2時50分の座り方
『つぎは~芸術文化センター前~』
○ ○ ○ ○ ○
秋風がより一層冷たくなってきた。
いつのまにか街の風景がイルミネーションで彩られ、商店街やデパートなんかもキラキラしている。そういえばあと一か月でクリスマスか、とぼんやり考えながら、私は赤くなった鼻をすすった。
ため息とともに吐き出した白い靄は、溶けるようにして空気のなかへ消えていく。
屋根付きのバスの停留所に凍える風が枯葉を運んできて、マフラーを巻き付けてやりすごす。厚めのタイツなんかじゃ到底防げない寒さでも、前に立っている男子生徒はマフラーも手袋もなしで平気な顔をして立っていた。
なんで男子だけズボンなんだろう……ずるい。
なんて中学の頃から冬がくるたびに毎年思ってるんだけど、今年もまた飽きもせず、うらめしい視線で男子の制服を眺める。
「……冬だなぁ」
こんなことで季節を感じるなんて、アホらしい。
やるせなくなってきて、私はブレザーのポケットに手をつっこんでしかめっ面。
前にいる男子生徒が肩にかけていた鞄をかつぎなおす。私に当たったと思ったのか振り向くと、私の顔をみてギョッとした。
そそくさと距離を開けられる。
よほど不機嫌な顔に見えたんだろう。誤解させて申し訳ないけど、まあ、謝ったりはしない。
それに、不機嫌っちゃあ不機嫌だし。
もうすぐテストだとか、部活の友達とギスギスしてるとか、そんなのはどうだっていい。
ちょっと気になってたひとに、彼女がいるってわかっただけだ。
……たいしたことじゃない。
べつに、たいしたことじゃないんだ。
どこにでも転がってるような、失恋とまでいかないただの与太話。
喚き散らしたり、すねたりなんかしないから。
そのかわりちょっと仏頂面になるくらい許してほしい。男の子に誤解させちゃうかもしれないけど。
バスが来るまでの間だけで、いいんだから。
クラスのなかにはもう大学に受かった子もいる。
推薦入試でいい大学に入る……内申も実力もさっぱり足りてない私にとって、そんなの関係のない話だ。
私にちょっとでもそうなる可能性があったのなら、そりゃあ嫉妬とか羨望とか、つまらない感情も抱いたかもしれないけど、残念ながらまったくといっていいほど成績が足りない。
だから、
「ぶっちゃけこの時期になったら学校のテストなんて意味ないでしょ? どうせうちは前後期制なんだし、センター入試に後期の内申なんてほとんど必要ないんだし」
そんな気楽にいうクラスメイトの裕美に、なるほどと納得してしまうわけで。
「それよりあんたは英語力! 単語力だよ! ほかはふつうに模試の点も取れるんだから、あとは英語だけでしょ? さっさと単語帳開いて。ほらほら」
「……はあい」
誰もいない教室で、裕美に背中を叩かれてしぶしぶ単語帳を開く。さっきまで談笑してたのに、勉強の話になったとたんこれだ。
なんかお母さんみたい。
一度それを口にしたら、阿修羅の怖い顔みたいな表情で怒られたので、それからは思っても言わないようにしてるんだけど。
そんな推薦入学が決まった裕美は、私の勉強をうれしそうに監視する。
こうなったら逃げることは許されない。囚人になった気持ちでやらないとまたすぐに怒られてしまう。
単語帳と問題集を二時間ほど解いたところで、私はようやく解放された。
気づけば夕陽が沈みかけていた。
「じゃあまたあしたね!」
裕美は門限があるから、いつも寄り道なんてしないでそそくさと家に帰ってしまう。家が反対方向なので校門を出たらお別れだ。
私は両親が共働きでひとりっこだから、そんなに慌てる必要はない。
のろのろと歩く。
門限があるのは面倒なんだろうけど、なんか、うらやましい。
私なんかどうせ門限があったって、遅くまで遊ぶほど友達がいるわけでも習い事をしてるわけでもないのに、いつも忙しそうな裕美に門限があるのはちょっと申し訳ないような気さえする。
考えたってどうにもならないのに、ため息をつかずにはいられなかった。
「……あ」
そんなふうに考えていたせいだろうか。
ポツポツと小さな雨粒が降ってきた。冷たい雨だ。
「うそ……さいあく」
傘はない。
小走りになってバス停まで急ぐ。
さすがにこの季節、雨に当たるのはつらすぎる。
それに長い間履きつづけたローファーの底はもうすり減っていて、雨の地面では滑るのだ。
雨脚はどんどん強くなってくる。
私がバス停の屋根の下に駆け込んだとき、ちょうどバスがついた。
そのままバスのなかに乗り込む。
エアコンがかかって暖かい車内には、乗客と湿気の臭いが充満していた。
運よく空いてる座席をみつけた。後部座席の二人掛けの席の片方がひとつだけ空いていたのだ。
隣のひとの邪魔にならないように、端っこにお尻を半分だけのせてちょこんと座る。
ふう、と一息つく。
鞄のなかからハンドタオルを取り出して、ほんのり濡れた髪を拭く。問題はバスを降りてからどう帰るかだ。窓の外は、とっくに大粒の雨が降り出していた。
『新川通り~』
年老いた運転手が小さな声で停留所の名前を告げて、バスは停車する。
雨が降ってきたからか、いつもより乗ってくる人が多い気がした。
私はとくにすることもなくケータイ画面の時計をじっと見つめる。
4時15分のバス内は、とても窮屈だった。
○ ○ ○ ○ ○
「くしゅっ!」
「……だいじょうぶ?」
身震いしてたら、裕美がおでこに手をあててきた。
「うわっ熱あるじゃん。どしたの?」
「んんと、たぶん、きのう濡れて帰ったせい……」
昼休みのあと、五時限目が終わってあと授業ひとつになったところだった。
朝からすこし寒気がするな~とは思ってた。
むかしから、体調管理はあんまし得意じゃない。放課後までならなんとかなるだろうという甘い考えは、バッサリと切って捨てられた。
「ほら、とっとと保健室いく。そのまま帰れるなら、帰りなさいよ。ちゃんと鞄も持ってね」
「……はい」
裕美に連れてかれて保健室へ。
当直の先生に診てもらったら、すぐに帰るようにと言われた。流行り病ではなさそうだったけど、明日すぐに病院に行くよう指示されてさっさと追い払われた。
まるで邪魔者みたいな扱いだ。
苦笑したけど、気持ちもわからなくはない。
誰だって風邪菌をもった生徒をいつまでも保健室に置いておきたくないだろう。動けるうちに家に帰すのは、むしろ最善な判断だ。
でもちょっとくらい横になりたかったなぁ。
保健室のベッドを名残惜しく横目でみながら、私は学校を早退した。
雨はまだしとしとと降っていた。さすがに朝から降っているので、傘は持ってきてる。
なんの特徴もないビニール傘をさして歩く。
なんの特徴もない私には、ぴったりの傘だ。
雨音は聞こえない。
ときおり通り過ぎていく車のタイヤ音だけが耳に残るようだ。
来週からテストが始まるっていうのに、なんで早退してんだろう。
いい点とらないと。志望大学にはいけるかわからないけど、いまがんばらないとダメなのに。
……あ、テストはわりとどうでもいんだっけ。
ぼんやりとする頭で、滑らないように気をつけて歩く。
いつものバス停には誰もいなかった。
まだ授業中だし、朝からつづく雨のせいで出歩いているひともほとんどいない。
しばらくひとりでぽつんと立っていると、道のむこうからバスがやってきた。
いつも見慣れたバスのはずなのに、すこしだけ違って見えた。
バスが止まると、買い物袋を下げた女の人がひとりだけ降車した。
私は自分が屋根の下にいることをようやく思い出して、傘を折りたたんで慌ててバスに乗る。
『つぎは~新川通り~』
私が乗るとすぐにバスは走り出す。
きのうとおなじ、お爺ちゃん運転手だ。
違っていたのは車内の様子だった。
あんなに人が多かった車内には、いまは私ひとりだけしか乗っていなかった。
この時間はすいてるんだなぁ。
近くの席にゆっくりと座る。背もたれも贅沢に使って、座席のバネをしっかりと感じれるまで深く座ってみた。
早退したことなんてなかったから、ちょっと変な気分だ。
ケータイ画面を見ると、時刻は2時50分。
こんな贅沢な座り方ができたのは、高校生活で初めてかもしれない。
『つぎは~農協前~』
バス停に止まらず、そのまま道を進んでいく。
ここには運転手のお爺さんと私だけ。
乗客がどれだけいてもいなくても、運転手のお爺さんは同じ声のトーンで同じように停留所の名前を告げる。
大変なんだなあ。
バックミラーにすこしだけ写る白髪は、この仕事のせいなんだろうか。それとも遺伝なんだろうか。
『市役所前~』
誰も乗ってこないし、もちろん誰も降りていかない。
バスはゆっくりと走っていく。
こうやって止まることなく人生だって走れたら、楽なんだろうな。
そんなふうにうまくいくわけ、ないんだろうけど。
「……はぁ」
『つぎは~芸術文化センター前~』
ピンポーン。
停止ボタンを押す。
私が考えることなんて、考えてもしかたのないことばっかりだ。時間にもこうやって停止ボタンがあればゆっくり考えることだってできるのに、残念ながら神様は私のために停止ボタンは用意してくれてない。
バスがゆっくりと停留所に止まる。
熱のせいか、やけに重たく感じる鞄を肩にかついで出口まで歩く。白髪の運転手のお爺さんの横から、冷たい雨のなかに出ようとした――そのときだった。
『滑りやすいから、足もとに気を付けてね』
かすかにつぶやくように聞こえてきたのは、お爺さんの小さな声。
それが自分に充てられたものだと気づいたのは、傘を開いてからだった。
振り向いたときにはドアはもう閉まっていて、すぐにバスは走り出した。
「…………。」
私は、走り去っていくバスの後姿を眺める。
体調はよくなくて。
頭だってよくなくて。
勉強も教えられてようやく理解できるくらいで。
大学だって入れるかわからなくて。
将来のことなんて、なにもわかんなくて。
夢もやりたいこともない、くだらない人間で。
そんな私だけど、お爺さんのひとことがじんわりと身に染みた。
ああいうひとことが言える大人になりたいと、思った。
「……がんばろ」
まずは、家に帰って、しっかり風邪を治そう。