07. 死にたがり [4-1]
燦々と陽が降り注いでいる。窓の外に広がる目に痛いほどの空の青と、ゆっくりとそこを移動する白い大きな雲の群れを眺めて私は瞳を細めた。
五限目は昼食後最初の授業ということもあってどうしても眠くなってしまう。ついでに科目は化学ときた、文系の私にはとてつもなく受け入れがたい内容だ。黒板の前で化学教諭がなにかの公式を口にしているけれど、私の耳にはあまり届いていない。呪文のように聞こえてしまってしかたがない。
それでも堂々と寝入る度胸なんてなかったので、うつらうつらとしつつ私は黒板に書かれている文字の羅列をノートに書き写した。が、すぐに飽きてしまったので板書もそこそこに、目の前の席にいる人物へ視線を移す。
吉良は机に突っ伏して熟睡していた。両腕を枕の代わりにし、すやすやと寝息を立てて気持ちよさそうに夢の世界へ潜っている。外から差し込む陽の光が吉良の奇妙な髪色を目映ゆく照らしていた。赤茶だか黄土だか判別がつきづらいその色は、彼だから似合う色であるのだろう。加えて髪の合間から見える数多のピアスだって、不思議と色を映えさせているのだと思う。なんの変哲もない自分から見ればある意味奇抜な格好は、吉良だからこそ、いや吉良にしかふさわしくないものなのだと私は考えることがある。
ううんと身じろぎするのに合わせて吉良の頭が揺れた。少し髪が伸びたかな、と思った。襟足が白いシャツにかかっていてアンバランスな色合いが殊更目立つ。サイドの髪も耳にかかってきたな、吉良の髪を見渡しながらぼんやり思っていたところで、慌てて私はかぶりを振った。なに人のこと観察しちゃってるんだろう、気持ち悪いな私は。しかし、見れば見るほど吉良が人気者たる所以がわかるような気さえした。華やかで際立つ容姿や人懐っこく天真爛漫な言動はもちろんのこと、彼にはどこか人間を惹きつけるものがあった。生まれ持ったオーラ、というのだろうか。私には到底ないものだ。私は吉良に目が釘付けになっているように感じられた。私は吉良に、魅かれているような気がした。
それほど大きくない吉良の背中をじっと見つめながら、昨日のできごとを思い出す。
私は昨夜、自殺しようとした。自室のカーテンレールに電気コードを括りつけ、首を吊ったのだ。けれども結局は死にきれなかった。未遂に終わってしまった。コードを首に巻いて踏み台代わりの椅子を足で蹴って宙吊りになったまではよかった、しかし気がつけば私は床のうえに転がっていた。頚動脈が圧迫されて意識が遠のいた瞬間、私はほぼ無意識にもがいて首に巻きつくコードから脱出しようとしたのである。
無様に床を這い蹲りながら私は自分の不甲斐なさを呪った。初めからわかっていたことだったけれど、しょせん私はその程度の人間にすぎなかった。死にたいと零しつついざとなるとひとりで死ぬことすらできない愚かな女、それが私なのである。まさに死ぬ死ぬ詐欺に等しかった。なぜ死ねなかったのか。なぜ私は生きようともがいたのか。恐怖を感じたのではない、単に苦しかったからだ。気道が締めつけられ酸素を失い、呼吸が止まりかけたその状態がただただ苦しかっただけなのだ。死ぬことが怖くなったのではない。息ができないことが辛かっただけなのだ。それだけで図太く生き延びてしまっただけなのだ。死への恐怖は感じられなかった、私の身体には喉を潰されることによる苦痛だけが植えつけられた。
首吊り自殺はほとんど苦しみを感じないと聞いていたのに、実際そんなことはない。苦しいし、馬鹿みたいにむせるし、締めつけから解放されたあとも喉への違和感がありありと残る。首にはなにも巻かれていないのに、ずっとなにかが巻きついているような感覚が残っている。私のやりかたが下手なだけだったかもしれないが、それでもまったくの無痛というわけでもない。
私は死ねなかった。死ぬタイミングを逃してしまった。こうなるともう私は寿命がくるまで、しぶとく生き続けてしまうのではないかという不安さえ覚えた。
死への恐れを抱かなかった点については唯一よかったといえるのかもしれない。吉良が言う「死ぬという恐怖を体験して生存本能を目覚めさせる」計画は失敗に終わる可能性が高い、私が試してしまったから。というか、すでに失敗したといえるのではないだろうか。だが私ひとりではこのように死ぬことすらできないのだ、やはり吉良の手を借りるしか方法はない。あわよくばそのまま彼に殺してもらう――そんな、密かな期待を込めて。
私は昨夜、自殺を図った。しかし苦しさに耐えかねて死に損なった。それでも、恐怖は感じなかったのだ。
吉良は相変わらずぐっすりと眠っている。
彼はいつもこうだった。授業中眠れない原因のひとつに、吉良が姿勢を低くしてしまうため教壇から私が丸見えになるというのもある。吉良が壁になってくれたためしはない、彼が真面目に授業を受けているところを見たためしがない。そんなクラスメイトを私はちょっと、微笑ましく感じて――また、すぐさま我に返った。さっきから私はおかしかった。吉良のことばかりを考えていて、これではまるで……と、それはありえない。私が吉良に、なんてまさか、まさかそんな。
思考が無駄に錯綜しているのは、おそらく今朝の吉良とのやりとりのせいだと思う。
私は今日、昨夜の首吊り時に残ってしまったコードの痣を隠すためにマフラーを巻いてきた。紐の痕を隠すためにマフラーを巻きます、なんてべたな考えだとは思うが、それに私の首元なんて誰も気にしないし、もし見られたとしても別になんとも思われないような、そんなたいしたことのない痣だったけれど、私は気恥ずかしくてどうにかそれを隠したいと思った。あいつ、自殺未遂してやがんだぜ。死にきれなかったんだってよ。死ねないんだったら最初から首なんか吊るんじゃねーよ。恥ずかしいやつ。情けないな。そんなふうに噂される気がして。それって自意識過剰だよ、吉良の言葉が蘇る。ごもっとも、被害妄想で自意識過剰だ。誰も私のことなんか見ていない。私なんかどうでもいい。取るに足らない存在。そのとおりだった。
それでも私は痣を隠したいと思った。だからマフラーを巻いて、極力目立たないようにした、つもりだった。十一月なんだから普通にマフラーだってする、なにもおかしなことはない。そう信じていた。しかし昨日の今日でいきなりマフラーを巻くことが逆に悪目立ちしてしまう結果になるのだと、間違いだったと、その時点で理解しておくべきだったのだ。
マフラーを巻いていつもより遅く登校した私の異変にさっと気がついた吉良は、私がひとりで死のうとしたことに対して激怒していた。私は吉良の怒りという感情を初めて目の当たりにして、ひどく驚いた。まさか吉良が怒ることがあるなんて、と意外に思うと同時に、その激しい怒りに慄いた。
初めて見る、吉良の感情の爆発だった。吉良はいつもにこにこと微笑んでいて、言い換えれば笑顔以外の表情なんてめったに表さなくて、怒りなんてものとは対極の位置にいた。それが今朝、私が勝手に首を吊ったことを知り、侮蔑の色を滲ませた冷たい眼で私を問い詰めたのだ。井田ちゃんさあ、首、吊ったでしょ?と。
吉良が怒ったことに深い意味なんてとくにないだろう。吉良は怒ってないよ、と笑っていたけれど、あれは絶対に憤慨していたはずだ。彼がそこまで憤ったのはたぶん心配してくれたから、だと思う。でもその憤りに深い意味なんてない。彼は明言していた、自殺はいけないことだと。俺は自殺否定派だ、と。だから私が死のうとしたことに対して怒りを露わにしたのだろう。
彼はたしかに心配してくれたんだと思う。しかしながらそれは私自身へのものではなく、自殺するという行為そのものへの心配だったのだろう。吉良がもしも自殺肯定派だったら私なんか気にも留めていなかったに違いない。吉良は「私」だから心配したのではなくて「自殺しようとするひと」を気にかけたんだろう。それにきっと、これは推測だが、私が吉良に黙って勝手に死のうとしたことが、許せなかったのだろう。
吉良に叱られたとき、私はなぜか吉良の特別扱いになったような気がして、少し嬉しくなってしまった。だがすぐに思い違いだと悟る、吉良は優しいから。吉良は、いいひとだから。これから自殺します、なんて人間を放っておけなかったのだ。自殺未遂をしました、なんて人間を放っておけなかったのだ。だから怒ったのだ。そこに深い意味なんてあるはずがない。私は調子にのって、自分が吉良の心の一部を占めているのではないかなんて考えてしまった。ひどい勘違いだった。自惚れも甚だしい。
――それに――。
私は悩む。それは吉良とまともに話した、最初のホームルーム前からしきりに生じる違和感であった。
どうも吉良と私の間に重大な齟齬が存在しているように感じられてしかたがない。双方の意向がうまく噛み合っていないような気がする。吉良と私が望んでいるなにかが、まったくの別物であるような気がするのだ。
私は死にたくて、吉良はそれを止めたい。そこに歴然たる違いはある、しかし私が言いたいのはそういうことではない。はっきりと言葉にはできない食い違い、こう、気持ちの悪いなにか。そもそもの、根本的なところからの相違。吉良という人格を形成している根っこの部分から――なにか、言いようのない異様ななにかを感じてしまう。それは無知な私にはわからない。わかる必要もない、と言われる可能性だってある。けれどそれがわからない限り、私は奇妙な違和感をずっと抱えたままになってしまう。
一度、吉良とちゃんと向き合うべきなのかもしれない。
人知れず私は思案を巡らせた。同時に「こらあ吉良! 起きろ!」と先生の喝が飛び、吉良が飛び上がった。丸まっていた背中が勢いよく伸びて、照れたように髪をがしがしと掻く。そんな吉良にみんなが笑って、私もわずかに笑んだ。
それはたぶん、意識せずに零れ出た笑顔だったと思う。
◆
「井田ちゃん。一緒に帰ろ?」
すっかり聞き慣れた能天気な声が鼓膜を刺激する。
教科書類を通学鞄に詰める手を止めて、私は声をかけてきた人物を見た。とっくに帰り支度を終えた吉良がすぐ傍に突っ立ってにこにこと微笑みを携えている。ゆさりと一度肩を上下させてリュックを背負いなおし、再び言った。「一緒に、帰ろう?」
私はマフラーをぎゅっと握りしめる。吉良の前では巻かないほうがいいように思えた。あまり首を露わにしたくはなかったが、むやみやたらに首を隠そうとするのも却って吉良の逆鱗に触れる気がする。
「私ジェイアールなんだけど。吉良ってバスじゃなかったっけ」
「いんにゃ。俺バスでもジェイアールでもなんでも帰れるの。だから今日はジェイアールの気分ー」
バスじゃないのという私の疑問をさらりと流して吉良が答えた。なんでも帰れるなんてきっとでたらめだ、吉良はバス通学だったはずだ。高校の最寄駅のすぐ近くにあるバス停に吉良が並んでいるところを何度も見たことがあるし、それに駅や電車内でその姿を見かけたことも一度だってない。だから彼が嘘をついているのは明白だった。
吉良はとくにそれを隠そうともしていないのだろう、逡巡する私を待ちかねて「ねえ井田ちゃん」と切り出す。
「俺と一緒に帰んの嫌かな?」
別に嫌、というわけではない。私だって吉良と一度しっかりと話し合う機会を設けるべきだと考えていたし、これはまたとないチャンスになるだろう。しかし今日は……昨日、今朝と私にとって情緒不安定になるできごとが立て続けにあったし、それに、ああそれになにより、また心の準備というものができていないのだ。簡潔に言うと。でもその思いはおくびにも出さず、私は満面の笑みを浮かべた。正しくは、つくった。
「ううん、嫌なわけないじゃん。あ、でもたぶん駅までだよね。私下り方面なんだけど、吉良の最寄のバス停って確か上り行きだったでしょ? だったら電車、反対方面だねー。だから」
「奇遇だねー俺も下りだよん」
まくしたてる私を遮って吉良が淡々と言った。途端、息を呑む。だめだ、他に拒否する理由が見当たらない。吉良の誘いを私が拒むなんてずうずうしいのだけれど、今は、ちょっと。だが私がなんと言おうと彼は適当に言い繕って一緒に帰ろうとするのだろう、おそらく私が死なないかどうか、見張るために。
「……あ、そうなんだー……じゃ、一緒に帰ろ」
鞄のファスナーを閉めて私は重い腰を上げた。マフラーは中途半端に中に突っ込んだままにした、あまりこれを見せないほうがいい。すると私の喉元を見た吉良がおや、と片眉を持ち上げた。
「井田ちゃんマフラー巻かないの?」
え、と私は言い淀む。言葉に詰まる私にかまわず吉良はごくごく普通に、なんでもないかのように、「マフラーあんのに巻かないの? 変な井田ちゃん、首寒いでしょ?」と笑った。
……気にしすぎ、だったのだろうか。
指摘されたのに頑なに巻かないというのもおかしく感じるので、私は曖昧に笑い返してマフラーを鞄から取り出した。広げて、なんともない仕草で首に巻こうとして。
「貸して」
刹那、横からすっと吉良の両手が伸びた。へっ?と顔を上げた私の手からマフラーを取り上げ、吉良は穏やかに微笑んだ。そして自らの手の中にあるマフラーに一瞬目を落としたかと思うと、それを私の首にそっと掛ける。
「俺が巻いてあげる」
言って、吉良が伸ばした腕ごと上半身をこちらに寄せた。反射的に全身の筋肉を強張らせた私に小さく笑って、彼は優しい手つきでマフラーを巻いていく。正面からは巻きづらいのか、少し顔を顰めて吉良がさらに近づいた。
ものすごく至近距離で吉良のピアスが視界に映る。な、顔が近い! 私の右頬のすぐ横に吉良の左頬がある、じろじろと周りの視線を感じる、私は硬直したまま真っ赤になる、吉良は私のマフラーだけを見つめている。その表情は決して読み取れない。ただ一瞬、ほんの一瞬だけちらりと窺えた吉良は、真顔に見えた。
吉良のそれは、壊れ物を扱うような柔らかな手つきだった。ひどく優しく、まるで大切なものを傷つけないようにおそるおそる探る触れ方と同じように思えた。たとえば脆い動物の頭を撫でるような、喩えるならばそんな感じの。
「……はい! できたよー」
ぱっと身を離して吉良が破顔した。私は急激に現実に引き戻される。マフラーを巻かれているほんのわずかなあいだ、時間の流れが止まったかのように感じられた。この空間だけ現実世界から切り離されていたような、別世界のような感覚がしたのだ。
「……あり、がとう」
首に巻かれたマフラーに顔をうずめて私は礼を述べる。どういたしましてーと朗らかに告げる吉良からは真顔のまの字も見えない。
先ほどの吉良はいつもの彼と違っていた。能天気とは程遠い、真剣な面持ちになった吉良だった。いやにおとなっぽい雰囲気を纏っていた。その吉良に私は、おそらく、きっと――。
なぜか聴こえる胸の高鳴りには気がつかないふりをして、私は吉良の真ん丸な双眸をひとえに見つめる。ん?とはにかむ吉良は私のよく知っている吉良だったけれど、あのときの『彼』は間違いなく私の知らない彼だった。