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 夜半に降り出した雪は眠るように横たわる一人の女の上へ、まるで薄衣を掛けたようにうっすらと積もった。

 一面の白に反射した光が彼女の黒髪を照らしている。

 音すらも包み込む静かな雪の中、一人の男が近づきそのまま彼女の脇に屈み込んだ。それに合わせ装身具が冷たい音をかすかに鳴らす。

 男は剣をしまうと目を閉じたままの女の息を確認し、彼女を抱え上げた。青白い頬に血の気はないが、少なくとも生きている。急がなければ――。

 力強く雪を踏みしめ、男は足早に来た道を戻っていった。 


   ・ ・ ・


 とある時代、とある地方の港町。

 交易の拠点と呼ぶには賑わいが足りず、しかしながら寂れた漁村と呼ぶには人の多いこの町は、近隣の漁村と大きな港町をつなぐ、丁度中継地点のような役割を果たしている。

 周辺の漁村と比べ、特別地の利に恵まれているという訳ではないが一つだけ、この町には周辺の漁村にはないものがあった。

 灯台である。岬の先に立てられたそれは町のどこからでも姿を見ることができ、暗い夜には灯された明かりが行き交う船に場所を知らせる。

 さほど規模の大きくない港町には珍しい施設ではあるが、この灯台があることから、この町は周辺の漁村よりも人が多く、中継地点としての役割を果たしているのだった。



 さて、そんな町には行き交う人々のため、様々な施設が存在している。

 水揚げされた魚や貝などを売る市場、輸送する物品を集め各所へ運ぶ中小の商会やその倉庫、そして訪れる様々な人が泊まるための宿屋や腹を満たすための食堂などだ。

 そんな施設の一つである、大衆食堂兼宿屋を営む店で、とある男女が少々遅い夕食を取っていた。

 男は中年に片足を突っ込んだくらいだろう背の高い人物で、年の割にがっしりとした体には加齢に伴う弛みは見られず、まだまだ働き盛りであることを物語る。

 女の方は、男と比べるとずいぶん若い。やや小柄で凹凸の少ない体型ではあるものの、服の上からでも解るなだらかな曲線は女のそれを知らせる。あまり日に焼けていない肌と旅装束はいかにも不釣り合いであり、「箱入り娘が家出して」と人探しをしている人物がいれば、まず間違いなく候補に上げられるだろう。

 親子と言うにはやや年が近い上あまり似ておらず、かといって夫婦かと聞かれれば年が離れすぎている事に加えてそんな空気ではないため、一見しただけで二人の間柄を言い当てることができる者はまず居ないだろう。


「――そういえば、そろそろまとまったの?」

「うん? あー……」


 食後の果実水(果汁を水で割ったもの。海の近いこのあたりでは直接飲める水が少なく、飲食店などで出される飲料水はこうした加工がなされている)で咽を潤していた少女が、対面に座る男へと声をかけた。一方で男の方はといえば、女の問いに厳つい顔には似合わない決まりの悪そうなものを浮かべ、


「悪い、あんまりだ。思ったよりも筆が進まなくてな」

「……そう」


 男の返答に、女はもとより期待をしていなかったのか、あまり感情を見せない声でそれだけを返した。


「なんだよ、そんなに落胆しなくても……ああ、そうかおまえさんの方はもうめぼしいところはあらかた見て回れたのか? で、首尾はどうだったんだ?」

「ここにいることが答え、のようなものでしょう?」

「ああ、そりゃ違いない」


 素っ気なく返す女の言葉に、男は茶化すように相づちを打つ。そんな姿にむ、と咎めるような眼差しを向けるが、男の方はどこ吹く風と堪えた様子は微塵もない。

 こんなやりとりはもう数ヶ月も前から、二人の日常の一部となっている。


 二人が共に旅を行うようになったのは、半年ほど前のことである。

 元々旅をしていた男の前に、行き倒れ状態の女が姿を見せた。しんしんと雪の降り積もる日だった。そのまま放っておけば命を落とすだろうことは明白で、捨て置くことのできなかった男は女を拾い、目が覚めるまで世話をし、目覚めた後行く当てがあるのかと問うと何も答えず、ただじっと怯える子猫のように警戒の眼差しを向ける女の姿に決まりが悪そうに頬を掻くばかりだった。

 その内に女も男が己に害を与えるものではないと判断したのだろう。野生動物が人に慣れるよう、次第に言葉を交わすようになり、しかしいっこうに名乗る様子のない女にもしや記憶がないのかと問うと、女は逡巡した後、コクリと頷いた。

 そうして名のない娘にリサと名付け、男――テオは己の旅について来て記憶を探すかと提案し、今へと至る。



「まったく……」


 からからと笑うテオに、いつものこととはいえリサはため息を隠せない。

 このテオという男は各地に残る伝承を集めることを目的とし、あちこちを放浪している――らしい。

 というのも、リサは現在保護者のような相手とはいえ、そこまでテオのことに踏み込んで事情を聞こうとはしないため、そこのところをあまりよくわかっていないからだ。

 一応、町に立ち寄る度宿に籠もってなにやら書き物をしている姿を見ているので、そういった学者か研究者の一人なのだろうとあたりを付けているのだが――


「ああ、ここにいらしたんですか先生!」

「うん?」


 と、雑多な音で満たされた大衆食堂でひときわ大きな声が上がり、二人はそちらに視線を向ける。おそらくは町の者だろう平服を着た中年くらいの男が一人、机の間を縫って二人の元へと近づいてくるところだった。

 テオとは違い、年相応にあちこちたるみの見える体では満員御礼の店内を通るのは一苦労だろうが、男はさして気にした風もなく、むしろ慣れた様子すら有るのだから普段から何かしら多数の人を相手にするような商売でもしているのだろう。


「昼間はありがとうございました。おかげで家のもずいぶん調子がよくなりました。本当に、ありがとうございます!」

「や、そいつは何より。しかし奥さんの側に居てやらなくて良いのか? 俺は本業の医者じゃないから十分な処置はしてない。あくまで応急的なものなんだが……」

「いえいえ、それでもずいぶん呼吸も楽そうになっていましたからね。それに家内の奴にも言われたんですよ、きちんとお礼をしてこいと」


 がははと笑う男は困ったものですとばかりの言葉とは裏腹に、安堵の色が浮かんでいた。

 大都市ならばともかく、小さな町において医学、あるいは薬学を身につけている者は少ない。もちろん皆無ではないのだが、この町では丁度その心得のある者が周辺の小村へ定期的な巡回治療に出払っているため、急患への対応ができずにいた。

 もちろんこういった場合に備えて常備薬などを準備している者もいるが、やはり民間治療の域を出ないのが現状だった。

 こう行った時に重宝されるのが、旅人など流れの者である。

 定住の地を持たない彼らは、その課程で万が一にも動けなくなるようなことが有れば致命的だ。故に怪我の適切な処置から、病気に対する簡単な知識まで、平穏に町で暮らす人のそれよりも幅広い知識を有している場合が多い。

 もちろんその恩恵を受けようと思えば相応に謝礼を積まなければならないし、相手の技量や人柄によっては袖にされることも少なくはないが、医者以外の頼るべき者として広く一般に認識されている。

 そしてテオという男は、リサを拾って面倒を見ていることから解るになかなかもって面倒見が良い――リサ曰くバカみたいなお人好しなのだが――ため、旅先でこういった医者の真似事をすることも少なくはなかった。

 おそらく今日もまた、助けを求められて手をかしていただろうことは男の言葉からも明白で――


「……ホント、何処まで人がいいんだか」

「うん? 何か言ったか?」

「別に」


 首を傾げるテオに、今日もまた素っ気なく答えるリサだった。




 宿の一室、下の階から未だ聞こえてくる喧噪を耳にしながら、リサは机の上に置かれた書物に目を向ける。

 おそらくは町の資料庫から借り受けたものだろう。普通、旅人のような身元の分からない者に貴重な資料を貸し出すことはないが、そこはテオの人柄と言うべきか、ここ半月あまりの滞在で住人の治療にかり出されること多数、その見返りとしてか、それとも信頼を得てかは解らないが、閲覧だけではなく貸し出しまで許されるほどにはなったのだろう。

 反面、資料と共に置きっぱなしの真新しい書物――テオ自信が各所の伝承をまとめ、書き記すため用意した白紙の束はあまり手を着けられておらず、作業の滞りを物語る。


 ――この地方には昔から、数多くの伝承が残されている。

 たとえば満月の夜町に降りてくる狼男、たとえば森で迷った者の前に現れ道を教える天狗、たとえば船乗りを惑わす美声の人魚――

 数多くの人有らざるモノ、獣人が居たと、あるいは居るのではないかと思わせる民話が各所に残る。そうした話を編纂した書物、アーネルド地方民話集などという書物が出される程度にはそういった話が伝えられ、語られる地方である。

 とはいえ、それはもちろん民話の中でのことであり、それが本当に存在すると確認されているわけではなく、もしかしたら居るのかもしれないといった具合に語られ、あるいは悪さをする子供への脅し文句として語られる程度のものであるのだが。

 だがそういった物語を好む者は、いつの時代も存在する。それが地方民話集を作ったアーネルド家であり、あるいはテオのような変わり者なのだろうとリサは思っていた。


「うん? ああ、まだ起きてたのか。待っていてくれたのか?」

「……別に」


 あの後謝礼だといって男が酒をおごり、妻の回復祝いとしてその場にいた者たちに酒を振る舞ったりと盛り上がっていたのだが、そういった騒がしさを苦手としているリサは早々に部屋へと引き上げてきたのだった。テオの方も、酒盛りなどは嫌いではないがそれなりのところ出きり上げようとしたのだが、主役のような扱いなのでなかなか抜け出すことができず、今ようやく引き上げてきたところだった。


「まあ、筆が進まない理由はよくわかったけれど」

「ははは……。だが無駄なことじゃないだろう? こうして資料だって快く貸してもらってるんだしな。それに、役立つ技術なら役立てた方がいいだろう。情けは人のためならず、だしな」

「……そうね、あなたはそういう人だった」


 お人好しにもほどがあるのではないか、常々そう思っているリサではあったが、そのお人好しに拾われた身である以上文句は言える立場ではないし、そもそもそこまで深く他人テオに関わろうとも思っていないため余計な口出しをするようなまねは控えている。


「まったく……。まあ、灯台くらいはもう調査してるでしょうし、そう長く止まることもないでしょうけど……」


 だからぽろりとこぼれた言葉は、このお人好しな男へ向けた呆れが多大に含まれていたのだが――


「灯台?」

「………」

「灯台って言うと、あの灯台か? この街のシンボルの。って……おーいリザさん、そこで黙らないで欲しいんだが」


 首を傾げ、興味深げに視線を向けるテオに慌てて口をつぐむが時すでに遅し。年甲斐もなく好奇心を隠そうともしない様子にリザは子供かとため息をつき、


「その灯台で合っているわ。町の人や地方民話集によると昔、あの灯台には――」


 ――人魚が居たらしい。

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