07. 死にたがり [4-2]
「考えてみたらさー井田ちゃんとこうして帰るのって初めてだよね」
ね?と吉良が軽く首を傾げて微笑んだ。そうだね、と相槌をうって、私も彼に微笑み返す。途端に強い風が吹いて木の葉が慌ただしく散った。さみーと背中を丸めてスラックスのポケットに両手を突っ込む吉良は、お馴染みのカーディガンしか身に着けていない。どうしてそんなに薄着なの、と訊くと彼は、着込むのがあまり好きじゃないんだと歯を見せた。
私は気づかれないように、隣を歩く吉良をそれとなく見上げた。
――近くで見ると、やっぱり本当にかっこいい。いろんな女の子がきゃあきゃあと騒ぎ立てるのがわかる。やや童顔で、まだ少年らしい幼さが残る彼の横顔はそれでもれっきとした男のものだった。私より背が高いといっても吉良はどちらかといえば小柄なほうだったし、がっしりとした体つきというわけでもなかったけれど、その骨ばった手や綺麗に伸びる筋は、私に「男」という存在を十二分に意識させた。無邪気にはしゃだりころころと楽しげに表情を変えたりする吉良は、たしかに誰よりもこどもっぽかったし精神年齢も低く見えるときがあった。しかしそんな吉良とて、りっぱなひとりの男なのである。私と違って、彼は男なのである。
そういえばこうやって男の子と一緒に帰ったりすることなんて初めてだった、と私は改めて思う。その事実が私の頬を紅潮させた。たかが男女で帰宅するくらいでなにを照れているんだろう。こんなこと普通なのだ、たぶん。単に私が恋愛経験ゼロなだけで、ほかのこや、ましてや吉良にとってはなんでもない、とくに意識することもないどうでもいいことなのだ。
それなのに勝手に意識して勝手に恥ずかしがって、私は本当にどこまでも、馬鹿馬鹿しい人間である。みっともない。そんな複雑な表情を悟られないよう、私はさらに深くマフラーへ顔をうずめた。
駅までの道中、私たちはとりとめのない話をした。不思議なことにお互い「あのこと」には一切触れなかった。とくに意味もない無駄話をつらつらと交わしていた。吉良と交わす雑談はとても新鮮で、いつも彼と話す内容がいかに普通ではなかったのかを私は思い知る。だってこのときの私たちは、普段と違って本当に普通の高校生だったと思えるから。
化学って眠いよねーだとか、最近寒くなってきたよねーだとか、来年受験生だよねーだとか。そんな、たいして意味のない話。未来の見えない、それどころか今まさに自殺を試みている私にはまったく意味のない話が多かったけれど、私はそれでも楽しかった。楽しいと、感じていたのだ。自分の悩みがちっぽけに思えてしまうほどに。それが錯覚だということは知らないふりをして。
「あっそうそう」
いったん途切れた会話のあとに吉良がふと呟く。「松岡がさー井田ちゃんと仲良くなりたがってたよ」
「え、松岡さんが? どうして?」
目を丸くして問うと、人差し指で頬を掻いた吉良がええ?と眉を寄せる。
「どうしてって……別に仲良くなりたいのに意味なんかないじゃん。あーでもあいつ、井田ちゃんのこと明るくて優しいよねーっつってたよ。よかったね、井田ちゃん」
いひひ、と久しぶりに吉良があの笑声を上げた。
明るくて優しい。私が? 松岡さんにはそう映っているらしい。それはかくあるべき姿として必死に周りに見せていた、理想の井田像そのものであった。私が私であるべき姿。そうあるべき姿。私はそんな虚像をつくって周りに笑顔を振りまいて、「明るくて優しい」井田という女になりきっていた。
松岡さんはそれを疑わずに受け入れてくれていたらしい。私の試みは成功しているといえる、しかし、どこかもやもやとした気持ちが残る。これはおそらく松岡さんを、周りを騙しているという罪悪感なのだ。偽物の私と仲良くしたがってくれている松岡さんへの申し訳なさ。そして、偽物の自分でしか周りと触れ合えない、私への情けなさ。仲良くしたいという言葉すら素直に受け止められない、気持ち悪い自分。
「あいつ馬鹿だけどさあ、悪いやつじゃないよ。まーけばいギャルだけど、中身は天然入ってるっていうか能天気っつーか」
「……吉良もひとのこと言えないよ?」
「お! 言うようになったねー井田ちゃん。それは見た目が? 中身が?」
軽口を叩きながら私たちは共に歩く。意外だ、自分がこうして誰かと笑い合っているなんて。吉良といると意外なことばかり発見してしまう。それははたしていいことなのか悪いことなのか、今の私にはわからない。わからない、けれど。
そこまで思考を巡らせて、はたと思いついた疑問を口にする。
「そういえば、吉良ってなんで私のこと井田ちゃんって呼ぶの? 呼び捨てでいいよー」
今やすっかりお馴染みになっている『井田ちゃん』という私の呼び名は、吉良が最初に言い出したものだった。私はクラスメイトにそう呼ばれている。あまり関わりのない松岡さんにも、いちおう属しているグループにも、それなりに多くのひとから。逆に言えば苗字ばかりで呼ばれ、名前で呼ばれることは皆無である。
「え、なに。下の名前で呼んでほしーの?」
にやついて吉良が訊いた。「そうじゃなくて。井田、でいいよ」と私は冷静に返す。松岡さんの話をしていて思ったのだ、吉良は松岡さんのことは松岡と呼び捨てにするけれど、私のことは井田ちゃんと呼ぶ。他のクラスメイトのことも苗字を呼び捨てにするのに、私は「ちゃん」と敬称をつけて呼ぶ。それは私にだけ、隔たりがあるように感じられた。
そりゃあ私なんかより他のひととのほうが仲がいいのだから、そっちに対してくだけた言葉遣いだったり遠慮のない呼び方だったりするのはあたりまえだ。そういう親密度を考えるとしかたのないことだろうけれど、他のひとと比べて吉良が私にだけ遠慮しているような気がして、私は少し嫌だった。至極どうでもいいことだとはわかっていたけれど、そんな些細なことがとてつもなく高い壁のように感じられて、私は厭だったのだ。井田ちゃんという呼び名が嫌というわけでは、絶対にないのだけれど。
「なんでかなー。他の奴とは違って井田ちゃんは『井田ちゃん』って感じなんだよね。あ、でも名前で呼ぶのもいいかなー。てか井田ちゃんの名前ってなんていうの?」
あんまり噛み合ってない会話は、いいや、この際おいておこう。吉良と話すといつもこうだから。一年から同じクラスなのにいまさら名前を訊くんだという問いもおいておこう。私は苦笑して言った。
「××っていうの」
「へえー。漢字は?」
私は口頭で漢字の説明をする。こう書いて、××と読みます。すると吉良はえっと洩らして一刹那黙り、困ったように笑った。続けた。
「……ごめん、なんか井田ちゃんらしくない名前だよね」
「……うん、自分でも思ってるよ」
それは本当に自分でも思う。名前の響きはまだしも(それでもなんだか私には浮いたような音に感じてしまうけれど)、漢字が絶望的に似合わない。両親は私がこんな性格に育ってしまうことを微塵も想像していなかったのだろう、それはそうだ、普通はそんなことを考えない。まさか娘が自殺願望のある人間に育つなんて、誰が考えるだろう。そんなことを考慮に入れて命名するだろうか。
「俺はねー○○っていうんだよ! 漢字はね、こうこう書いて。で、○○」
空中に見えない文字を書いて吉良が笑った。吉良の下の名前は知っていたけれど(別に普通のことだ、二年近くクラスメイトをやっているんだから)、改めてその名を聞いて私はなぜか納得する。名は体を表すという言葉そのまま。吉良らしい名前だった。○○という字面は吉良の性格にぴったりだと思った。
「そっか、○○っていうんだ。なんか吉良に似合ってるね。漢字も」
「実は俺もそう思ってたりー」
「自分で言わないの」
「××ちゃん」
「はい」
咄嗟に応えて私は身を硬くした。いひひと笑って滑らかに吉良が声を紡ぐ、「××?」。意味もなく私の名前を繰り返す。
「う、うん」
「××」
「ちょっともー、なに……」
「……××」
足を止めて吉良が私の顔を見た。
つられて私も立ち止まる。冷たい風が吹く、髪が顔にかかる、私はそれを払って吉良の顔を見る。
吉良の、奇妙な色の髪の毛が揺れている。目をわずかに伏せた吉良が、私をじいっと見つめている。その顔がまるきり男のものになっていて――どきり、と心臓が大きく動いた。
かと思えば途端に相好を崩して、吉良は言った。呼んでみただけー。
「やっぱり俺は井田ちゃんって呼ぶのが性に合うかな」
いひひと笑う。笑いながら、顎をしゃくった。私はそちらへ首を動かして、コンコースに吸い込まれていくたくさんの学生を目にする。いつのまにか、私たちは駅に着いていた。
◆
今日アイシーカード忘れた。ちょっと待って、俺切符買うから。そう笑って吉良が券売機へ走っていく姿を私は見送る。切符を買うなんてほら、バス通学じゃない。そう確信する。もしかしたら本当にカードを忘れただけかもしれないけれど、これ以上いろいろと考えても無駄なので、このことはいったん横へ追いやることにした。
この時間帯は周辺の学校の下校時刻なので、列車内はとても混む。私が柱に寄りかかって吉良を待っている数十秒のうちにたくさんの学生たちが改札を通っていった。うちの高校の制服を着たひとが大半だったけれど、ほかに、近くの公立高や私立中学の制服らしきひとも多い。私服の大学生たちもちらほらと紛れている。特急列車は満員になるだろう、私が降りる駅は普通列車しか停まらないのでいつも比較的空いているけれど。
「お待たせー」
切符を片手に吉良が戻ってきた。改札を通り、短い階段を上ってホームに向かう。依然として風が強い。歩きながら私は吉良に訊いた。「吉良の最寄駅ってどこ?」
ホームに着いて吉良はうーんと首を捻った。「こっからだとたぶん……エス駅かなあ」あやふやな口調で答える。やっぱりほとんどジェイアールに乗らないんだね、とちらっと思って、私は鞄の肩紐を握りしめる。笑った。「エス駅なら特急も停まるよ。私はエヌ駅だから普通しか停まらないの。電車は別々だね」
まもなく、二番ホームに列車が参ります。そのとき駅構内にアナウンスが反響したので、私は電光掲示板を見上げた。エヌエー行き特急、の文字が流れる。吉良が乗る列車だ。私は視線を上げたまま平静を装って、幾分早口で彼に告げた。「あ、もう特急来たよ。じゃあ私次の普通に乗るから、ここで――」
「あのさあ」
途端、刺すような声が私の声を遮った。
びくりと肩を揺らして私は首を下げる、右へ捻る。吉良がまったくの無表情で私をじいっと見つめていた。違う。ただ、見ていた。
吉良がただただ私を静かに見ていた。彼の瞳が私をしっかりと捕らえていた。なんの感情も残さず、無機質に、機械的に、冷徹に、彼は私を見ていたのだ。
しかしその眼にある種の熱が宿っているのを私はたしかに視た。
熱に浮かされたような丸い大きな瞳が、たしかにそこにはあった。冷えきった眼差しとは裏腹に、隠しきれない「熱」が吉良の双眸をたしかに覆っていた。
私は息を呑んで一歩後ずさる。静寂がこの場を支配する。ざわざわと喧騒が私たちを取り巻いている、ごおおと列車が駅に近づく轟音が聞こえてくる、それなのに、この狭い空間だけがひっそりと静まり返っていた。それはまるで、吉良と私の不可思議な関係を示しているかのような、皮肉に満ちた静けさであったのだ。
縮こまる私をよそに、井田ちゃん、と呟いて吉良がはにかむ。その瞬間にはもう先ほどの無表情は消え失せ、「いつもの」吉良がそこにいるだけになっていた。目を瞬かせて私は吉良を注視する。
いつもどおりの吉良だ。私が知っている、少なくとも普段と寸分違わない吉良である。そう認識すると同時にどっと汗が吹き出たのを私は他人事のように感じた。鼓動がばくばくと激しく胸を叩く、私は間違いなく吉良に怯えていたのだと、思う。
「さっきからなんでそんなに俺を避けようとすんの? 俺と一緒にいるの嫌なの?」
にっこりと温かい微笑を広げて吉良が訊いた。
私はなぜか呼吸を乱して勢いよく首を振る。必死に否定する。違うの、吉良といるのが嫌なわけじゃないの、ただ、私が勝手にきまずく感じているだけで、どうしてか吉良を「怖い」だなんて思ってしまって、本当にそれだけで。だから吉良が悪いなんて絶対にありえなくて、ただ、私が勝手に、私の勝手な思い込みなだけで――しどろもどろに言い訳をしかけて、でもそれらはひとつも口から出てこなかった。出せなかった。
馬鹿のひとつ覚えみたいに違うよと、それだけを吐く。吉良はそんな私を心底可笑しそうに見下して――みくだす?――見下ろして、「本当……、本当に。本当に、井田ちゃんって子は……」と言いかけた、のだけれど。
瞬間、ものすごい風が吹いて私は思わず強く瞼を閉じた。が、特急列車が駅に着いたのだとわかってすぐさま目を開けた。開いたドアから大勢の人間がホームになだれ込んでくる、改札までの進路を阻むかのように棒立ちになっていた私にたくさんの人がぶつかってくる。それとは反対に、ホームにいた人間たちが列車に乗り込む、私はまたぶつかられてよろめいた。すみません、と何度か謝って、ふいに右腕を強く引っ張られた。
吉良だ。吉良は私を自らの許へ引き寄せ、「ひとの邪魔」とだけ言って、ホームの隅へ移った。「ご、ごめん」人の波に紛れて私の謝罪が聞こえなかったのか、その語尾に被せて彼は言う。
「特急混んでんねえ。俺も普通に乗ろっと」
再度ね?と吉良が軽く首を傾げて微笑んだ。それはホームに充満する騒音のなか、不思議なほど明瞭に私の耳に届く。
――それでは私の声が彼に届かなかったのは、はたして嘘か真か、どちらであったのか。
◆
やっぱり普通列車は空いている。
どの車両にも数えるほどしか人はおらず、座席も充分に空いていた。本当にがらがらだなあと思いつつ、出入口付近にぽつぽつと立っているひとを避けるようにして私たちは二両目に乗り込んだ。一瞬の間をおいて、ぷしゅうと気の抜ける音とともに扉が閉まる。少数の客を乗せて、ゆるやかな速度で列車は走り出した。
車内はとても静かである。がたんごとんとレールのうえを進んでいく音だけがじんわりと広がっていく。足下から伝わってくる小気味よい振動で身体を支えきれず、私は少しふらついて壁に手を付いた。すると吉良は周囲をきょろきょろと見回して、連結部分のすぐ隣、壁際の席で目線を止めた。あそこ座ろ、と小声で誘う彼に続いて私もその座席へ歩を進める。腰を下ろした。
二人掛けの座席は思ったよりも狭い。頑張って身を竦めても、どうしても半身が吉良のそれに当たってしまう。かなりの密着具合だった。私はなんとか彼から距離を取ろうと試行錯誤していたのだけれど、対して吉良はなんともないような顔つきでぼうっと窓の外を眺めていた。過剰に吉良との距離を気にする自分にまたもやうんざりして、小さく溜め息をつき私は後ろへ背を預ける。そして吉良と同じように流れゆく景色をぼんやり見つめた。
たくさんの家が、ビルが、電柱が、進行方向とは逆へ逆へ逆へ過ぎ去っていく。列車に置いて行かれていく。その場に取り残されていく。
それはまるで私のようだった。私は吉良という列車に置いてけぼりにされる、そこから決して動くことのできない建物のようだった。列車がいつまでも線路を走るのに対し、建物は誰かに壊されるまでずっとその場に立ち尽くすしかない。それは私だった。私は一歩も前に進めない、建物であった。
夕焼けが車内を眩しく照らす。私は目を細めて、橙色の強い光をじっと見た。もうすぐ十二月だもんなあ、日が暮れるのは早いなあ。そんなことを考えながら、穏やかな暖色に包まれるこの場をふと、懐かしく思う。無意味な郷愁に浸ったまま斜陽の筋を追って、だらしなく投げ出された吉良の両脚を辿る。袖の隙間から覗く骨ばった手の甲を見る。本人に気づかれないよう、奇妙な色をした髪を盗み見る。
橙色と混ざり合った髪色は燃え盛る赤に変化していた。その赤を見て私はなぜか、先ほど目にしたあの熱い瞳を思い出す。彼の体内を巡る、温かい紅を思い浮かべる。
高校の最寄駅から私の自宅があるエヌ駅までおよそ十五分、四駅ぶんの距離がある。
その間を私たちは無言で過ごした。お互い一切口を開かずに、ただただ揃って沈んでいく夕陽を見つめていた。綺麗だね。うん。たまにそんな呟きがどちらともなく洩れるものの、会話はまったくといっていいほどなかった。それなのに不思議と気まずい空気は流れなかったのである。
エヌ駅に到着する旨のアナウンスが流れたので私はやおら立ち上がる。吉良が降りるエス駅はこの次、おそらく彼はそこで乗り換えるはずだ。ともかく今日はここまで。奇妙な一日が終わって明日からはまたいつもどおりの日々が始まるのだろう。その日常がいつまで続くのかは私次第であり、そして吉良次第でもあったのだけれど、とにかく今日は、これでおしまい。
「じゃあまた明日。ばいばい」
また明日、取ってつけたような別れの挨拶。本当に訪れるかどうか定かではない、曖昧な明日を示して私は開いた扉へ足を踏み出した。振り返らずにホームへ降りる。暖房の効いていた車内とは違って冷たい風が剥き出しの脚を刺す。
外はもうすっかり冬の温度になっていた。ぷしゅう、ともはや聞き慣れた音がして扉が閉まる、列車が私を置いて再び走り出す――と、背後に気配を感じて私は振り向いた。「え」と零す。
「俺もいったん降りよーっと。別にいいでしょ?」
平然と述べて、右手を顔の横に掲げた吉良が笑った。いひひ、と聴こえた。その後ろを列車が過ぎ去っていく。
吉良が、ホームに取り残されていく。私と一緒に。
なんで。吉良って次の駅でしょ。途中下車しなくていいじゃない。意味わかんない。いろんな言葉が頭に浮かんでは消えたが、私はぼそっと突っ込んだ。
「……もう降りてるじゃん」
「あっれーいつのまにー? うわー脚が勝手に動いたーやだコワーイ」
片脚を上げて下手な演技をする吉良に苦笑して私は肩を竦めた。そんな私を一見して吉良もちらっと微笑む。私たちは互いに見つめ合って、しばし笑った。
おかしな光景だった。吉良と私がこうやって笑い合っているなんて、可笑しい以外の何物でもなかった。
「ねえ、ちょっとお話しない?」
とても綺麗に口角を吊り上げて吉良が訊く。私は微笑みを携えたまま、さりげなく目の奥に力を込めていいよと頷いた。
またとないチャンス、なのか。なにを、と問われても困るがとにかくそのとき私はたしかに吉良と一度話し合おうと思っていたし、彼と向き合う決意のようなものも持ち合わせていたはずだった。少なくとも、私においては。
だから私は彼がこのときどんな思いでいたのかも、また私にどんな感情を抱いていたのかも知るはずがなかったし、きっと、初めから知ろうとさえしていなかったのだと思う。