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死にたがりと殺したがりのグロテスク考  作者: 佐喜
死にたがり と 殺したがり
9/21

07. 死にたがり [4-3]


「ごめんねー、寒いなかつきあわせちゃってー」

「いいよー全然。吉良こそよかったの? わざわざ降りてもらって」

 別にいいんだよ俺はあ。へらっと相好を崩した吉良がくしゃみをひとつ。上着を羽織っている私だって寒いんだから、上着どころかマフラーすら着けていないその格好で寒いのはあたりまえだろう、と思って私は両掌を擦り合わせた。息を吐いてかじかんだ指先を温める。吐く息はすっかり白い。

 私たちは今、エヌ駅のホームに設置されていた石膏ベンチに座っている。

 辺りはすでに薄暗くなっていた。今何時なんだろう、そんなに経ってはいないと思うから、だいたい五時すぎくらい? 五時半? どうでもいいか、時間なんて。鞄から取り出しかけた携帯電話を中に押し戻して思考を中断、代わりに私はホームを軽く見渡した。

 寂れた住宅街にあるこの駅でも利用するひとはそれなりにいる。この時間帯に駅にいるひとたちは会社や学校帰りで自宅へ戻ろうとしているのではなく、今からどこか繁華街――もっぱらエス駅方面だ――へ出かけるのであろう。予想は大方当たっているはずだ、エヌ駅付近は本当に見渡す限り家、家、家ばかりで会社や学校なんてほとんどなかったので。

 まあそれはさておき、ホームには結構な数のひとたちが並んでいる。年老いたひともいれば中年のひとも、若いひとも、私たちとそう年齢の変わらない学生も、さまざまな人間がいた。そして思う。

 浅く広く見回してみても吉良はやっぱりとても目立っていた。彼はいろいろな個性を持った人間たちに埋もれず、まるで宝石のようにきらきらと輝いている。奇抜な髪色や派手な装飾品というある意味武器を抜きにしても、吉良は本当に、本当に人目を惹くすべてを得ていた。もうこれは羨ましいどころではない。生まれ持った才能、天賦の才だ。それに比べ私のこのなんともいえない平凡さ。没個性。天才と凡人の差というものが身に染みる。ああなんて情けない、隣にいる彼はその名のとおりこんなにも輝いているのに、私は路傍に転がる石そのものだ。まったく親の命名どおりに生きられていない。

 いいかげん飽きてしまいたいほどの鬱屈さがまたもや私を襲う。いやしかし、今回ばかりはそれを押し留めなければいけない。今私は吉良と話をするためにこうしてここにいるのだから。この場限りは、このときだけは、いつもみたいに死にたくなってはいけない、死にたくなりにきたのではない、目的を見誤ってはいけないのだ。


「……あの、朝は……ごめんね」

 意を決して私は切り出した。ベンチが氷のように冷たい、もぞもぞと尻を動かして体勢を整える。

「へっ? なにが?」

 すんと鼻を鳴らして、驚いたように吉良が目を丸くした。しまったこの話題を挙げたのは失敗だったか。そうであっても一度言い出したものをいまさら取り止めるのはできない、後悔しながらも私はひどく歯切れ悪く、続ける。

「いや、ほら……私がさ、あの、昨日ね。この……うん。まあ、それで吉良に嫌な思いさせちゃって」

 まとまりのない私の台詞に眉を寄せ、吉良がうーん?と唸った。なんのことか本当にわからないようだ。あの、だから、これ。言って私が自らの首元を指差すと、ああ、と唇をすぼめて吉良が笑んだ。

「あ、あー……あー! そのことね、もー井田ちゃんってばしつこいんだからー。もういーんだって、そのハナシは終わり! はいおしまい! 忘れよ忘れよ」

 だからそのことはもう口にするなとでも言いたげに吉良が掌をひらひらと振った。なんだかかえって不快にさせてしまったような気がしたが、しつこいと言われた以上さすがに詫びることはできず、私は心細く頷いた。

 不安である。本当に、吉良の言うとおり私は人に嫌われるのが怖いのである。その恐怖心ばかりが先行してしまってうまくコミュニケーションがとれない。偽りの自分でしか人と触れ合えない。私の裏側を知っている吉良にすら、今までどおりの『私』でしか接することができない。そんな惨めな私を吉良はいったいどう感じているのだろうか。吉良は、いったいいつまでどこまで『吉良』であり続けられるのか。

 列車が来て、行った。扉から吐き出されたひとたちが改札に続く階段を降りていく。人が入れ替わって、喧騒が遠のいた。

 エヌ駅には十分ごとに普通列車が停まるが、その合間に特急列車が一本通過する。あと数分もしたらものすごい速度でここを通り過ぎていくだろう、それに万が一轢かれたら即死するなと私は脈絡なく考えた。実際に特急列車による人身事故もとい飛び込み自殺はとても多い。だってそうだ、時速百三十キロで走行する金属の塊に撥ね飛ばされて生存できる確率なんて極端に低いからだ。だから死にたいひとはみんな特急列車を狙う。そして毎朝かなりの頻度で遅延が起こり、その都度証明書が発行される。そのせいで私も何度か立ち往生したことがあるし、自身が乗っている列車で自殺に遭遇した経験もある。現場に直接立ち会ったことはないが、うっすら残る紅い痕跡を遠目に見たことだって、ある。

 自殺手段の上位三つに入る(あくまでインターネット情報、にすぎないのだけれど)鉄道自殺、その方法を実行したら私はどうなるのだろう。間違いなく死ぬだろうか。奇跡的に生き延びてしまうだろうか。わからない。試したことはない。なんだかんだ言って、私はまだ首吊りしか試したことがない。

 じゃあ今ここで行動に移してしまおうか。吉良のまさしく目の前で、線路に飛び込み死んでしまおうか。たぶんぐちゃぐちゃになるんだろうなあ、損傷が激しいって聞くし。汚くなるのは嫌だなあ、グロテスクなものを吉良に見せつけるのも申し訳ないし。ああでもほら、タイミングよく特急列車が近づいてくる。至極簡単なことだ、線路にむかって飛び込むだけだ、なにもかも放り出して、走っていってしまえばいいだけの話だ。

 死んでしまおうか。生きてしまおうか。死んでしまおうか。もう、いいかも。なにが? わからない。けど、もういいのかもしれない。

 ほら、なにもかも捨てて、ほら、重い腰を上げて、――

「俺、ずっと考えてたんだ」

 刹那びくっと私は跳ね上がって、「え?」と不安定な声音を洩らした。冗談抜きで心臓が口から飛び出てしまったのかと思うほどに、半端なく驚いた。どろどろと濁った思考に溺れていた私を現実に引き戻した声の持ち主は、遠い目をしながら私に語りかけ始める。彼が話すたびに溢れた二酸化炭素が藍色に染まりゆく空を背景に、白く浮かび上がる。

「俺にとっての『汚いもの』ってなんだろう、って」



 井田ちゃん、俺はね。

 井田ちゃんも知ってのとおりオベンキョができないからさあ、あんまり物事を深く考えられないんだよね。複雑なものとか、だめなんだよね。ああたとえて言うとね、『中立』ってとても難しいことだと思わない?

 賛成か反対か。敵か味方か。善か悪か。生か死か。綺麗なものか汚いモノか。そして、白か黒か。分けようと思えばなんだっていくらだって正反対に立場を分けることができるよね。でも、中立はそうじゃない。中立は、賛成でもあり反対でもあり敵でもあり味方でもあり善でもあり悪でもあり生でもあり死でもあり綺麗なものでもあり汚いモノでもあり――なんだよ生でも死でも綺麗なものでも汚いモノでもあるって。ありえねえ。ん、ああごめんね、とにかく――白でもあり黒でもあるんだ。灰色、だよね。どちらかに分けられない、二分なんてできない、すべてが混ざり合った存在。一方に肩入れしない存在。あくまでど真ん中。だからなろうと思えば白にもなれるし黒にもなれる。自由なんだ、中立は。

 でもだからこそ、俺はそれをずるいと思うし、とても複雑だと思う。だってそうじゃない? 白と黒は初めから「そこ」に割り振られているのに、中立は思うままに行き来できるんだよ? スタートラインが違うんだ。灰色は薄められれば白になれるし、濃くされれば黒にもなれる。二分されていない。それって中立の特権だよね? じゃあその自由な立場以外にいるひとはどうなる? 決められた世界でしか生きられない哀れなやつらは、どうなる? 少し近づけば中立が目の前に見えるのに、でも自分の位置から一歩も動けなくて、あっちに行ったりこっちに行ったりする中立を歯痒く見つめ続ける。それってどう? ずるくない? ただ同時に、一箇所に留まることのできない中立を難しいやつだと感じない?

 俺たちは居場所がある、けれども中立にはそれがない。俺たちは単純明快だ、けれども中立は複雑怪奇だ。ややこしくない? 白か黒かどっちかに居座るほうが到底楽だと思わない? 俺はそう思うんだ。

 だから俺は中立なんてものはいらないと思う。白か黒か、でいいじゃん。なんでも二分するほうが楽じゃん。生きているか死んでいるか、綺麗か汚いか、そうやって見たままに分ければ、みんな揺らぐことなく自分の居場所を築けると思うんだよねえ。



「――ああごめん、また話が逸れちゃってたね。俺の悪い癖なんだ、すぐ変な方向にいっちゃうの」

 鼻の横を人差し指で掻いて吉良がはあっと大きく息を吐いた。白が再び生まれ、すぐさま消える。能天気な吉良にはおおよそ似つかわしくない難解な内容に私は呆気に取られ、ぽかんとまぬけに唇を緩めた。なんというか、こう、哲学みたいに感じてしまう。中立がどうのこうの。汚いもの?がなんとやら。よくわからない、理解しがたい。

「……ごめん、正直よくわかんない」

「あはは、井田ちゃんにはちょーっと難しすぎたかなあ? まあいいや、悪いけどもうちょっと聴いててよ」

 吉良が言い終えると同時に特急列車が目前を通過した。激しい風がホームに直撃する。それをやり過ごして、さて、と吉良が仕切りなおした。私は無意識に下唇を噛む。

「まだ脱線してるけど勘弁してね。俺はたまに考えることがある。たまに、はおかしいかな、最近ずっと考えてたし。なんにせよ必死で考えるんだ。じゃあ俺にとって、二分されていないもの、すなわち中立、中間ってなんだろうって。

 そんなもんこの世にありふれてるよねー、価値観の線引きなんて個々で勝手にやっとけばいい。境界線なんてどこにもない。曖昧かつ明確なシルシなんて見つけるほうが難しい、そう逆に、確実に真ん中じゃないものを探すほうが困難だ。って思うだろ? じゃ、ないんだよなあそれが。俺にとってはさ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そこでいったん、言葉を切った。吉良の目線がすい、と動いて左斜め前に移る。つられて私もそちらへ首を擡げて、私たちのほうへ近づいてくる女の子の姿を認めた。

 私は一瞬身構えたが、私たちと同年代の、私の知っている公立高の制服に身を包んだその子はなんともない動作で静かにベンチへ腰を下ろした。

 そう、女の子はただベンチに座っただけだったのだ。また私の自意識過剰だった、彼女に申し訳なく思って私は正面へ視線を戻す。吉良は私を挟んで、自分のふたつ左隣に座った女子高生を少し見つめていたけれど、すぐさま私と同じく顔を前へ向けた。言った。

「まあつまりはさー……意味わかる?」

 っていきなり訊かれても。混乱した私は額に手を当て、ゆっくりと答える。

「え、ええっと。えーとだから、普通は……なんていうか、境界線のないもの?」

「うん」

「曖昧なもの? 中立とかがあたりまえ? なんだけど」

「うんうん」

「でも吉良はそうじゃなくて。つまり吉良は、なんでも物事をふたつに分けたい、ってこと? 白か、黒かのどっちかはっきりと」

「せーえかあーい。やるじゃん井田ちゃん」

 指を鳴らして吉良がにこっと微笑んだ。そのまま綺麗な声を紡ぐ。

「だからね井田ちゃん。ふたつに分けられていないもの、どっちつかずのもの、いろいろと混ざり合ったもの。ごちゃごちゃしたそんなのが出てくると俺はとてつもなく混乱する。わけがわかんなくなる。頭がおかしくなりそうになる。俺は馬鹿だからねー、簡単なことしかわかんないんだあ」

 どこか投げやりに吉良が言葉尻を濁した。その話の内容は相変わらず私には理解不能で、だって中立とか二分とか普段はそんなこと考えたこともなかったし、意識したこともなかったし、でもなぜか私は首を小さく縦に振った。彼の深い部分を垣間見たような気がして、私はわずかに嬉しくなったのだ。

 反面、こんなところで露わにする中身だろうかとも思った。というのは、さっきから私の左隣にいる女子高生がちらちらとこちらのようすを窺っているのが視界の隅に入っていたからだ。まあたぶん、「かっこいい男子高生」の存在がたんに気になっているだけなのだと思うけれど、なんとなくここでしないほうがいい類の話なのではないかと思ったのだ。それは直感のような、嫌な予感のような、本当に取るに足りない、些細なことではあったのだが。


 私たちがエヌ駅で降りてから目にする二本目の普通列車が到着し、乗客を吐き出して、再び去っていった。いったん人の波が引いて、ホームに立ち並ぶ人がまばらになる。そこであれ、とふとした疑問が脳裏を掠めた。

 普通列車が来て、そして行ってしまったというのに隣の女の子はまだベンチに座ったままである。両拳を膝のうえで綺麗に揃えて微動だにしない。この駅に特急は停まらないのになあ、誰か待ってるのかな。それとも次のやつに乗るのかな。お節介にもそんなことを考えて、私はちらっと、瞳だけを左へ動かした。

 私の視線に気がつかず、女の子は綺麗に背筋を伸ばしてひたすらに前方を見つめていた――正しくは、見据えていた。彼女は薄い唇を真一文字に引き結んで、きりっとした眼差しを線路のむこうへ投げかけている。ストレートの長い黒髪がよく似合う、おとなびた、儚げで綺麗な女の子だった。

 ……あんまり見ないタイプの美人。純粋に感じたのと重ねて「井田ちゃん?」図らずも呼びかけられたので「あ、はい」と私は咄嗟に返す。吉良が愉快そうにこちらを覗き込んで「続けていい?」と問うた。どうぞどうぞ、一笑して私は上半身を右へ、吉良のほうへ捩らせる。左の女の子に、背を向けた。

「そ、ん、で」

 いひひと笑って吉良がわざとらしく一音ずつ区切った。「やあっと話は戻るよ。最初に言ったこと憶えてる? 『俺にとっての汚いものってなんだろう』」

 うん、憶えてる。神妙に頷いて、私は吉良の真ん丸い双眸をじっと見つめた。

 吉良の瞳がみるみるうちに半月の形へ変化していく、その下のあひる口が吊り上がっていく、吉良が穏やかに、それでいて深く深く表情を綻ばせていく。

 綺麗な笑顔だった。もう何回見たかなんてわからないほどの、綺麗な笑みが満面に湛えられた。

 あのね、それはね。内緒話をするかのように声量を下げて、声を潜めて、吉良が、私に告げた。


「俺にとっての『汚いモノ』は。

 きみだよ、井田ちゃん」



 …………

「え?」



 唐突に右腕に強い圧力を感じ、私は顔を歪めた。それも束の間、ものすごい力で腕ごと身体が引っ張り上げられ、私は無理矢理立ち上がらされる。勢いのまま顔を上げた。

 ……吉良だ。

 私の右腕をぎりぎりと掴み、吉良がにこにこと微笑んでいる。膝のうえに載せていた鞄が遅れてどさりと落下した。ベンチの女子高生が息を詰めたような気がした。私は驚愕に目を見開いて、穴が開くほど吉良の顔を見つめた。吉良は、楽しそうに笑っていた。

「井田ちゃんは生きてるのに死んでるみたいだよね」

 有無を言わせず吉良がずるずると私を引き摺っていく。転がった私の鞄なんかに目もくれず、一心不乱に私をホームの際まで連れていく。私はなすがままになっている。これは今朝起こったできごととまったく同じだった。私が昨夜首を吊ったことに気づき怒った吉良に廊下まで強引に連れ出されたそのときと、まったく同じ光景だった。

 あのときの吉良は間違いなく私に対して怒っていた。笑っていなかった。しかし今の彼は、この瞬間の彼は、笑っている。微笑んでいる。楽しそうに、笑っているのだ。

「あーおかしいおかしい。おかしいよねえ、ぱっと見はちゃんと生きてるのによくよく見るとまるで死んでるようだなんて。おかしいよねえありえないよねえ矛盾してるよねえ生ける屍って。おかしいじゃんそんなの、二分されてない。さっき俺が言ったでしょう中立はありえないって」

「え、ちょ、なに? 吉良っ」

 狼狽して私は吉良の背中に呼びかけた。吉良は振り向かず、若干声調を荒げて早口に言う。

「特急に撥ねられて無様に死ぬか無様に生き延びるか。どっちもどっちだ、そう変わらない。どちらにせよ無様だ。そう思うだろ? だったら結果なんて気にせず行動に移しちゃおうよ、潔く飛び込んだらなにか新しい世界が見えるかもよ?」

 そこでようやく立ち止まった彼が振り返り、ぬっと左手を伸ばしたかと思うと――どん、と右肩を思い切り突かれて私はつんのめった。

 気づけば私は白線の外側に飛び出していて、あと数歩で線路に転落してしまいそうなところまで、本当にホームの際の際に立っていた。なんとか踏ん張って暗闇に沈んだレールを、敷き詰められた砂利を、まるで奈落の底を覗くかのように、私はそこから見下ろした。

 ごくりと唾を呑む。からからに干乾びた喉が痛い、なにか言葉を発しようと闇雲にもがく舌が縺れる。足場が心許ない。頑丈なコンクリートが今にも崩れ落ちてしまいそうな錯覚に襲われる。急激に膝が震えてうまく立てなくなる。

 あれ、どうして。どうして私は、こんなに寒いのに冷や汗をかいているのだろう。頬を紅潮させて、目をぐるぐると廻して全身をぐらつかせているんだろう。これは――恐怖? 違う、断じて違う、これは、これは……。


「どうしてそんなに怯えてるの?」

 身体の芯にすとんとはまるかのように、そんな問いかけがまっすぐに落ちてくる。いつのまにか背後に回った吉良が、私の両肩に手を置いて囁いていた。

「これが井田ちゃんの望んだことでしょ? 井田ちゃんは死にたいんでしょ。死にたいんだろ? だから俺が手助けしてやるって言ったじゃん。死ぬ恐怖を味わって生存本能を目覚めさせる云々なんて言い換えればこういうことだよ。だって井田ちゃん首吊ったくせに生きてんじゃん。確実って言われてる自殺方法試してみたくせに、のうのうと生き延びてんじゃん。ぜんぜん懲りてないんでしょ? 死にたいっていう気持ちは変わんなかったんでしょ? そらそーだよ、恐怖を感じようがなんだろうがほんとに死ななきゃ結局はなんにもわかんないんだ。変わらないんだ。でも井田ちゃんは本気で死にたかったんだよね? 俺に殺されてもいいって言ってたよね? じゃあ今ここで死んでみせてよ。ほら、簡単だよ。線路に落ちればいいだけの話なんだから。首吊りよりよっぽど楽だし苦痛も感じないよ、たぶん即死だ。原形留めないだろーけどね。まあ生き延びたら生き延びたでそれもいいんじゃない、きっと激痛でのたうちまわるだろうから、二度と死にたいなんて思わなくなるだろうし。つーか死にたくないって必死こくかもね。芋虫みたいに這いずり回って。それだったらそれで万々歳じゃん、命のありがたみがわかるんだしさ。さっきも言ったけど、死のうが生きようがどっちに転んでもなにか得るものはあるはずだって。ああ心配しないで、井田ちゃんは独りで寂しく死んでいくわけじゃない。俺が両目かっぴらいてちゃんと見ていてあげる、井田ちゃんが粉々になっていく瞬間を。あーあと葬式の参列者だっけ、そんなのも心配無用だよ、俺絶対参列するから。ほらほらだーいじょうぶだよ、井田ちゃんは孤独に逝っちゃうわけじゃあないんだからー、さっ!」

 さながら激励のごとく、吉良が掌を上下させて私の双肩をばしばしと叩く。しかし私は一歩も動けないで、彼の鷹揚な物言いをただただ聴いていた。

 吉良の言葉が私の脳を揺さぶる。ぐるぐるぐるぐる、ただただ彼の呑気な声色だけが脳内を駆け巡る。ぐるぐる、ぐるぐると。

 私は一歩も動けない。吉良が私の肩に両手を掛けたままにやにやと笑っているのを、雰囲気で悟ることができる。私は一歩も動けない。そうこうしているうちにホームに再び賑わいが舞い戻ってきたのが、そこかしこで聞こえる人々の話し声から理解できた。人が増えてきた。白線を越えたホームの際という危険極まりない場所に突っ立っている高校生の男女を、周囲が怪訝な面持ちで一瞥するのがなんとなくわかった。視線が突き刺さる。それでも私は一歩も動けない。動けるはずが、ない。

 ……まもなく三番ホームを列車が通過します。ホームでお待ちのお客様は、白線の内側に……場違いなアナウンスが頭上に備え付けられたスピーカーから反響する。特急だ、特急列車がここを通過する。私の肩を掴む吉良の掌にぐっと力がこもった。軽く線路のほうへ押し出された。「さーここが正念場だよー井田ちゃん。有言実行。女は度胸。女の意地。あとなんだっけ? どーでもいっか。さ、頑張ろう。勇気の見せどころだね。だいじょうぶだいじょうぶ、俺がちゃんと見といたげる。一生憶えていてあげる。俺グロ耐性ついてるからだいじょーぶ、俺は気にしないで一気に飛んじゃって」。すらすらと高らかに謳う吉良の顔は一切見えない。

 あ、あ、特急。特急列車のやってくる音が。ごおお、と耳鳴りに近い音が接近してくる、空気が一気に膨張する。ぶわっと広がる熱気、空気、突っ張る私の膝裏の筋。重心が前へ前へ引っ張られる。そのまま線路へ、黒い闇の底へ堕ちていきそうになる。


 私は、死ぬのか? 自らへ問うた。私はここで、死ぬのだろうか? 私は怯えているのだろうか? 『怖い?』。誰かが問う。ううん、怖くはない。だってこれは、たしかに私が望んだことだから。私はずっとずうっと死にたいと願ってきたのだから。『じゃあ彼の言うとおり死ねばいいじゃん』。そのとおり。吉良の言うとおり。ではなぜ私の足は動かない? なぜ私は全身で拒絶している? なぜ私は躊躇している? ためらっている? これは恐怖ではない、ではなぜ? なぜ私は、死のうとしない? 『本当は死にたくないんじゃない?』。また誰かの声。そうなの? 私は死にたくないのかな? ううん違う、だって私は死んでしまいたくて、もう『私』をやめてしまいたくて――ごおおお、さっきより大きくなった轟音。もうそこまで、本当にすぐそこまで列車がやってきている。簡単だ、この固まった脚を投げ出して飛んでしまえば。あっけなくミンチになる。死ぬ。確実に死ぬ。死ぬ。死ねる。死ぬことができる。

 じり、と私の足が一歩、前に出た。茶色いローファーに包まれた爪先が、動いた。それに伴って吉良の両手がすっと私の肩から離れる。

 私は今や自由だった。

 深呼吸して、私は俯いていた顔を上げた。正面には左右に伸びた線路と、一定間隔で植えられた木々と、大小立ち並ぶ家々と、そのむこうに広がる国道が見える。陽は沈んでしまって、あとは完全な夜がくるのを待つだけだった。迫ってきた振動で、足場が小刻みに揺らぐ。それはもう数十秒も経たないうちに列車がエヌ駅を通過する証拠だった。

 失敗は許されない。絶対に、撥ねられなければいけない。

 ひとりでに頷いて、私は線路へ降りようと前屈みになった、刹那。


「……あのう」


 消え入りそうな声とともに左横からなにか黒い塊が突然現れ、私はぎょっとしてそちらへ目をやった。

 反射的に後退したので背中が吉良にぶつかったが、吉良はなんなく私を受け止め、私と同じ方向を見やった。動揺を隠して私は手元に差し出された塊を凝視する。なんてことのない、それはついさっき地に落とした私の鞄であった。

「これ。落ちましたよ」

 ぶっきらぼうにそれだけ述べたのは、先ほどまでベンチに座っていたであろうあの女子高生だった。

 彼女が押しつけるように手渡してきた鞄を慌てて両腕で抱え込み、「す……すみません、ありがとうございます」と私は会釈する。だが女の子はふいと視線を逸らして線路へ向きなおった。能面のように感情が欠落したその顔には、ベンチに並んでいたときとはうってかわって、あたかも幽霊のように生気が見られなかった。まったくの別人である。けれども一種の覚悟のようなものがその瞳の奥にはたしかに存在していることに、私ははっきりと気がついたのである。

 そのときホームが今までになく激しく揺らぎ、私ははっと我に返った。まずい、完璧にタイミングを失った。決意が一気に殺がれた。あれほど心を決めたのに、この一瞬のずれですべてがゼロとなったのだ。魂が急激に抜けていくような気がして、私はせっかく受け取った鞄をもう一度取り落とす。隣に立っている女の子がわずかに瞼を伏せて鞄を見下ろし、次いで私を見た。

 奇妙なほどゆっくりと流れる無音の空間で、列車が迫る音だけがどこか遠くに響いていた。私はただ、その警鐘だけを、聴いていた。

 少女は黙って私を見つめていたかと思うと出し抜けににこりと微笑んで、なにかを呟いた。

 特急列車がやってくる。鼓膜を劈く騒音が、やってくる。彼女の声は吉良には聞こえなかったと思う。きっとすぐ傍にいた私にしか届かなかったのだと、思う。「特急、来ましたね」。彼女はそう呟いた。そう、地響きと轟音の嵐に眩暈を覚えながらも、私の聴覚はその美しい声音を認識していたのだ。

「お先に」


 ――そして、

 美しく、ひどく美しく微笑んだ少女が宙を舞った。


 すぐ左隣からゆっくりと線路上へ飛び込むその姿を、私の眼は正確に捉えていた。長い黒髪が、まっすぐな黒髪が四方に伸びて夜の闇に融けていくのを、私は茫然として眺めていた。

 あらゆる景色がスローモーションで流れていくなか、倒れゆく少女と私の瞳がたしかにかち合って、彼女は最期にもう一度だけ、にこりと笑った――のかもしれない。目前に姿を大きく現した特急列車が鳴らす警笛が、急ブレーキのかかる激しい音が、誰かの悲鳴が、「危ない!」という怒号が、とにかく音という音すべてが駅全体に轟いた。それは聞くに堪えない不協和音、であった。私は思わず耳を塞ぎかけて、だけれどそれよりも早く少女に接触する白い車体を、目撃した。


 ――あ――。


「……いっ……ぎゃあああああああああっ!」

 どんっ、ぐしゃ、ごしゃ、ばきっ、がりがりがり。喩えようのない、聞いたこともない歪でグロテスクな音と、おそらく女性の絶叫が響き渡ったのは、それからコンマ秒遅れてのことだった。

 真っ白になる頭をなんとか稼動させて、私は事実を呑み込む。……女の子が特急列車に轢かれた。

 飛び込み自殺を図ったのだ。


 絶え間ない悲鳴、怒号、呻き声、警笛、吐瀉物をぶちまける醜い音。一瞬にして阿鼻叫喚の地獄と化した駅ホームで、私はへなへなと崩れ落ち――かけて、なんとか持ちこたえる。持ちこたえたものの、恐ろしい吐き気を覚え、口元を両手で必死に覆った。

 ひどい、ひどすぎるにおいが充満している。生臭い、腐ったようなにおい。嘔吐しそうになるのを堪えて、急停止した列車を睨んだ。白い車体の前方部分が鮮やかな紅で塗装されている。ペンキをぶっかけたと言っても過言ではない、尋常ではない血の量だった。血液だけではない、紅に混じって黄色い油のようなもの……あれは、脂肪? そんなものまで、べっとりとこびりついている。

 ぐっと視線を引き剥がして私はえずきかける。巨大な金属に吹っ飛ばされた女の子の身体はどこにも見当たらなかった。女の子が履いていたらしき黒いローファーが片方だけ、私の足許に転がっている。彼女が持っていたらしき荷物がそこらじゅうに散乱している。ではそれらの持ち主は? 一瞬で木っ端微塵に? 大気中に霧散?

 ――な、わけがない。考えるまでもなかった。女の子は、女の子は()()()()にいるのだ! 目撃してしまったものをなかったことなんかにできるはずがない! 私はしっかりとこの目で見たのだ、あの子が撥ね飛ばされ、地に落ちながら、車輪に巻き込まれていく無惨な姿を! そして聞いたのだ、全身が細切れにされていく、轢き潰されていく瞬間の、あのおぞましい音を!


「……あーあ」

 右隣から落胆した声と、次いで吐き出される溜め息。私は口に両手を宛がったまま、凄まじい形相で吉良を睨めつけた。しかしながら吉良は顔面蒼白で鋭い目つきをしているであろう私を目の当たりにしても、きょとんとした面持ちで「うわ井田ちゃん顔真っ蒼だけど。だいじょぶ?」と呑気に訊ねてくるだけで、それは動揺も、嫌悪も、驚愕も、なにも感じ取れない、まったく普通の、まさに落ち着き払った態度であった。

 私は愕然とする。どうしてそんなに「普通」なの? 少しも驚いていないのは、なんで?

 吉良はにこりと笑った。足元に散らばっている教科書や鏡やハンカチなど、女の子の荷物を避けて歩を進め、ひょいと私の鞄を拾い上げる。私の鞄を片手に首を傾げ、さも残念そうに言った。

「先、越されちゃったね」


 寒気が、走る。

 おもしろくもないのに半笑いになって、長い沈黙のあと私は「……は?」と、それだけ洩らした。やれやれと首を竦めて吉良が笑む。

「あーあーまじ残念。でもあのこ死にそうだったもんねー井田ちゃんも気づかなかった? ベンチに来たときにさ、一目見てわかったよああこいつは自殺するな……って。目も虚ろでさーふらふらして危なっかしくて、なーんか幽霊みたいだったし」

 吉良が普段と変わらない調子で、軽快に言葉を紡いだ。一歩二歩、放心状態の私に歩み寄る。私の右手を取って、鞄の肩紐を握らせる。右手に痺れるような重みが走って、がくんと肩が下がった。糸が切れた操り人形のようにだらりと鞄ごと右手を垂らす私を見て、吉良が何度も笑った。何度もいひひ、と聞こえた。

 眩暈がする。頭痛がする。吐き気がする。

 吉良は微笑んだままホームの際ぎりぎりまで近づき敬礼のように手を額に掲げて、その下を覗き込んだ。おおーと感嘆の声を上げた。

「やべえ、すげーグロい。写真撮ろっかな。井田ちゃんも見る?」

 どうしてそんなことが言えるのだろう。

 吉良が、わからない。吉良は吉良のままだった、それでも彼は彼じゃなくなっていた。私は私のままなのに、私じゃなくなっているような気がしていた。目がちかちかする。視界に火花が散っている。

 ……眩暈がする。


「……なんで?」

 離れて、離れてください! やってきた駅員に吉良が押し退けられた。不満そうに唇を尖らせる彼に、私は問う。吉良がこちらを顧みて、はあ?と厭な笑みを浮かべた。

 近づかないで、そこ、どいてください! 列車に集まり始める野次馬を引き剥がすのに必死な駅員たちが、ついでに近くにいた私も突き飛ばした。コンクリートに強か尻を打ちつけ衝撃で目が霞む。その場に尻餅をついた私へ、吉良が手を差し伸べた。今朝学校で私が吉良に手を差し出したそのときと、状況が酷似していた。

 しかし私はその手に掴まらずに自力で立ち上がって、吉良を見た。吉良が眉根を寄せて私を見据えていた。「なんで?」再び訊く。

「なにが?」吉良が顰めっ面で返す。

「な、なんでよお……」

「だからなにがだよ?」

 やり場を失った掌を下ろして吉良が後頭部を掻いた。あからさまに不機嫌になっているのが手に取るようにわかったが、そんなのはまったく気にならなかった。私は興奮していた。私は泣きそうになっていた。まったく、わけがわからなかった。

 なぜあの女子高生は自殺したのか。なぜ彼女は死ぬ間際に私に声をかけたのか。なぜ、私を「引き留めた」のか。なぜ吉良はあんなにも涼しい顔であんなことを言えるのか。なぜ彼はあのこが自殺することに気がついたのか。なぜいきなり自分自身の価値観を持ち出したのか。なぜ私を自殺に導こうとしたのか。なぜそんなにも笑っているのか。

 なぜいつもと同じ、一寸も変わらない吉良のままであり続けられるのか。


「なんっ……き、吉良、なん、な……なんでえっ……!」

 なにに対しての『なぜ』なのか、私自身にもよくわからない。

 それでも私は、なぜ、どうして、なんで、それだけを吐き出すのがせいいっぱいで、それ以外に言葉が見当たらなくて、だだをこねる子供のように、必死に繰り返した。吉良に到底わかるはずもない、見当違いの問いかけも零れ落ちる。

 どうしてだろう? すべてに対しての疑問が一気に溢れ出す。今まで抱いていた吉良への違和感が止め処なく流れ出る。どうしてこんなことになったんだろう。私は吉良と話し合おうとしていた、でもいったいなにについて? 意味のわからないこの関係について? 吉良と私を隔てる壁のようなものについて? 吉良の根底に横たわる「なにか」について?

 私が知りたいのはいったいなんだったのか。私が理解したいのは吉良の『なに』だったのか。私はいったい誰に、なんでと問い続けているのだろうか。いったい、なにに対しての問いかけだったのだろう。

 私自身のことさえなにもわからないのに、吉良のことをわかるはずがない。


 私がなにを訊きたかったのか、吉良にだってわからなかったはずだ。それでも彼は困ったように微笑んで、けれども抑揚のない声音で、答えた。

「――さあ? 俺だってなにがなんだか。そーだねえ、もうなーんにもわかんねーや。

 ……わかりたくも、ないけどね」


 遠ざかる彼の声。どこか遠くで、彼らしくないあの笑い声がこだまする。

 レールが軋んでぎいと音を立てた。ひどいにおいと、騒がしさと、凄惨な血溜まりと。なにもかもに取り残されて、私は孤立した。

 寒気がしていた。彼の口から、私の口から生み出される白が浮かんでは消え、浮かんでは消えた。昏黒の空と対比してわき出る白が、彼の言う「白と黒」を思い出させた。

 眩暈がする。

 私は息をしている。生きている。呼吸は生きている証だった。徐々に冷えていく指先は、その身体に生物らしい体温があった証だった。私は生きている。しかし死んでいるみたいらしい。

 どうして生きているのだろう。どうして死ぬのだろう。なにもわからない。

 わかる必要なんてないんだよ、いつか聞いた吉良の台詞が巡る。わかりたくもないけどね、続けて声がする。

 眩暈がする。私は初めからなにもわかっていなかったのかもしれない。わかろうとさえしていなかったのかもしれない。わかろうとすることが、そもそもの過ちだったのかもしれない。


 ぐるぐると、吉良の笑い声だけが、その微笑みだけが私のなかを駆け巡り続ける。私はその不気味さに押し潰されそうになって、弱々しく頭を抱えた。頭痛がする。吐き気がする。寒気がする。

 ああどうしてなのだろう、眩暈が、する。


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