死にたがり少女のエゴイズム
「ねぇ。ここから落ちたら、どうなるかな」
少女は、屋上のフェンスの向こう側に立って微笑んだ。
その一方でフェンスの内側には、ひとりの少年が佇んでいる。
少年の顔は、恐怖と疑問で歪んでいた。
「え。なに、言って……」
「うん。落ちたら、死んじゃうよね、って話かな」
少女の髪が、夕陽の橙色に照らされながらなびく。
さらさらと流れる髪を抑えながら、少女は少年に向けて言葉を続けた。
「ねぇ。わたしが死んだら、悲しい?」
「悲しいに、決まってる」
「苦しい?
辛い?
死んじゃいたい?」
「君がいないなら、僕が生きてる意味は……!」
「死んだら、許さない」
少女は、憎しみに満ち溢れた声で少年の言葉を断ち切った。
少年が驚いて息を飲むのを良いことに、少女は下を見つめながら呟く。
「わたしに愛されたいなら、わたしが死んだ後も生きて。生きて生きて生きて、苦しんで?」
わたしが味わった絶望と、同じくらい。
少女の制服のスカートが、風を含んで揺れている。
それは、狂っていた。
どこでネジが外れたのか、少女にはまるで分からない。否、この世界に来たときから、少女の歯車はバラバラに壊れていたのだろう。今までなんとか動いていたのは、その欠片を必死になってかき集め、固めていただけに過ぎない。
わたしは、こんな世界に来たくなかった。
少女の絶望はやがて、少年への歪んだ愛情へと変質する。
狂気の沙汰、とは、誰の言葉であったろうか。
残酷なまでに艶やかに微笑んだ少女は、フェンスを一枚隔てたそこで自身の死を望んでいた。
「いや、だ。いやだ、いやだいやだいやだ!」
「駄々こねないの」
「君がいなくなったら、僕は、生きてる意味なんてないのに!?」
「ええ、もちろん」
これから自殺しようとするはずの少女は、酷く落ち着いていた。まるで母親のような慈愛に満ち溢れた顔で、少女は愛おしい少年を諭す。愛おしくて憎い、少年を。
「あなたが寿命で死ぬまで、わたしは天国か地獄で待っててあげる。だから、頑張って?」
「や……だ。僕は、君とずっと一緒に……っ!!」
「わたしの本当の気持ちも知らないくせに、一緒にいたいなんて言わないでもらえる?」
少女はさめざめとした声音で、フェンスの網目にしがみつく少年を見下した。
ちらりと、後ろを見る。
この学校は四階建てだ。つまり、屋上を含めれば五階分の高さがあるということになる。
落ちたら、ほぼ確実で死ぬだろう。
高いところを見下ろす際の独特の胸の震えに、少女は心を震わせた。
ここから落ちれば、少年の顔は絶望で歪むだろう。
その瞬間を愛せないのは、残念だけど。
そう思いながら、少女はとびっきりの笑顔を浮かべて少年を見る。
彼は、何かを悟ったようにフェンスをよじのぼろうとした。
それは、ダメ。
少女は最期に、唇をゆっくりと動かす。
「ごめんね。大好き、だったの」
一歩。たったの一歩だけ後ろに下がれば、体は支えを失くして落下する。
落ちる、堕ちる、墜ちる。
全ての苦しみから解放されていく感覚に、少女は口の端を歪めた。
「うそ。あなたのことなんて――」
大好きよ。
相反するふたつの感覚を胸に、少女は最期のときを迎えた。
少女は、この世界の人間ではなかった。
なんなの、ここ。どこなの、本当に。
頭の中がぐちゃぐちゃに混ざり、少女の精神状態は極めて酷い状態で揺れていた。
今の自分の状態を確認したが、本当にわけが分からない。
そこは、どこかの公園だった。少女はベンチに腰掛けたまま、放心した心地で現状を把握しようとする。
服装は、簡素なTシャツにショートパンツ。靴はスニーカーだ。
それはどこにでもありそうな、普通の服装だった。
そんなとき、ポケットの中の携帯が震える。恐る恐る、縋る気持ちで携帯を取り出した少女は、怪訝な顔を浮かべた。アドレスになど登録したことがない『神様』を名乗る者からのメールだったためだ。
訝しがりながらも、少女はメールを見る。そして、ぽとりとそれを地面に落とした。
少女はいわゆるところの、トリップ者というやつだった。
そんなメールが神様を名乗る誰かから来た瞬間、少女の精神は粉々に砕けた。
少女は、なんの変哲もない普通の女子高生だったからだ。
この世界は乙女ゲームでも、少女がハマっていた『アイコイ』という作品の中であるらしい。
しかし少女は、トリップしたいなどと願ったことは一度たりともなかった。
少女はそれほどまでに、元の世界の人たちが大好きだったのだ。
「やだ……やだ、やだやだやだやだやだ」
元の世界に帰して。
そう願っても、メールの内容は酷なものだった。
『一度トリップした人間は、帰ることはできない』
その一文が、少女が今まで積み上げてきた全てを壊す。
雨が降ってきた。
体を突き刺すような、重たく痛い雨だ。
絶望とともに黒い泉に溺れてゆく少女は、色白い顔で遠いところを見つめていた。
そんな彼女の頭上に、何かがかざされる。
少女はぼんやりとしたまま、上を見上げた。
そして、さらに絶望する。
「……大丈夫かい?」
「……あ……」
そこにいたのは、ひとりの少年だった。
ゲームの中でも、儚く綺麗だと評判の少年だ。
そう、彼は、ゲームの攻略キャラのひとりだった。
***
少女はそれから、少年と急激に距離を縮めた。否、故意的にやったのだ。攻略本を読み込んでまでやりこんだゲームだ。その気になれば、どのキャラも攻略できるだろう。
しかしその中から件の彼を選んだのは、それ相応の理由があった。
彼は、依存性が強いのだ。
一度恋をしたら、その相手にとことん執着し、依存する。
どうせこの世界で死ぬなら、そこに自分がいたという証を刻みつけてから死のうと少女は思ったのだ。
そんなふたりは今、屋上にいた。
へぇ。屋上って、本当に開放されてるのね。
少女がもといた世界では、そんなことはあり得なかった。屋上には自殺防止や諸々の理由で鍵がかけられているものだし、合鍵なんていうものは作れるわけがない。
その瞬間少女は、この世界が自分の居場所ではないことを再認識してしまう。
死ぬなら、ここで死のうかしら。
自分の生まれた世界ではあり得ない、そんな空間で。
飛び降りて死ねたら、元の世界に帰れるだろうか。
「……どうしたの?」
そんなときだ。少年が声をかけたのは。
少女はしばしの間遠くを見つめ、そして首を振る。
「空が綺麗だな、て。そう、思っただけ」
「そっか」
味気ない購買のパンが、この学校に来た当時の食事だった。
しかし今となってそれは、二段の重箱へと変わっている。
そしてこれは、この少年が持ち込んだものだ。
こんな大きな荷物、カバンに入らないのにね。
ぼんやりとそう考えていたら、少女の口元に卵焼きが突きつけられる。見れば、少年が実に見事な箸使いで少女にそれを差し出していた。
ぱくりと一口含めば、なぜか母親が作った卵焼きの味がする。
涙が零れそうになるのを、少女は上を向いて堪えた。
知るたびに、この少年に惹かれて。
自身の心の暗さを見るたびに、この少年を殺してしまいたくなる。
しょせんはエゴ。少女のわがまま。
「こんな世界、来たくなかったのに」
「こんな知らない世界で、誰にも看取られずに死にたくなかったのに」
少女の闇は、死んだ後もなお暗い。
ピーピーと、無機質な音がする。
あの日自殺した少女は、人工呼吸器を付けられた状態でベッドの上に横たわっていた。
その横で手を握るのは、少女のことを愛した少年だ。
彼は、お金持ちの家に生まれたいわゆるところのお坊ちゃまだ。大人たちの醜い権力争いに疲れ果て、また絶望し、そんな中少女との逢瀬を果たした。
少女は、少年が唯一心から溺れた〝女〟だった。
「……ねぇ、起きてよ」
甘えた声でそう聞けど、少女から返事が返ってくることはない。
少女は一命を取り留めたが、目覚めるかどうかは分からないとされていた。
しかしだからこそ、彼女は今彼の手にある。
「でも、ある意味良かったのかもね。そろそろ僕は君のことを繋いで、閉じ込めてしまいそうだったから」
願いは叶った。少年の願いは成就したのだ。
今まで頑としてしてくれなかった口付けや抱擁も、今では当たり前のようにできる。
長く伸びた髪をいじり、少年は幸せそうに微笑んだ。
「大丈夫。君はずっとずっと、僕のもの……」
そして、イカれたふたりは夢を視る。
叶うはずのない、相反する願いを視つめて。