まず迷うことはない。
『なんとなく歩いてたら、ここに来たのだ』
・・・なんとなくで数分も経たない内に人間は初めての場所を移動できるのだろうか。
きっと勘を頼りに、屋敷の廊下を全力疾走したに違いない。
「ここは西棟って言ってね、三階建てなんだけど二階にガラス戸張りの渡り廊下と、一回に縁側のある渡り廊下があるんだ。そこを渡ると東棟に行けるんだよ。東棟には幸時家の人の個室と、一階の奥に食堂があるんだ」
「ふ〜ん」
こんな風に、新しいことを聴く時の紳はとても大人しい。まるで、すべての情報を吸収しようとするかの様に、じっと相手の目を見つめて、静かにしている。
「西棟には主にお手伝いさんや、僕たちみたいな人が寝る部屋と、さっきのリビングがある。西棟と東棟は左右対称になってるんだ」
きっと紳は、この屋敷内の全ての部屋の場所を、半日もあれば覚えてしまうだろう。
その他にも、僕は紳に、この家の女性がなぜ化粧をして着物を着ているのか等を、説明した。この話も、亜志貴さんから聞いた。
紳はしばらく、ふむふむと聴いていた。
「この家に子供はいないのか?凛さん若いけど」
僕の説明が終わると、紳はそう言った。彼女は親しい人は下の名前で呼ぶ。幸時さんと紳がいつそんなにも親しくなったのかは定かではないか・・・
「亜志貴っていう子がいるよ。とても賢くて、背は・・・紳と同じくらいかな」
僕の顔を見ていた紳が、ニッと悪戯っぽく笑った。
(しまった・・・)
「その子、女の子?」
僕はまた嫌な予感がした。紳は女の子に目が無いのだ。
「え、うんまあ・・・」
僕は仕方なく認めた。
「じゃーさー・・・」
「亜志貴さんに手を出しちゃ駄目だよ。それから、彼女の後をつけるのも、ご飯のときにやたら彼女に話しかけるのも、夜中にこっそり部屋の前に自作の『愛のソングメドレー』を置いておくのも無しだからね!」
僕は息もつかずに言った。紳は、さっきと同じように頬を膨らませた。
「ちぇっ、どうしてボクがしようとしてたこと分かるの?」
「僕たち何年一緒にいると思ってるの?それくらいお見通しだよ」
紳が座っている椅子に、僕は近寄った。紳は、まだフランスの香りがする。
僕は、黒いウルフカットの髪をクシャっとしてやってから、頭を撫でてやった。こうすると、紳は喜ぶ。
こうして紳といる時間は本当に久しぶりで、懐かしくて、僕はとても癒された。
夕食の時、紳は僕との約束を守って『やたら亜志貴さんに話しかける』ことはしなかった。しかし、予想通り、紳は亜志貴さんに一目惚れした模様。
食後、リビングで幸時家の三人、そして僕の合計四人は、紳のフランス留学の話をきいて時を過ごした。誰とでもすぐに友達になれる紳の能力が、遺憾無く発揮された。
今年は一年ぶりに紳と一緒に年越しを迎えることになった。
流石に、今ごろどこかでゆったり温泉に入ってくつろいでいる誰かさんたちに、毎年旅行に行くのをやめて欲しい・・・と電話することはできなかった。




