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死にたがりと殺したがりのグロテスク考  作者: 佐喜
死にたがり と 殺したがり
6/21

06. 殺したがり [3]


「あんたさ、最近井田ちゃんと仲いーよねえ」

 ふと思い出したように松岡が笑った。どこかからかうようなその物言いに俺は動じず、冷静に「そう?」と返す。飲んでいた苺オレは松岡との会話中に空になっていた。右手に力を込めて紙パックを握り潰す。パックはあっけなくひしゃげた、まるで死んだ猫のように。

 簡単なものだった。ちょっと力を入れさえすれば弱者はすぐに潰れる。弱肉強食の時代だ、誰も文句は言えない。この紙パックだって、あの黒猫だって、そして井田だって。みんなみんな同じようなものだ。どいつもこいつも弱っちくて、ひどく脆い。

 ストローに若干残っていたのだろうか、パックを潰した瞬間ぴっと苺オレが散った。斜め前の松岡に降りかかる、松岡がちょっとバカと喚いて俺を軽く小突く。ごめんごめんと適当に笑って俺は昨日のように、パックをごみ箱に放り投げた。ごみ箱とは名ばかりの単なるドラム缶、そこに吸い込まれる弱者。簡単に死んでいくゴミ、グロテスク。ナイッシュー、ひとりで拍手をした。

「席が前後だからだよ。仲悪くはないと思うけど、すげーいいってわけでもないし」

 なぜか決まり悪く、ぼそぼそと話して俺は窓枠に凭れかかる。俺の席は窓際一番端、井田の席はその後ろ。隙間風や十一月の気温は窓際の席には辛いものだったけれど、そこはさすが私立高というべきか、暖房がつけっぱなしだったのであまり気にならない。そりゃそうだ、無駄に高い金を払っているわけではない。

 松岡は俺の右斜め前の誰かの席に座って頬杖をついている。脚を組み直した。可笑しそうに小さく笑って、言った。

「なに照れてんのよ吉良らしくない。常に喋ってんじゃん。仲いいってことでしょ」

「ま、俺は井田ちゃん大好きだけどね」

「え! まさかそうだったなんて」

「ちげーよ馬鹿」

 そういう意味じゃねーっての。歯を剥くと、松岡は冗談だってと繰り返して笑った。ごついガーゼと包帯で真っ白に染められたその左頬が痛々しい。あーあーまじで馬鹿だなこいつは、けっこう美人なのに一生もんの傷つくっちゃってさ、と同情して俺は松岡の左頬をじっと見つめる。

 一昨日の実験中、熱しすぎた試験管が割れてその破片が飛び散った。運悪く、松岡の顔に直撃した。そして松岡は左頬に傷をつくった。消えないらしい。ファンデーションで充分隠せるよ、たぶん、とは松岡の談だがそういう問題でもないだろと思う。クラスの女子がぎゃあぎゃあと喚く気持ちがそれなりに理解できる。松岡はそんな俺の視線には気がつかず、空白の井田の席を見やった。

「井田ちゃんいいこだよね。明るくて優しいし。あたしあんまり喋ったことないけど、一回ちゃんと話してみたいな」

 その松岡の台詞に俺は思わず噴き出してしまいそうになる。はあ? はああ? いいこだって? 井田が? 明るくて優しいし? あの井田が? 常に鬱々として卑屈で中身がグロテスク極まりない、あの井田という女が? 強烈な精神的グロが!?

 まあそういうふうに周りに見せてるからだろうな、井田が必死に。死にたいと思うほど自分を追いつめて。よかったじゃん、おまえの変な努力も無駄じゃなかったってことだろ。こうやって騙される人間がいるってことはさ。

「でも今日は珍しーね。いつも早めに来てんのにまだだし。休みかな?」

 松岡がさらに続けた。井田はまだ登校してきていなかった。普段は予鈴の十数分前にはきちっと席に着いていたのに、今日はまだ姿を見せていない。早めに学校へ来る井田に合わせて俺も早めに登校していたのに、とんだ無駄骨となってしまったようだ。

 井田がいなければ「今後井田をどうするか」というホームルーム前の恒例の相談会もできず、俺は本日松岡とこうしてだべっている。ここ最近のホームルーム前は井田とばかり話していたので、逆に井田以外のクラスメイトと談笑するのが不自然に感じられた。本来はこっちが俺の日常だったのにもかかわらず。

「あんたなにか聞いてないのー? 今日一限自習だしさ、遅刻してもだいじょうぶだとは思うけど」

「知らね」

 窺うように俺をちらちら見る松岡にわざと冷たく言い放ってやる。けっこうなあしらい方だったが松岡はとくに気分を害したようでもなく、そっかあと残念そうに眉を顰めた。

 松岡のいいところはこういうところだった。派手な見た目に反して中身は気のいい女である。周りに好かれる理由もわかる、俺も普通に好きだし。ただ俺の場合、それは人間もとい生物にほとんど当てはまることであって、例外なのは、そう、井田だけ。

 知らないとは言ったものの、俺には心当たりがある。おそらく昨日の俺が言ったことのせいだろう、井田が登校してきていないのは。

 あいつまさか本当に休む気じゃねーだろーな? 俺はぎりぎりと歯を食いしばる。しっかしほんといらつくなあ、あの女。たったあんくらいで参ってんじゃねえよ、わかってたけどまじメンタル弱すぎ。


 井田に告げた至極正論な俺の思いを、井田自身はすっかり意気消沈して聞いていた。項垂れる井田を横目で見つつ俺は思った、おいおいこいつ聞いてんのか?と。だが俺はあえてそこには触れず、軽快に真っ当な意見を述べ続けた。井田に口を挟む余裕も与えず一方的なマシンガントークをし続けた。

 喋り終えてふうと息をついても、井田は相変わらず俯いて顔を真っ赤にしていた。長い黒髪の間から一瞬見えた耳まで真っ赤に染まって、そりゃもう茹蛸のように。そらーそうだよな、痛いところを無遠慮にほじくり返されたんだから。恥ずかしいよなあ、惨めだよなあ。消えてなくなりたいよなあ。年上や家族ならまだしも、同年代の、しかもクラスメイトで、こんなちゃらちゃらした軽そうな男に説教されたんだからなあ。微かに肩を震わせる井田を遠慮なくじろじろと見まくりながら俺はそんなことを考えていたのである。精神的グロだよなおまえは、と何度も言いかけて、そのたびに口を噤んだ。それを言うべきなのか言わざるべきなのか、その微妙なラインは現時点俺自身にも判別できていなかったからだ。

 泣くかと思ったが意外にも井田は涙を零さなかった。力なく笑って、いやまったく笑えていなかったけれど井田は微笑んだつもりだったのだろう、とにかく笑って、ごめんね、吉良の言うとおりだね。とぽつりと洩らした。そこで俺のいらいらが再燃する。うわ、なんで井田ってこんなにいらつくんだ? 謎だったが、とにかく俺は怒りの炎を燃やした。まじぶっ殺してえ。俺はたしかに井田に苛立っていた、なのでらしくもなく責めてやった。乱暴な口調ではない、いつもどおりの柔らかい呑気な言い方で、でもそのぶん手厳しくなじってやったのだ。

 井田は間違ってる。井田はおかしい。井田は異常だ。惨め。哀れ。不憫。恥。グロ――とは言ってないな、汚い。変だよ。かわいそうに。

 滑らかに吐き出す俺の一字一句を井田は糞真面目に全部受け止めていた、のだろう。ぷるぷると馬鹿みたいに全身が揺れ始めていた、そしてその日は井田とまともに会話をしなかった。俺は妙にすっきりした気持ちで帰路に着いた。

 あいつも馬鹿だよ。自殺方法なんか細かく調べやがって。と俺は毒づく。

 変に真面目で律儀で、でもそういう性格だからこそ死にたいなんて考えやがるんだろう。まったくどうしようもない人間だ、もう充分すぎるほどわかっていたけれど。俺に内緒で勝手なことすんなといちおう釘は刺しておいたが、あのようすだとかえって逆効果になってしまったのかもしれない。俺の発言に深く傷ついた井田ちゃんは、自室で死んでしまいました。ちゃんちゃん。ああ普通にありえそうな結果だ。死んだから今日は登校できないのです。うん、想像できる。今日だけでなく明日も明後日も、これからずっとずうーっと学校には来られないのです。残念。やべえ、笑えるくらい容易に描くことができるぞ、その未来を。

 ――って、冗談じゃねえ!

 それだけはたとえ誰が許そうとも俺が許さない。なに勝手に死のうとしてんだよ、馬鹿かテメーは。俺は井田が死ぬ様をこの目にしっかりと焼きつけたいのだ。言い換えれば()()()()()()()()()()()()のだ。精神的グロが肉体的グロになる様を、目をかっぴらいて眺めていたいのだ。グロがグロになるのか、はたまたグロが綺麗になるのか、グロがグロ以上のゲテモノになるのか、ただひとつの結果を知りたいのだ。それなのに俺の目の届かないところでひっそりと逝くなんて絶対に認めない。絶対にだ!

 井田が死んだとは決まっていないのに、俺の頭のなかはそれだけでいっぱいになっていた。井田が人知れず自殺するのを阻止する、その思いだけが俺の脳を占めている。綺麗な人間が汚い人間を引き留めてやる。なんて美しいのか。これぞ生きている証だ、生を実感できる。

 俺は酔っている。自覚はある。だったらなんだ? 酔っているからなんだというのか? 俺は俺の欲求に従順なだけだ。俺は俺のことだけを考える。それが非難されることなのか?

「吉良ー?」

 途端に投げられた松岡の呼びかけに、はっとして俺は我に返った。「超怖い顔してたんだけど。なんかキレてんの?」と訊ねる松岡にいや別にと答えて、俺はスラックスの尻ポケットに手を突っ込んだ。携帯電話を引っ張り出し、井田に連絡しようとメッセンジャーアプリを起動させる。

 井田ちゃーん。今日休みー? 井田ちゃんいないと寂しいよー。ふざけた顔文字、っと。よし、まずはこんなもん。たんたんと液晶画面に触って井田に送信。ちゃんと送信できたのを確認して俺はアプリを閉じた。死んでるのか死んでないのかまだわかんないからな、とりあえずの生存確認ってことで。もっと突っ込んだ内容は井田の返信次第で送ろう。というかメッセージは返ってくんのか? あいつまじで死んでんじゃねーだろうな、それだけが気がかりである。欠席というのも許しがたい、俺は一刻も早く井田の行く末を見届けてやりたいのだから。

「井田ちゃんに連絡したよ。今日休み?って」

 俺と同じく井田を気にかけていた松岡に、せめてもの礼としてそう笑いかけた。まあ俺と松岡の心配はまったく真逆のベクトル、異なる意味合いのものではあったけれど、そんなのは松岡の知りえないことだし、別にいいだろう。あたしも井田ちゃんに連絡先訊こっかなーと楽しげに言う松岡をうっちゃって、俺は井田の真っ赤に染まった表情と、それを覆い隠そうとする黒い髪を思い返していた。



 井田の黒髪は俺にあの黒猫を彷彿とさせた。どうやっても俺が井田と猫を重ねてしまうのは、あの髪が原因なのかもしれない。

 黒髪のやつなんていくらでもいたし(というより俺や松岡が校則違反者なのだけれど)、髪が長いやつも数多くいた。それでも俺は井田だけを猫に重ねてしまうのだ。井田の顔が猫系なのか? 違う。どちらかといえば犬系だろう。あの猫のようにしなやかな身のこなしなのか? 違う。どちらかといえばどんくさいだろう。高貴な瞳? 違う。あいつの目は濁っている。凛とした姿勢? きりっとした顔つき? 気高さ云々? ないない一切ありえない。

 ひとつひとつ挙げていけばそのどれもが打ち砕かれる。井田と猫に共通点なんぞ見つかるはずがない。それなのに俺は、どうも井田と猫が似ていると考えることがある。やはり、あの黒髪が最大の理由なのである。唯一にして最大の共通点。黒。

 井田の長い黒髪は猫の手足を思わせた。猫のすらりと伸びる四肢が、自由に揺れる尻尾が、井田の髪を思わせた。井田は猫のように自由ではない、猫は井田のように自己嫌悪などという汚いものに雁字搦めになってはいない。井田は常になにかに怯え、猫は常に悠々と胸を張っている。井田はグロテスクである、猫は美しく綺麗である。井田は生きている、そして猫は死んでいる。

 ひとつひとつ挙げていけばそのどれもが打ち砕かれる。

 それでも俺は、井田と猫が同じものだと考える。黒という、たったそれだけの情緒もなにもない色に囚われている。

 猫は無惨にひしゃげて死んだ。四肢を変形させて、尻尾を折り曲げさせて死んだ。俺の目の前でグロテスクに成り下がった。俺は猫の四肢を井田の黒髪に取り替えて想像してみた。その黒髪を散らばせて井田が息絶えている。黒髪が放射状に伸びて、井田が虚ろな目をして、中身をぶちまけて死んでいる。俺は黒に触れたくなった。汚らしいその黒を、さらにぐちゃぐちゃにしてやりたくなった。長い髪を切り刻んでやりたくなった。俺は吐き気を覚えなかった。あのとき、猫の死骸に直面したあのときにはたしかに催した吐き気を、今度は欠片も感じなかった。

 俺は――、たしかに興奮していた。高揚していたのだ。どす黒い色を、井田の髪をめちゃめちゃにする俺自身を妄想して、俺の欲望が詰まりに詰まったその理想に浸って、俺はたしかに()()()()()()()()()


「……髪、黒くしよっかなー」

 携帯を弄くりながらさりげなく言ってみる。松岡はすぐさま反応して椅子から腰を上げかけた。中腰になったまま半ば叫ぶ。

「えっどういう心境の変化!? 吉良はそのきったなーい意味わかんない色がアイデンティティなんでしょ!? ん? 個性だっけ? とにかくあんたが黒くなるとことか想像できない!」

 汚い色とはなんだ汚い色とは。意味わからんは許す、汚いは許さん。

「ずいぶんと失礼な言いようじゃん松岡サンよー。俺にだって美しい黒髪の時代はあったんだよ」

「いや、まあ、そうだけどさ。でもねー吉良が黒髪ねえ……入学したときからそんな感じだったしほんと想像つかないわ。てか絶対似合わないと思う」

「うん、俺もそう思う」

 まあ松岡の言うとおり、俺だって自分の髪が黒いなんていまさら想像できないしね。それにもし黒に戻したとしたら井田とおそろいになるのだ。井田は嫌がるだろーなあ、でも周りが似合わねえ似合わねえと囃し立てるなか、おそらく、すっごく似合うよと笑顔を貼りつけて見え見えの世辞を吐くのだろう。井田はそういう人間だった。

 もうすぐ予鈴が鳴るというのに依然として携帯に反応はない。死んでいるかもという予測はいよいよなきにしもあらずとなった。これで生きていたとしたら、あいつは俺のメッセージを厚かましくも無視していることになる。はいガン無視二度め入りましたー。井田とっておきの攻撃、ガン無視です。クソ、いーい度胸じゃねーかまじでよお。井田のくせに。家まで押しかけてやろうか、家知らねーけど。それこそストーカーになるけれど。

「――あ! 井田ちゃんおはよーっ」

 俺がひとり井田へのあれこれを膨らませていると、ふいに松岡が嬉しそうな声を上げた。俺は携帯から視線を外して左斜めへ首を捻る。

 俺と松岡のちょうど中間あたりに赤いチェックのマフラーを巻いた井田が立ち尽くしていた。井田は顔を強張らせて、しかしへらっとまたあの気持ち悪い笑みを瞬時につくって、「おはよー松岡さん」と挨拶をした。俺は携帯をぶっ壊しそうになる、ああそう俺は無視ですか。そうですか。そういうつもりできましたか。ははあなるほど。なるほどね。なーるーほーどーねー。――なるほど使い古した手でくるじゃねーかテメエ!

 俺の連絡も結局無視していたというわけか。いや単に気づいていなかっただけかもしれないが、もうどうでもいい。ただし今日休まなかったことだけは評価してやる。予鈴ぎりぎりにやってきたことも、たぶん俺と少しでも顔を合わせたくなかったのだろう、まあ許してやる。

「おはよう井田ちゃん。遅かったね」

 満面の笑みをつくって井田を睨んでやった。途端、なるべく俺の視界に入らないよう縮こまって席に着こうとしていた井田がおおげさに飛び上がって「お……はよー」と目も合わせずに言う。陰気だ。ああ陰気だ。陰気すぎて言葉も出ない。俺の刺々しいオーラにびびりまくっているのか井田はなにも言おうとしないし、蚊帳の外の松岡はこの奇妙な空間に首を傾げている。たまらず俺ははあとひとつ溜め息。冷や汗をかいていそうな井田の首に巻かれたマフラーへ目をやって、俺は感じよく喋りかける。いつもどおり。いつもどおりに。

「井田ちゃん今日からマフラーしてきたんだー。今日ちょっと寒いもんね、俺もそろそろマフラー巻いてこよっかな」

 ――刹那、井田がごくりと唾を呑み込んだのを俺は見逃さなかった。あーあたしもマフラーしてくればよかったーなどと場違いに笑う松岡には目もくれずに、俺は井田の首元を睨めつけた。

 こいつ、なにか隠してるな。

 俺は直感する。俺がマフラーと口にしただけで固まったのだ、なにかやましいことがあったに違いない。俺は思考を巡らせた。今日から巻き始めたマフラー。首を隠す。首。……首……? あっ、おいテメーまさか!


 答えが出ると同時に勢いよく右手を伸ばして井田のマフラーを乱暴に掴んだ。教科書を机の中に移そうとしていた井田が「えっ!」と悲鳴を上げてマフラーごと俺のほうへ引き摺られる。井田の身体が井田自身の机にぶつかる、松岡の素っ頓狂な声が飛んでくる、俺は躊躇せずさらに引き寄せる、机ごしに俺と井田は至近距離で見つめ合った。

「な、なに、吉良」

「ちょっと吉良なにしてんの!」

「井田ちゃんこのマフラーかわいいよねもっとよく見せてよ」

 三人三様に口を開いた。俺は早口で言って、了承を得ずに井田の首に指をかけマフラーを素早く外した。ちょっと、と鋭く制止する井田の首元が露わになる。俺は一瞬目を見張る、そして怒鳴りかけたその瞬間、あれ、と松岡がそこを指差した。

 井田ちゃん、首、赤くなってるよ。

 そう、ぐるりと一周するかのように、赤い線の痕が井田の首に巻きついていたのである。それは昨日までなかった奇妙な痣で、まるで紐状のなにかで首を絞めたような――俺の手を振り払って井田がばっと喉元を押さえた。

 俺はそのようすで確信する。たった今確信に変わったのだ。

 喉を押さえたまま「……そ、そうなのー。もー最悪だよー、なんか気づいたらかぶれちゃってて。痒いよー」と下手糞な言い訳を連ねる井田。

「まじでー? アレルギーとかあったんじゃない?」と下手糞な言い訳を安易に信じる松岡。

 そんな下手糞なやりとりを見守る俺。

 井田の首元は松岡みたいな、なにも知らない普通の人間が見たらとくになんとも思わないものなのだろう。ああ赤くなってるな、とすら思わない程度のものなのだろう。俺だって気にも留めなかったはずだ、普段なら。井田の心中を知らなかったそのときならば。昨日井田から自殺方法の詳細を聞くまでは。

「……井田ちゃん。ちょっといいかな」

「え」

「ちょおっと、いいかなあ。俺、井田ちゃんとふたりっきりでお話したいんだー」

 井田が青ざめる。やっぱり俺の予想は的中した、ドンピシャだ。「けどもうすぐ予鈴鳴るし」井田が渋る。ほらな。

「一限自習だよ。誰もなんにも言わないって」

「あ、あとじゃだめ? 今私……」

「いいから」

「で、でも吉良」

「いいからっ!」

 怒鳴って俺は井田の机に思いきり掌を叩きつけた。ばん!と激しい音が響いて机が揺らぎ、掌に痺れが伝わる。しん、と教室が静まり返って、その場にいた全員が俺たちのほうへ振り返った。

 俺の怒声だけがいつまでも余韻を保っている。俺がさっと辺りを見渡すと、みんな一斉に目を逸らして各自の談笑を再開し始めた。一瞬沈黙に満ちた室内に、もとどおりのざわめきが舞い降りる。

 視線を戻して井田を見据える。井田が硬直する。松岡も、俺の態度に呆気に取られている。

 俺は無言で井田の右腕を取った。動こうとしない井田を無理矢理引っ張って、ずるずると廊下へ連れ出した。



    ◆



 予鈴はいつのまにか鳴っていた。

 その証拠に廊下には誰もおらず、ひんやりとしたコンクリートの冷気のみを俺はまともに感じ取る。伊達にいいとこが集まってる学校じゃないな、と俺は思った。俺みたいな不真面目で校則違反が大好きな人間たちがわらわらいたとしても、大抵がチャイム着席は守るのだ。結局は真面目なのだ、みんな。うちのクラスだってそう、一限目が自習なのに誰も外に出て騒がない。まあ廊下でうるさくしたらすぐさま教師が飛んでくるし、自習だからといって騒いでいいわけでもないし、ていうか、ならみんな静かに自習しているのかと訊かれれば室内は相変わらず騒々しいけれど、そこらへんはある程度黙認されているのだろう。

 いずれにせよ廊下は無人なので都合がよい。俺は教室の扉から少し距離を取ったところで井田の腕を解放した。俺は目の前に広がる廊下の先をじっと眺めていたので、背後にいるであろう井田の表情が窺えない。だから振り返った。

「……井田ちゃん。それさー紐の痕だよね? 井田ちゃんさあ、昨夜か今朝かは知んないけど――首、吊ったでしょ?」

 ばっと顔を上げて井田が俺を見た。ほとんど泣きかけの井田がぱくぱくと口を動かそうとする。だがなにも言えなかったのだろう、下唇を噛みしめて弱々しく頷いた。

 あああああほらほらほらほらやっぱりな。やっぱり吊ったんじゃねーかよばればれだっつーの! だいたい昨日の今日でいきなり首に赤い痣残してきたんだからすぐにわかるっての! まさか俺が気づかないとでも思ったのかこの野郎! むかむかする。いらいらが募っていく。

 井田は昨日の俺が言ったことに対して傷ついたんだろう。そして発作的に死のうとしたんだろう。曰くいちばん確実な方法で。でも結局死にきれずに、こうして学校に来たんだろう。俺はとてつもなく腹が立っていた。勝手に死のうとしたことも、井田が俺の忠告を無視したことも、死のうとしたくせにのうのうと生き延びていることも、ああ考えがごちゃごちゃしてまとまらねえ、とにかく、なにもかもにむかついていた。俺のせいで井田が傷つき死ぬことは俺の望んでいたことだったのにもかかわらず、俺は本当に憤激していた。まさか井田が俺に黙って行動を起こすなんて、予想だにしていなかった。井田が、死ぬ死ぬ詐欺のあの井田が! 未遂には終わったけれど、本気で首吊りを実行するとは思っていなかったのだ。

 それは裏切りに感じられた。俺の想いを踏み躙ったように感じられた。俺は井田に見くびられたように感じた。俺は井田に、馬鹿にされたように思えたのだ。井田の最期は俺の思うままだと疑いもせずに思い込んでいたのだ。

 首吊りは井田の謀反だった。別に吉良なんかいなくても勝手に死ねるし。なに偉そうにしてんの? 指図しないでよ、私の最期は私が決めるんだから――井田が絶望から這い上がり、俺を軽々と越えていったように感じられた。井田のくせに、井田ごときが、井田ごときの分際で、俺を、俺を、畜生、この俺を、こいつは裏切った! 裏切りやがったんだ!

 俺は取り残された。独り、そこに置いていかれたのだ。真正面で震える井田はこんなにも脆弱に思えるのに、俺のなかの井田のイメージが俺を嘲笑っていた。私が吉良を頼りきっているように見えたかもしれないけど、本当に相手を縛りつけていたのはどっちよ? 井田が俺を見下して笑い転げる。俺は井田が死のうとしたことについて怒り狂っているのではない。


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 ……いいだろう。

 そんなに死にたいのなら、お望みどおり俺が殺してやる。今、まさにここで。首を絞めて殺してやる。死にたいんだろ? 死にたかったから首を吊ったんだろう? 吊るも絞めるも一緒だろ、だから俺がおまえを殺してやる。首を絞めてやるよ。いいだろ? おまえは死にたいんだろう? 自殺も他殺も変わりないだろう? 間違って殺しちゃったらごめんね、そんな俺の問いかけを井田は受け入れただろう? 文句はないよな? そう、文句なんてあるはずがないだろう――?

 俺は足を踏み出した。びくりと井田が萎縮する。井田の首を絞める、俺の腕はただその命令だけを遂行しようと、すっと井田へ伸びた。井田の、首元に。井田の首だけを見つめて、まっすぐに。俺は手を伸ばす、井田に近寄る、井田の首だけを絞めるために、ただただそのためだけに、俺は伸ばした手を井田の――



 ――井田の、肩に置いた。



「き、吉良?」

 井田が自身の左肩に置かれた俺の手を一見してから、また俺を見た。その顔は戸惑いの色で埋め尽くされている。対して俺も俺自身の行動にいささか驚いていた。

 なにやってんだ俺は。井田の首を絞めるつもりだったのに、手が、勝手に。言い訳がましく心内で述べて、俺はへらっと笑った。

 井田が困惑した顔つきのまま俺をじいっと見る。俺は井田の肩をぽんぽんと優しく叩いて、さらに深く微笑んだ。憤りとは裏腹に、温かい声音が自然と口を衝いて出る。

「……もー……やめてよーほんとそういうのさあ……。洒落になんないよ、まじ心臓に悪いって。超心配しちゃったじゃんか俺。俺たち、約束したじゃん。井田ちゃん、俺に黙って勝手に死なないって。三大自殺王は試さないって。俺びびっちゃったよまじでさー……学校来んの遅かったし、本気で井田ちゃんが死んじゃったかと思った」

 まあ約束はしてないんだけどな、俺が半ば脅したようなもんだし。それはさておき、ほっと安堵したように、緊張の糸が解けたように、脱力してその場にへたり込んだ俺に、狼狽した井田が「吉良……怒ってる?」と馬鹿みたいな質問を投げかけた。やっと口を開いたかと思えばそれかよ。

「怒ってないよーびっくりしただけ」

「……ごめん、なさい」

 きっと、どうして自分が謝っているのかもわかっていないんだろう。井田は。わけもわからず謝らされている現状を理不尽に感じているかもしれない。それでも井田はほいほいと謝ってしまう性格であった。井田は、()()()()()()だったのだ。

「いいよ。俺もきつい言い方しちゃってごめんね」

 にっこり笑って、俺はしゃがんだまま井田を見上げる。中途半端に屈んでこちらを覗き込んでいた井田が、ちょっとびっくりしたように瞳を丸めて――微笑んだ。

 それは、俺が見たことのない微笑みであった。いつも顔面に貼りつけているがちがちの固まった笑顔とは違う、はにかむような控えめな表情だったのだ。

 井田の意外な顔に面食らって、俺はがしがしと後頭部を掻いた。あれ? なんだ、さっきまで俺、憤慨してたんじゃなかったっけ。あれー? 今度は俺自身が混乱する番だ。しかし俺はそんな態度を極力明らかにせずに、「腰抜けちゃった」とおどけた。そのまま、言った。

「悪いんだけど――ちょっと手え貸してもらっても、いい?」

 まっすぐ右手を伸ばす。

 井田にむけて、俺は手を伸ばす。

 ついさっきまで井田の首を絞めようとしていたその掌を迷いなく井田へ差し出した。ついさっきまで井田の首だけを求めていたその手が、今は井田の手を求めている。俺の手を掴んでくれることだけを、ひたすらに求めている。

 幾分ためらいがちに井田が俺の右手を取った。井田の右手が俺の右手と直に触れ合う。その掌は俺が思ってもみないほど華奢で柔らかく、予想以上に温かかった。人の温もりというものを感じた。井田の手ってこんなに温かかったんだ、と俺は初めて知りえる。どうしてか井田には誰しもが持ちうる体温すらないような気がしていたので。

 悪い気はそれほどしなかった。それどころか俺はなぜか一瞬、井田の手を綺麗だと感じてしまったのだ。綺麗な手に触れられたことに、一瞬感動を覚えてしまったのだ。なんだこの感情は。ぐるぐると複雑に混じり合う思考がうっとうしい。おかしい。井田は生きているくせにグロテスクで、だから汚くて、綺麗なんてものとは程遠いはずで――え? あれ? それなのに俺は井田のことを綺麗だと思いなおしている? あれ? ええ? ええええ?

 もやもやとした重たいなにかを振り払うかのように、俺は綺麗な手に掴まって立ち上がる。そうして俺は無意味に笑った。徒らに微笑を生みそして未練なく捨て去ることで、こんがらがった俺の価値観を整理しようと躍起になっていたのだ、きっと。


 ――きっと。


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