05. 死にたがり [3]
そういえば自殺の手段って、いったいどれだけあるんだろう。
私は思いつくままに並べてみた。まずメジャーなのが首吊り自殺だろう。用意するものもロープ一本でいいと安価で簡単なわりに、致死率ナンバーワンだと聞く。首を絞められさえすればロープでなくともネクタイやマフラーや、電気コードでもなんでもいい。別に足が着かないところじゃなくてもドアノブで首を吊ることだってできるそうだ。なにより首吊りは気絶してから呼吸が止まるので、単に首を絞められることよりも苦しみが格段に少ないらしい。未遂に終わる可能性も低いようで、自殺志願者には最も好まれる方法だと聞いた。
次に鉄道自殺。列車に飛び込みぐちゃぐちゃになって死ぬ方法。タイミングを計って一気に線路へ飛べば、もしくは初めから線路に寝転ぶなどしていれば、痛いと感じる間もなくあっというまに死ぬだろう。普通列車なら助かる可能性も捨てきれないが、特急列車なら間違いなく即死すると思う。ただ噂によると遺族に多大な損害賠償が求められるらしいので、そこが気がかりである。あくまでも噂なので真偽を確かめる術はないけれど。
そして投身自殺。高層ビルやマンションから飛び降りる。しかし充分な高さから飛び降りないと失敗し、もれなく後遺症が残る可能性が非常に高いらしい。飛び降りたあとも意識があって、想像を絶する激痛に苦しみのたうちまわりながら死んでいく場合もあるそうだ。首吊りや飛び込みと違って痛みへの恐怖がとても顕著で、またそれほどの高さから本当に飛び降りられるのか、勇気もかなり必要と思われる。さらに飛び降りた場所の大家や持ち主に損害賠償金の支払いを請求されることもあるそう。
私の知る限り、今挙げた三つの方法が頻繁に耳にする自殺の手段だと思う。だがほかにも――動脈を掻き切るだとか(けれど太い血管を切るためにはものすごい力で切り裂かないといけないらしく、また苦痛も凄まじいらしい)、洗剤を混ぜ合わせて有毒ガスを発生させるだとか(意識を失う前に気分が悪くなって無意識に換気してしまうこともあるそうで)、練炭を用いるだとか(とても暑いんだって)、海に飛び込んで溺死するだとか(水死体はひどいらしい)、農薬かなにか毒を飲むだとか(どうやって手に入れるんだろう)、山で凍死するだとか(死体はまだ綺麗なほうらしいけれど、どうも現実的でない)、銃でこめかみを撃ち抜くだとか(頭を狙っても意外と助かる可能性のほうが大きいらしい。だいいち拳銃なんてどこから調達すればいいのか)――たくさん、ある。
まあつまりは、「自殺の手段」なんて大層に銘打たずとも死ぬ方法なんていくらでもあるのだ。よりどりみどりだ。それこそリアルなものから非現実的なものまで、じっくり計画を練るべきものから衝動的にできるものまで、人間には多彩な死に方が用意されていて、いつでもどこでも数多の死からどれかひとつを(もちろん、ひとつじゃなくてもいい)自由に選ぶことができる。選択肢は無限にある。死にたかったらいつでも死ねるのだ。死ぬときゃあっさり死ぬのだ。
人間は、脆い。
「やっぱり首吊りが手っ取り早くて確実かなあ」
浅く息をついて私が吉良を見やると、それを合図にしたかのように吉良が紙パックに残っていた苺オレをストローで吸い上げた。ずぞろろ、と音が汚らしく響いたので冗談で顰めっ面を作ると、ストローを軽く噛みながら彼はごめんと笑った。
「てか井田ちゃんやけに詳しーんだけど。わざわざ調べたの、今のぜんぶ?」
ストローを口から離して吉良が訊ねる。訊ねながら片手で紙パックを握り潰すその様をぼんやり眺めつつ(めこっと音がしてパックがひしゃげた。かわいそうに)、「うーん、インターネットなんだけどね。だから本当かどうかはわかんないけどさー、でもそれしか調べようがなかったし、そういう本とかって全然ないよね」と答える。なんて便利な世の中なんだろう、パソコンひとつあれば大抵のことは調べられる。情報化社会万歳とでもいうべきなのかしら。
私の返答に吉良がいひひと歯を見せた。幾分噛み殺しているような笑い方だったけれど、洩れる笑声は隠しとおせていない。
「なんちゅーか律儀だよねえ井田ちゃんって。や、真面目ってゆーのかな、いやいや繊細っていうのかなー、ま、だから死にたいなんて考えちゃうんだろーけど」
投擲ーっと。えいや!とかなんとかひとりで叫んでごみ箱にひしゃげた紙パックを投げ入れる。綺麗な放物線を描いてごみ箱もとい小さなドラム缶に吸い込まれたそれを見て、吉良が指を鳴らした。この男のどこまでも能天気な素振りにいつまで経っても私は慣れない。
今やホームルーム前の自由時間は私と吉良の「朝の挨拶」場になっていた。私たちは登校してすぐこういった話に花を咲かせる。これが挨拶の代わりとなっている。教室で堂々と痛い会話を繰り広げるのは常識的に考えると異常なのだろうけれど、他のクラスメイトたちは思い思いに談笑しているのでわざわざ私たちふたりの会話に突っ込んでこない。そしてなにより吉良がその内容に似つかわしくないテンションではしゃいでいるため、傍目にはなんてことのない普通の話だと思われているだろう。
「井田ちゃん調べによると首吊りはまじで死ぬ可能性が高いんだっけ? じゃーそれはとっておきってことで最後に回そっか。俺のおすすめはまずは飛び降りかなあ、ロマンがあるよね。アイキャンフライ!って感じでさー。次に人身事故ー、もとい電車に飛び込むの。んで、ラスボスは首吊りだよね。やっぱ三大自殺王は制覇しときたいよねー」
まるで、こどもがゲームのシナリオを辿っているかのような口振りだった。吉良ははしゃいでいた、とても楽しげに。
私はそんな吉良を見て脱力すると同時に底知れない違和感を覚える。ただそれは忌むべきものではなく、私がこれまで吉良に抱いていた憧憬を覆すような――もしかしたら吉良は、私が思っているような完璧超人ではないんじゃないのか?という安心感にも似た、違和感。私が抱いている嫉妬は幻想にすぎないのでは?という安堵。吉良という少年は周りの羨望とは裏腹の人物なのではないのか? 死に対してこんなにはしゃいでいるように見える吉良は、吉良だって、吉良でさえ、実は私のようなどす黒い感情を持ち合わせているのではないかという、仲間意識。
そう、はしゃぐ吉良を見るたびに私は共感を覚え、仲間意識を募らせ、嫉妬をゆるやかに融かしていくのである。それは吉良に失礼なことではあったけれど、私の心の均衡を保つのにとりあえずは役立っていた。
私は吉良に親近感を持ち始めていたのかもしれない。もしくは、自分とは正反対な「目立つ存在」である吉良と、誰も知らないような深い話をしていることに優越感を抱いていたのかもしれない。どちらにせよ、醜い感情には変わりなかった。私の中身は汚れている。さすがにここまで突っ込んだ汚れについては吉良の与り知らぬところであると思う。
「なんにせよ」
煌びやかな装飾品が表面を覆いつくしている耳朶を引っ張って、吉良が続ける。「そこまで調べちゃったんだったら、井田ちゃんのことだから今すぐにでも実行しちゃいそーだよね。でもそれはなし。俺に黙って勝手に死ぬのはなし。わかった? オッケー? 了解できる?」
あ。約束破ったらぶっとばすよ? いいね? 思い出したように付け足して吉良はにこっと微笑んだ。
邪気のない笑顔を携えて彼は私を見据える。私は息を呑む。吉良の、こういうところが本当に本当に、本っ当によくわからない。吉良はいったいなにがしたいんだろう? 私の自殺を止めたいなどと言うわりにはすぐ殴るだの蹴るだの口にするし、そもそもそういう乱暴な言葉が彼の口から発せられることすら意外であったし、だからといって意地悪な態度は見せない、むしろ今まで以上にどことなく優しい吉良である気がする。なので、私はうまく頷くことができなかった。吉良に黙って調べた方法を実行しないとは言いきれなかったし――そのように押し黙る私を見かねてか吉良がすっと目を細めた、まさにそのときだった。
きゃあっと教室の前方、扉付近に固まっていた数人の女子が甲高い悲鳴を上げた。目を細めたまま無表情でそちらへ振り向いた吉良に続いて、私もぎこちなく視線を彷徨わせる。
どうやら女子たちは今しがた教室に入ってきたクラスメイトを見て叫んだようであった。おはよーとのんびり挨拶を告げたその人物の周りにわっと群がりができる、そのようすを見た男子たちもそこに集まって、ちょっとした騒ぎになる。みんなが口々に「そーなの? よかったー、びっくりしたんだよ昨日は!」「まじで血すげー出てたしな」「あのあと大変だったんだからー。実験は中止になるし先生たちばたばたしてたし」「縫ったりしたの?」などと言い始めたのが聞こえて、ああ松岡さんか、と私は納得した。
群集の隙間から、その中央でへらへらと笑っている当事者がちらりと見えた。そこにいたのはクラスメイトの松岡さんだった。松岡さんは左頬をガーゼと包帯で真っ白に埋め尽くして、友人たちに笑顔を振り撒いている。そんな彼女を案ずる周りがさらにわいわいと声を投げかけた。みんな松岡さんのことをとても心配していた。それもそのはず、なぜなら昨日の六限目、化学の実験中に割れた試験管の破片で松岡さんは顔に傷を負ってしまっていたからである。
彼女が怪我をした瞬間、化学室には女子の悲鳴がこだましていたことを私は思い出す。私ももちろんその場にいた、松岡さんとは実験グループが違ったため怪我をしたところは目撃していないけれど。あのとき左頬からものすごい量の血を流していたにもかかわらず、松岡さんはだいじょーぶです、とへらっと笑っていたのだ。たぶん周りに心配をかけさせないためだったのだろう、だってほら、今だってだいじょうぶだいじょうぶと繰り返しながら笑っている。とても綺麗に。
松岡さんもまた、吉良と同じような位置にいる女の子だった。いつも明るくて、人気者で、のりがよくて、友達が多くて、誰とでも親しく話すことができる。ゆえに、とても目立つ。悪い噂を聞いたことがない。それに、栗色に染めているパーマがかった髪、極端に短いスカート、美しく彩られた長い爪、ばっちり決めた濃いめのメイクなどなど、いわゆる典型的ギャルだったけれど、でもそんな華美な格好がこれまた似合っていて、彼女が生まれ持った美しさを殊更際立たせているようであった。女版吉良だ、と私は密かに思う。吉良が男版松岡さん、ともいえるかもしれないけれど。
だからそんな彼女が顔に傷を負った(しかもざわめきに聞き耳を立てると、なんと五針も縫ったのだと知った)というのは周囲にとってみれば多大なショックになりえただろう。当の本人はなぜかあっけらかんとしているようであったが、直接的な関わりのほとんどない私でさえ、女の子で、しかも美人なのに一生ものの傷が残るなんて、と沈んでしまいそうになるほどなのだ。とにかくそんな彼女を誰しもが心配するのはあたりまえのことであって、いつも以上に松岡さんは注目の的となっていた。
だいじょうぶ? だいじょうぶ?という声が絶え間なく鼓膜に届く。松岡さんは「心配されてあたりまえ」の立場にいるひとだった。彼女が怪我をすると、みんなが同情するのは「普通」のことだった。彼女はそれだけ友達が多くて、もちろんのこと好かれていて、私とは似ても似つかないひとだった。同じ人間なのに、ましてや同じ性別なのにどうしてもこうも差が出るんだろう、と私は再び惨めになる。松岡さんもまた例外なく私の嫉妬の対象であった。女版吉良の彼女を私は羨んでいた。
本当に、どうしてこんなに違うのだろう。なにがいけないんだろう。私はどこが間違っているんだろう。彼女を羨めば羨むほど、自分の屑っぷりが浮き彫りになる。そして思考はスタート地点に舞い戻る、「死にたい」と。私は私を松岡さんの立場に置き換えて考えてみる。もしも私が彼女と同じく怪我をしてしまったら、みんなあんなふうにだいじょうぶ?と声をかけてくれるだろうか。人だかりができるほど集まってくれて心配してくれるだろうか。心から気にかけてくれるひとがひとりでもいるだろうか。いや、それはありえない。絶対にありえないのだ。だって私と松岡さんはまったくの別人だから。どう足掻いても、私が松岡さんになることは叶わないのだから。
……死にたい。
「――まーたトリップしてるよ井田ちゃん。ほんっとわっかりやすいねえー」
突如降ってきた陽気な声音にはっとして、私は吉良のほうへ振り返った。慌てて笑顔をつくろうとする、が、うまくいかない、唇が引き攣る。無理矢理笑おうとしている私が滑稽だったのだろう、代わりにいひひと吉良が笑ってくれた。しかしその眼は完全に据わっていた。
「鬱モード入ってたでしょ、俺にはわかるよん」
未だクラスメイトにもみくちゃにされる松岡さんを一瞥して吉良が呟く。どきりとした。ばればれなのか。そんなことないよ、返して私はせいいっぱい冗談っぽく肩を竦める。けれども吉良は「いーや」と首を振った。
「なんかだんだん井田ちゃんのことわかってきたし。もし自分が怪我したら松岡みたいにみんな心配してくれるのかなーてゆーか、私には心配してくれる友達がいるのかしらーとか考えてたんでしょ。図星?」
声のトーンが徐々に下がっていく吉良にそんなことない、と再び反論しようとして――私は口を噤んだ。へたな言い訳は吉良の言葉を肯定することになる。いや、肯定もなにも吉良の言ったことは紛れもなく事実であった。
私の心を見破る吉良から目を逸らして、違うよ、と蚊の鳴くような音を発した。それが無意味だとわかっていても、形のうえでは否定しておきたかった。かまってちゃんに成り下がる私は本当にどうしようもなく哀れで汚くて、いらつく人間なのだろう。吉良がはああと大きく溜め息をつく。それを聞いて私の心臓が跳ね上がる。
「なーんでそういうこと考えちゃうかなあ……心配するやついるじゃん、俺とか俺とか俺とか、俺とか。
井田ちゃんは自分のことにいっぱいいっぱいで周りが見えてなさすぎなんだよ。そこが井田ちゃんのいーところでもあり悪いところでもあるんだよたぶん。でもさ、そういうのってさ。ほんと俺、精神的グ――あっ、おはよー松岡!」
せーしんてきぐ、と言いかけた刹那、語尾を急に切り上げて吉良が右手を高く掲げた。私は俯いていた顔を上げて吉良の目線を追う。
それは、人だかりからようやく解放された松岡さんが私たちの前をちょうど横切ったときであった。松岡さんが自席に向かっていた足を止めて後方へ首を回し、ああと言って私たちの許に近づいてくる。ふわりと髪が揺れて微かに香水の香りが鼻腔に届いた。甘い匂いだった。
「おはよー吉良。おはよう井田ちゃん」
にこっと表情を解して松岡さんが言う。おはよーんと二度めの挨拶を告げる吉良に遅れて私もおはよーと明るく唇を動かす。セイシンテキグ、そのあとに続く台詞を聞き逃してしまった。吉良はそんなこと忘れてしまったかのように、落ちていたトーンをすっかり持ち直して「おーおー痛そうな。それ痕残るんでねーの?」と普段の調子で笑った。
「残るよ。縫ったし」
真っ白な左頬をさすってあっさり述べた松岡さんに「あっさりしすぎだろ!」と吉良がつっこみを入れた。見ただけでわかる、仲睦まじい光景だった。私はひどく場違いな気がする。どうしてこのタイミングで、と話を尻切れ蜻蛉に終わらせた吉良を少し恨む。が、内心とは裏腹に私は「いつものように」明るく、屈託のない声調で松岡さんに問うていた。「松岡さんだいじょうぶ? 心配したんだよーみんな! 痛そうだよね……」
なんて厭な女だ私は、そう改めて感じる間もなく、作り物の私に綺麗に微笑み返して松岡さんが「井田ちゃん」と呼んだ。言った。「ありがとう。でもほんとだいじょうぶだよ、なんか思ったより痛くないし、心配しないで。井田ちゃんは優しいね」
どっかのバカとは違ってねー。付け加えて松岡さんは悪戯に笑った。どっかの馬鹿って誰ですか、訊いた吉良に、井田ちゃんの隣にいる変な髪の色したちゃらい阿呆みたいな誰かさんのことです。とふざけて松岡さんは言い返す。それは、間違いなく仲がいい者たちの応酬だった。私はふたりのように、こんなふうに、誰かと冗談交じりのやりとりをできない。できる気がしない。必死に取り繕って素の状態を曝け出せない。
じゃあ、と手を振って踵を返す松岡さんの華奢な背中を見守りながら私は思う。松岡さんと吉良は、似た者どうしであった。私は吉良に親近感を抱き始めていた。私は松岡さんとは、吉良とは、まったく異なる人間だった。それなのに私は吉良に親近感を抱き始めていた。
――どうして親近感なんて。どうして、共感なんて。どうして、そんな身の程知らずのことを考えていたんだろう!
「今のは明るいモードの井田ちゃんだったね」
松岡さんが私たちの視界から完全に消えたころ、吉良が出し抜けに言った。私は吉良を見なかった。見られなかった。そんな私にかまわず吉良はぺらぺらと軽く声を発する。松岡さんに接したように、変わらず私にも。その内容は説教に近しかったのに、吉良の話し方は明朗快活そのものであった。
「俺にはわかんない。なんでそんなに自分をつくる必要があんの? 井田ちゃん言ってたっけ、他人の目が怖いって。誰にどう思われてるのかが怖いって。だから自分をつくって、明るく演じちゃうって。必要以上ににこにこしてイイヒトのふりをしちゃうって。
でもさあはっきり言って、自意識過剰。単なる被害妄想だよ、それ。周りなんて井田ちゃんのこと、井田ちゃんが必死になるほど見てないんだよ。みんな赤の他人なんかどーでもよくて自分がいちばんなんだよ。他人がどう振る舞おうがどんな性格だろーが、自分にさえ害がなけりゃーぶっちゃけ、どーおでもっ! いいんだよ。みんな井田ちゃんが思い込んでるほど必死に生きてないんだよ。そんな自分を追いつめて生きてはないんだよ。てきとーに楽しーくふらふらと生きてるやつが大半なんだよ。
だから見てるこっちがさ、うわあって引くくらい、こいつ痛いなーって嗤っちゃうくらい必死になってニセモンの自分になんかならなくていーんじゃない? 他人の目ばっか気にしなくていいんじゃないの? 誰も井田ちゃんのことなんか見てないんだからさー。
なんでそんなにヒトが怖いの? なんでそんなに自分をつくっちゃうの? そんなんで疲れない? 生きてて楽しい? 少なくとも俺は楽しくないなあ。俺は自分をつくったりしないしいつも素だよ。俺は俺だし、井田ちゃんは井田ちゃん。誰かと比べてああ自分は屑だー鬱だーなんて思い込まなくていーじゃん。自分は自分、人は人なんだからさあ。そんなに卑屈にならなくていいじゃん。そんなに精神的グ、おっと、ネガティブにならなくていいじゃん。自分をつくって周りにいい顔するひとなんて誰にも好かれないよ。好かれなくて、あたりまえなんだよ」
……ああでも井田ちゃんはこんなこと、別に言われなくてもちゃんとわかってるんだったよね。わかっててもできないから苦しくて悲しくて死にたいんだったよね。
吉良の言うことがおそろしく正論であるには違いなかった。
周りは私を見てはいない。私が必死になっていい顔をして明るい人間として振舞う様を、逐一確認したりしてはいない。そんなこと初めから知っている。でも、わかっていても、頭では理解していてもできないのだから、自分を偽ってしまうのだから、こんなにも苦しいのだ。だから生きていても楽しくないのだ。吉良の言うとおりだ。すべて。すべて、すべて。
吉良は悪気なく、純粋に自らの考えを述べただけなのだろう。吉良なりの励ましだったのだろう。もっと肩の力を抜いて生きればいいじゃないというメッセージだったのだろう。けれど彼の言葉は鋭い刃となって私の胸に突き刺さった。彼が紡ぐ一字一句すべてが凶器になって、私を貫いた。
わかっている。それができたら苦労しない。知ったような口を利かないで。なにも知らないくせに。与えられるばかりの人間のくせに。私みたいな底辺の気持ちなんてわからないくせに。ずっと頂点に立つ人間から、崖下で喘ぐモノのようすなんて微塵も見えないくせに。
いくつもの醜い言葉が浮かんでは消える。すべて、敗者の台詞だった。痛々しい人間にしか思い浮かばないような、負け犬の遠吠えだった。私は自分のだめさは棚に上げて正論を吐く吉良ばかりを理不尽に責める、屑であった。図星を突かれたことが恥ずかしくて、情けなくて、私は打ちひしがれた。吉良との差異を芯から感じてしまった。
吉良は、強い。私は、弱い。吉良と私はこうも違う人間であった。吉良の強さは私が一生かけても手にすることのできない輝かしさであった。吉良が言う「普通」のことがまったくできない私はもはや人間と呼ぶにもおぞましい物体なのかもしれない。私はようやく、吉良と自分の違いを、吉良と私を「あちら側」と「こちら側」に隔てる越えられない壁という存在を再認識してしまった。
吉良と私は全然違う。似ているところなんてひとつもない。欠片もない。吉良を遠くに感じた。ものすごく遠くの存在に感じられた。こんなにも近くにいるのに、吉良がここにはいないように思えた。
……なにを馬鹿なことを。遠くもなにも、吉良が初めから私の近くにいるはずなんてなかったのに。
どうして私は吉良に親近感を覚えてしまったんだろう。どうして私は、吉良に対して仲間意識などという独りよがりの迷惑な感情を押しつけてしまったのだろう。私と吉良が似ているはずもなかったのに。私と吉良に、共通点なんか微塵もありえなかったはずなのに。どうしてのぼせ上がって、有頂天になって、もしかしたら吉良にだって私と同じような思いがあるのかもしれないと、おこがましいことを想像してしまったんだろう。
どうして綺麗なものと汚いものを似ているなんて考えてしまったんだろう。綺麗と汚いが同じ土俵に上がれるはずがないのに。初めから対照的なふたつが、近づくことなんてありえないはずなのに。それなのにどうして私は。こんなにも恥知らずなことを。惨めなことを。
心が押し潰される。胸がぎゅうっと締めつけられる。なにもかも破裂してしまいそうになる。どうして。どうして、どうして。どうしてどうしてどうしてどうして――!
……私はその夜、自宅で首を吊った。
しかし、死にきれなかった。