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死にたがりと殺したがりのグロテスク考  作者: 佐喜
死にたがり と 殺したがり
2/21

02. 殺したがり [1]


 世界は俺にとって綺麗か汚いかのどちらかでしかない。


 俺は万物を綺麗か汚いかに分類する。例外はない。この世のすべてが俺には綺麗であり、汚くもある。俺にはそのふたつ以外の選択肢がない。

 世界は俺にとって、美しいかおぞましいかのどちらかにすぎない。



 俺にはかわいがっている猫がいた。

 その猫は通学路にたびたび姿を現した。まだ小学生だった俺がそれに心を奪われるのはごくごく自然なことだったのかもしれず、俺はあっというまに猫に夢中になった。それは流れるような漆黒の毛並みと凛とした丸い瞳が特徴的な、とても美しい猫であった。すらっと伸びたしなやかな肢体に軽やかな身のこなし、つんと顎を上げる仕草にきりっと背筋を正す高貴な佇まい。とても、美しい猫であった。黒猫は不吉だとよく耳にするが、むしろその猫はとても尊く神の神聖な遣いすらにも思えるほどだった。飼い猫が脱走したのかもともと野良だったのかはわからなかったが、その振る舞いはそこらの猫とは比べ物にならないほど優雅であった。もしも飼い猫だったならば飼い主はよほど気品のある人物だと想像しただろうし、もしも野良猫だったならばぜひとも自宅へ迎え入れたいと考えただろう。けれども惚れ惚れするほど美しいその猫は、単に飼い猫だの野良だのと簡易な言葉で表すにはふさわしくない物体だとも思えた。

 とにかく、それは美しい猫であった。

 俺は小学校まで続く広い一本道でそれをよく目にした。朝学校へ向かうとき、夕方家へ向かうとき、登下校中関係なく、見かけるたびに小走りで近づいては柔らかな毛に包まれた小さな頭を人差し指でそっと撫でた。不思議なことに猫は俺の震える指先を拒絶しなかった。他の人物がわあ綺麗な猫だ、と甲高い声を上げて触ろうとするならばすぐさまひらりと身を翻してどこかへ去ってしまうのに、俺の姿を認めるとまるで触れてほしいとでも言うかのようにこちらへ寄ってきた。そしてつい、と首を差し出すのだ。いつもは気高い猫が、俺だけに見せるかわいらしい一面であった。俺はその意外な面を自分だけに見せることが嬉しくもあり誇らしくもあり、また優越感が全身を支配していることを知った。俺は奇妙な痺れが背中に広がるのを実感しながら、毎度猫の頭を撫でた。おそるおそる伸ばした指先はいつのまにか堂々としたものに変わっていた。

 思えばこれが、俺が初めて抱いた「美しい」という感情だったのかもしれない。


 ある日の朝、いつものように俺は一本道を歩いていた。曇り空を憂鬱に見上げながら傘を振り回して通学路を進んでいた。寝坊して遅刻したので、いつもは小学生で賑わう道には俺以外の人間がいなかった。この広い一本道が自分ひとりだけのものになったような錯覚を起こして、先生に怒られるだろうけど遅刻もたまにはいいかもな、と俺は調子づいていた。

 そんなガキの横を一台の車が通り過ぎる。通学路ということで普段は交通量が少ないその道で、なぜかその日に限って次から次へと車が通り過ぎては曲がり角で消えていった。大半が緩やかな速度だったが、なかにはエンジンをふかしものすごいスピードで走り去る暴走車のようなものもあった。あぶねーなあとこども心に感じたことを今でも憶えている。そして、同時に厭な予感がしたことも。

 半分ほど道を進んだところで俺は車線側にあるブロック塀の上を悠々と歩くあの猫に気がついた。猫もこちらに気がついた。一人と一匹で一瞬目を合わせたあと、猫がおもむろに塀から飛び降りた。きっとまた俺に撫でてもらおうと思ったのだろう、俺も同じ考えだったので、高鳴る鼓動に目を輝かせて一歩足を踏み出した、瞬間だった。

 ごしゃっとなにかが潰れるような醜い音がして、猫が空高く弾き飛ばされた。次いで遠ざかるエンジン、ひとり残された俺。目を輝かせて口を半開きにして右手を中途半端に上げたまぬけな格好のまま、固まる俺。遅れてべしゃりと地に落ちる黒色の「モノ」。猫だ、とわかった。猫がこちらに向かってきた瞬間、馬鹿みたいにスピードを上げた車がそれを轢いたのだとようやく理解した。車はすでに角を曲がって見えなくなっていて、あとには猫の死骸と向き合う小学生の俺だけがそこにいた。

 俺はがくがくと膝を笑わせながら「それ」に近づいた。「それ」は無残な屍と成り果てていた。細く小さな身体の下から広がるどす黒い液体が、アスファルトを滑って俺の足元に向かってくる。血溜まりのなかにぽかんと浮かぶ汚れた黒を真上から見下ろして、俺はひっと呻いた。折れ曲がった耳、ありえない方向に砕けている四肢、あんなにも滑らかな毛並みが今や薄汚く濡れて、さらに早くも乾きかけている。特徴的な丸い瞳は右側がでろりと零れ落ちていて、かすかに開いた口から舌のようなものがはみ出ている。その腹は大きく縦に裂け、ああ思い出すのもおぞましい、とにかく、いわゆる「中身」がぶちまけられていた。悪臭が辺りに漂い始める。

 俺は吐き気をこらえてその場から駆け出した。いや、逃げ出した。俺は別に悪いことはしていない、俺が猫を殺したわけではない、しかし、どうしてなのか俺は俺自身が悪いような気がした。誰かに見られていないか不安になった。あいつは猫殺しの最低なやつだと言われないかひやひやした。幸いその場には誰もいなかったため、俺が猫殺しの汚名を着せられることは後にも先にもなかった。俺は安心した、そして、安心した自分に吐き気を覚えた。


 そうして猫はあっけなく死んだ。

 あまりにもあっけない最期に俺は少し拍子抜けする。あんなにも貴やかなあの猫は、俺の目の前で金属の塊に撥ね飛ばされ内臓をぶちまけて死んでしまった。生臭い、厭なにおいを撒き散らして「汚物」になったのだ。

 猫が死んだその日の帰り道、俺は帰路の途中でまたもや例の猫を見た。猫は朝に撥ね飛ばされたまま寸分変わらぬ位置に放置されていた。俺は驚いた、誰かが()()()()くれているだろうと根拠もなく考えていたからだ。だがそんなことがあるはずもなく、あくる日も、あくる日も猫はそこに横たわっていた。通学路を利用する小学生たちがそれを見てぎゃーだとかわーだとか悲鳴を上げる、その悲鳴も嫌悪に満ちたものではなく、興奮にまみれた、馬鹿にするような見下すような、けれども悪気はない純粋な好奇心から生まれた声である。ただ自覚のない悪意が込められている。どこからか枝を拾ってきて死骸をつつく「勇者」もいた、周りが囃したてて一際大きな声を上げた。しばらくして飽きたのか、またもや無意味にぎゃああと喚いて猛スピードでどこかへ走り出す。猫の死骸に恐怖を抱く者はいなかった。気持ち悪いだとか汚いだとか言う奴はいても、怖いと口にする者はいなかった。俺の知る限り。

 誰かが猫を片付けてくれているはずだなんて、どうして思っていたんだろう。

 猫は猫であり、それ以上でもそれ以下でも、何物でもなかったのだ。道行く人は不快な表情でそれを一瞬見やるだけで、猫を弔おうなんて素振りを見せる者は誰ひとりとしていなかった。猫はそのまま虚しく放置されていた。そこにあるのがあたりまえになって、初めは騒いでいた小学生たちも、もう見向きもしなくなった。平然と死骸の横を歩く。

 数日経つ。死骸には蛆がわき出した。肉が侵食される、骨が見え始める。雨が降った。どろどろに融ける身体、黒い頭を這う白い蛆。遅れて現れる糞尿。また日が過ぎる。穴の開いた眼窩、眼球らしきものはどこにも見当たらない。数日経つ。猫はいつのまにか姿を消していた。うっすらと染みが残るだけになった。猫は俺の希望どおり片付けられたのだ。雨と蛆とその他諸々に。

 ……キタネエなあ。

 猫が溶けたあともしばらく無様に這い回る蛆を横目に、俺は純粋に思った。




 これが原因だとは、決して言わない。

 しかしそれからというもの、俺はことあるごとに綺麗だの汚いだのとそんな台詞を口にするようになった。

 動物園で孔雀を見た。綺麗だなあ。家に帰って鶏肉を食べた。汚いなあ。水族館で自由に泳ぐイルカを見た。綺麗だ、美しい。どこかの料理店で焼き魚を食った。なんだこのハラワタは。汚すぎる。映画のカーチェイスを見た。華麗なハンドルさばきにぞくぞくする。美しい。渋滞している車の大群を見た。汚ねえ。覚束ない足取りのぼろ雑巾みたいなひどい野良犬を見た。いいじゃん、生きているって美しい。車に轢き潰された雀の死骸を見た。あああああ汚ねえ、グロい。グロすぎる。グロテスクだ!

 食べ物だの無機質な物体だのそんな括りで綺麗だ汚いと振り分けているわけではない。俺はただ単に、感じるままに綺麗か汚いかに分けているだけだ。そして俺の場合、その「汚い」という感情がそのまま「グロテスク」に直結しているだけであって、グロテスクの反対はすなわち綺麗で美しく、じゃあ綺麗でもなく美しくもないものは? 簡単だ、グロテスクで汚らわしい。じゃあおぞましくも穢れてもいないものはなんだ? そんなの綺麗で美しいに決まっているじゃないか。なあんだ、簡単だ。この世の中はすべて綺麗か汚いかに分けられる。美しいかおぞましいかに分けられる。俺にはそれしかない。俺にはそれしかありえない。

 別にグロいからといって敬遠したり綺麗だからといって必要以上に触れたくなったりするわけでもない。淡々と、綺麗か、汚いか、そのふたつに分類する。だからハラワタだって普通に食えるし蛆だってどんとこいだ。蛆はさすがに食えねえけどな。死体だって目を逸らさずに見つめることも可能だし、だいいち死体なんてそうそう珍しいものでもない。年間何万人が死んでると思ってるんだ、ちょっと歩けばそのへんに転がっているだろう。

 綺麗か汚いかは目に見える物質としてだけではなく、精神面にも適用される。たとえば、だ。前向きでプラス思考で将来をしっかり見据えていて、未来に希望を抱いているごくごく一般的な精神を綺麗で美しいとするならば。生きることを楽しいと思っているごくごく普通の、俺みたいな一般人を綺麗なものだとするならば、だ。じゃあその逆は? マイナス思考でネガティブで過去ばかり振り返って自分の人生に意義を見出せない、死にたい、苦しい、辛い、なんにも楽しみがない、なにに対しても否定的、お先真っ暗だと勝手に思い込んでいる。こんな精神は俺にとってはグロテスクに値するわけだ。

 フィジカルのグロテスクはそりゃもう本当に汚らしく穢れていて、とにかくグロい。でもメンタル面でのグロテスクもそれに負けず劣らず汚れている。だから俺は勝手に、精神的グロと呼んでいる。

 そうとはいえ、今まで生きてきた十七年間で「こいつはまじで精神的グロだ」と納得するほどのやつに俺は出会ったことがない。なぜなら俺はグロとは程遠いプラスのパワーに溢れた人間だからである。俺は生きている人間をすばらしいと思う。人間だけではない、生きとし生けるものすべてが美しいと思っている。生きている、ただそれだけで美しいと心の底から感じている。だってそうだ。死んだら終わりなのだ。死んだら汚物に成り果てるだけなのだ。内臓という最強のグロを撒き散らして醜く息絶える汚物に成り下がってしまうだけなのだ。

 だからそういう俺にはそういう人間が近寄ってくる。俺の周りは美しいものばかりである。姿形が麗しいという意味ではない、内面が生きる力に輝いている、そういった、生物としての最高の魅力を持った人間が多く集まる。クラスメイトのあいつも、こいつも、そいつも、みんな綺麗だ。美しい。本人たちは別に深く考えているわけではないだろう、それでも俺はほとほと感心する。やっぱり生きるっていうのは綺麗だ。美しい。

 そう、素直に思っていたのだ――そのときまで。



    ◆



「死にたい」


 ……とかなんとかぬかしやがったこの女は。

 俺は両目をかっぴらいて井田をまじまじと見つめた。井田は俺の視線に気づいていないようだった、ぼんやりと窓枠のむこう側を眺めている。俺はそれどころではない、おいおいまさか、俺の周りにこんなことを言うやつが巣食っていただなんて。え、まじで? 井田に聴こえないように細く呟く。

 生きることはすばらしい。生きるだけで美しい。生きているだけで価値がある、人間も、動物も、昆虫も、草花も、微生物も、なにもかもすべて。

 それをこの女はくだらんだのつまらんだのなんだのつらつらと言葉を並べて全否定している。おいおいおいおいわかってんのかおまえは? 死んだらゴミになるんだぞ、ゴミだぞゴミ。でかい生ゴミになるんだぞ。それが綺麗か? 美しいか? ありえない。ありえねえ! そんなの単なるグロでしかないだろう!

 ――それでも俺の心に浮かび上がったのは殺意なんて物騒なものではなく――


「へえ……井田ちゃん、死にたいんだ」

 ――興奮だった。


 しかたのないことだ。生まれて初めて「精神的グロ」に出逢ったんだから、興奮するのがあたりまえってもんだろう。初めてあの美しい猫に出会ったときと同じ、好奇と興奮と抑えきれない衝動が俺を支配する。俺は心を奪われた。猫と井田を重ねた。

 井田はとくに美人だとかなにか目を惹くような部分があるだとかそういうわけではない。顔はまあ十人並み、やや癖のある髪を背中あたりまで伸ばして、スカートは女子高生らしく短めではあるけれど別に制服自体を着崩しているわけでもなし。俺みたいに変な色に髪を染めていることもなく、おそらく生まれたままのものだろう真っ黒。特別肥えているわけでも痩せているわけでもなく至って普通、中肉中背。特徴らしき特徴なんて見当たらない、本当に普通の女。平々凡々のどこにでもいそうな高校生だ。それでも俺と仲がいいのだから、他の友人と同じように井田だって美しい人間だと思っていた。勝手に。

 それがどうだ、蓋を開けてみれば井田はどうしようもなくネガティブでマイナス思考で自分に自信がない、卑屈で、臆病者で、見栄っ張りで、まだたった十七歳のくせに自ら命を絶ちたいとほざいているグロテスクな人間だったのだ。

 生きているのにグロテスク。なんだ? この矛盾は。

 生きていたらそれだけで儲けものなのに、美しいのに、井田は精神的グロである。いや、俺が知らない――知ろうとしない――だけで、井田みたいなやつがこの世に溢れてはいるのだろう。でも少なくとも俺がこんなにも近くで出逢った精神的グロは井田が初めてだ。

 生きているグロがもし死んだとしたら、はたしてどれだけのグロになるのだろうか? それは俺の、綺麗か汚いかという価値観を変えてしまうのか?

 ならさっさと死ねよ。死にたい死にたいなんて口だけじゃなくその窓を開けてさっさと飛び降りろ。喉まで出かかった非道な言葉をすんでのことで呑み込む。

 井田は本当は死ぬ気がないのだろうか。死ぬ死ぬ詐欺なだけなのだろうか。どうしようか。そうだとしたら俺が手伝ってあげるべきだろうか? そうだよな?


「じゃあさー、俺が手伝ってあげよっか?」

 俺はわき上がる欲望を抑えつけることに必死だった。これは断じて殺意などではない。別に俺は快楽殺人犯などではない。俺はごくごく一般的な、ありふれた、普通の、生きることに肯定的な、プラスのパワーに溢れた、ちょっと調子にのりやすい単なる男子高生なのである。ああしかし、けれども、でも、だが、俺の内面にある種の――精神的グロがむくむくと生まれ出でたのは、紛れもない真実だった。ああやべえ。「井田ちゃん」俺はにっこり微笑む、井田が俺を見返す、俺はよりいっそう深く深く笑いかける、井田が怪訝そうに眉を顰める。おい井田。精神的グロな井田。あああああまずいな俺は。わかってしまった、俺はまじでこいつを、


 殺したい。


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