土豪 45
一際に巨大な体躯を誇るオークが、村を占領した獰猛なオーク族の隊列をかき分けながら姿をあらわした時、村人たちの誰もが緊張に息を飲んだ。
リネルを捕まえた向こう傷のオークもオグル鬼を思わせるような並外れた巨漢だったが、そいつはさらに一回り大きい。
他のオークよりも優に頭一つは優っていた。まるで二足歩行する熊のようである。
辺境の大方の人族やオーク族の男たちが五尺(150cm)から五尺四寸(160cm)ほどの背丈で留まっている事を考えれば、六尺(180cm)を遥かに越える長身が正対するものにどれほどの威圧感を与えるかは想像に難くない。
オークの戦士団を率いる巨漢は優に六尺五寸(195cm)は有ろうか。下手をすれば七尺近くあるかも知れない。
異種族の巨漢が金属製の環を縫い付けた革鎧を纏い、巨大な戦斧を手にしているのだ。尚更に恐ろしく見えても無理はない。
環鎧を纏った巨躯のオークは、ゆっくりと前に進み出てきた。
虜囚となった村人の塊が自然と真っ二つに割れて、武威を放つオークが真ん中を歩くだけで人々の間に水上の波紋のように静けさが広がっていく。
しんと静まり返った緊迫した雰囲気の中、集められた村人たちが不安そうに顔を見合わせていると、巨漢のオークは虜囚たちの並んだ顔に視線を一巡させてから低い声で囁いた。
「村長は?」
雇い主であるルッゴ・ゾムの呼びかけに、半オークの密偵フウが素早く応える。
オークのなかから躍り出ると、恨めしそうに自分を睨んでいるリネルの傍らへと駆け寄って指し示した。
「この人だよ、旦那」
「……畜生、あんたなんかに情けを掛けるんじゃなかったよ」
忌々しげなリネルの捨て台詞を耳にして、フウは薄笑いを浮かべつつ言葉を返した。
「姐さんも人を見る眼がないねぇ」
「……この!」
カッと頭に血が昇ったリネルが手を振り上げた。パンと甲高い破裂音が空き地に響き渡る。
「おお、いてえ」
頬を張られた半オークの密偵フウは、仲間たちからあまり好かれていないのか。
情けない姿を目の当たりにした他のオーク達が、どっと囃し立てるように嘲笑を上げた。
もう一発叩こうとして手を振り上げたリネルの腕を、素早く向こう傷のオークが掴んだ。
「そこまでだ。こっちへ来い」
小さい悲鳴を上げて巨漢の頭目の前に引き出されていく年増女の背中を見送ったフウは、ほろ苦い笑みを浮かべつつ、おどけるような仕草で頬を擦っていた。
「ルッゴ。村長だ」
向こう傷のオークに突き飛ばされ、よろめくようにしてリネルは巨漢オークの前へと押し出された。
巨漢のオークは気の効く手下の一人が何処からか調達してきた椅子に腰掛けて、しかし、それでも立っているリネルと目線の位置が一致していた。
「……ふむ、女か」
呼びかけに思わず喉を鳴らしたリネルは、こいつが襲撃者たちの頭目だと、言葉にせずとも悟った。
間違えようもない。身なりや体格以前に、纏っている雰囲気が凡百のオークたちとはまるで違った。
向こう傷のオークも巨漢だが、目の前のオークに比べれば逞しい大人と線の細い少年ほども違うように見える。
辺境の小村落とは言え、長年、街道筋の村長を務めていれば、それなりに人を見る目も育つ。
斥候を見誤ったばかりで幾らか自信がは揺らいでいるものの、少なくとも節穴ではないつもりだ。
辺境で勇士、豪傑と讃えられる戦士の幾人かと顔を合わせた経験もあるし、先日、知り合ったばかりの東国の女武者からも、どこか尋常ではない凄みを嗅ぎ取っていた。
しかし、目の前のオークから感じ取れる圧倒的な存在感はどうだろう。
敵だから覚えた恐怖もあるかも知れないが、はっきり言って、今まで目にしたどんな豪傑よりも強い印象を覚える。
手長と呼ばれる強力無双の盗賊を目にした時のことを、リネルは思い出していた。
眼前のオークのよく発達した腕の筋肉は、手長にも負けず劣らずの力強さで、まるで丸太のようだ。
しかも『手長』は、通称が示すように特に腕が肥大していたのに対して、目前のオークからは四肢全体から力強さが見て取れる。
広い肩幅に分厚い胸板ではあるが、巨人族やトロル族のようなどこか歪さを感じる巨躯とは違う。均整の取れた四肢はよく鍛えられ、引き締まっている。
分からないけど……兎に角、只者じゃない。
巨漢のオークを見上げつつ緊張に喉を鳴らした村長の背は、何時の間にか冷たい汗でびっしょりと濡れていた。
「お前が村長か?女」
巨漢のオークが身を乗り出すと、それだけで腰掛けている椅子がみしみしと音を立てて軋んだ。
「は、はい。お偉いオークの大将さま」
平伏したリネルは、声を震わせながら顔を上下に揺り動かした。
「聞きたいことがある。正直に応えることだ。そうすれば命までは取らん」
巨漢のオークの低い声は意外と穏やかであったが、見据えてくる目には偽りや虚勢を許さない強い威圧を宿して、リネルは震え上がった。
「なんでもお答えします。命ばかりはお助けを」
脈打つ心臓が喉から飛び出そうなほどに脅えている年増女に顔を近づけると、巨漢のオークはたくましい声で一言。
「グ・ルムはどこだ」
洞窟オークの頭目の安否を尋ねるルッゴ・ゾムだが、村長は予想外の反応を見せた。
「グ・ルム……でございますか?」
聞き覚えがない名前なのか。ルッゴ・ゾムの問いかけに、リネルはぽかんとした顔で聞かれた名前を繰り返す。
不機嫌そうに眉根を寄せるルッゴ・ゾムの様子に、リネルは慌てた様子を見せた。
「そ、そのグ・ルムとは、な、何者でしょうか?大将さま!」
「この村に攻め寄せた洞窟オークの頭。お前らの捕らえた洞窟オークの族長だ」
返答を耳にしたリネルが顔を強張らせるのを見て、ルッゴ・ゾムは微かに瞳を細めた。
何かを知っているのは間違いない。
「族長は何処にいる?」
再度の問いかけにも、リネルは答えない。答えられない。
ご要望の人物は豪族たちに売り飛ばしました。なんて言ったらどうなるだろう。
悪い方向に想像力を刺激されて、リネルは顔色を変えつつ必死で首を横に振るう。
「し、知りません」
「本当か?」
「……し、知りません。誰で、何のことだか。さっぱりで」
分厚い身体のオークの恐ろしい形相を目の当たりにした年増の村長は、グ・ルムを引き渡したこと以外は正直に話そうとあれこれと弁解を捕捉する。
「豪族や奴隷商人に何人かの洞窟オークは渡しました。でも、どいつが洞窟オークの頭かさえ、私たちには分からんです。大将さま」
「ふむう」
命がけの緊迫感も伴った取り繕う言葉の必死さは、ある種の説得力をリネル村長の弁解に与えて、ルッゴ・ゾムも一時は信じかけた。
と、その時、突然に二人の後方で叫びが上がった。
「……嘘だッ!」
助け出された洞窟オークたちのうちから一匹が立ち上がって、声も限りに叫んでいた。
「そいつは嘘をついている!」
よろよろと立ち上がってあらん限りの掠れた声で叫んでいるのは、痩せ衰えた洞窟オーク。
「そいつがグ・ルムを引き出して、引き渡しているのをこの目で見たんだ」
グ・ルムを豪族たちに引き渡した際、広場の隅にずっと縄で縛り付けられ、ゴブリンにいたぶられていた洞窟オークだった。
リネルの顔色から、鮮やかなほどにさあっと血の気が引いていく。
「グ・ルムを豪族たちに引き渡す時……その女は、こう言った」
咳き込みながら、洞窟オークは言葉を続ける。
「……こいつは洞窟オークの大将だ。グ・ルムがオークたちの計画を知ってるから、拷問して吐かせるべきだって豪族たちに言ってた!」
喉が枯れ、声が低く掠れていて聞き取り辛くとも、その叫びに宿った真情は誰にも見紛いようがない。
「確かです。大きなオークの大将さま!信じてください!」
「女ァ!!!」
向こう傷のオークが魂消るような大音声を張り上げると、リネルは文字通りに飛び上がった。
「知らないよぉ!そんな奴!知らない!」
「俺は……本当の事を言えと言った」
射抜くような視線を注いでいたルッゴ・ゾムが戦斧を手に取ってのっそりと立ち上がると、必死に言い訳していたリネルは恐怖に青ざめながら後退った。
背中が近くにあった楡の木に当たると、いよいよ切羽詰ったリネルは、遂にへたり込んでしまった。
「あたしみたいな貧しい農民が、殿様のクーディウス家に逆らえる筈ないんだよぉ!後はそれっきりだよ!何も知らない!勘弁しておくれぇ!」
恐怖に心折れてヒステリーを起こしたのか。
破れかぶれにわめき散らしていたリネルは、やがて顔をくしゃくしゃにし、楡の木に縋りついたまま地面へと崩れ落ちる。
どう考えても、こんな状況で嘘をつけるほど女村長の肝は据わっていないだろう。
リネルの半狂乱の態を見下ろしていた向こう傷のオークが、忌々しげに舌打ちしてから頭目に指示を仰いだ。
「どうする?」
「連れて行ったのはクーディウス家か」
クーディウスの名を耳にして、ルッゴ・ゾムの表情が流石に険しさを増していた。
近隣では最大最強の武力財力を誇る豪族たちの代表格であり、幾度となく干戈を交えてはオーク族に苦汁を舐めさせている彼の一族は、ルッゴ・ゾムにとっても容易ならぬ相手であり、また彼の属する丘陵のオーク氏族にとっても積年の宿敵であった。
「グ・ルムとやらの知っている計画というのは、まずはカーラの企みだろう」
彼方のモアレ村を思い浮かべ、そこで盛んに動き回っている妹カーラが、宿敵である豪族クーディウス家に動きを察知されたことにルッゴ・ゾムは危惧を抱いた。
ルッゴ・ゾムにとって、カーラは族長の後継を争う競争相手ではあると同時に、残り少ない身内でもあった。
漆黒の暗雲がたちこめる北の空を見やりながら、ルッゴ・ゾムの呟く声は僅かに苦味を帯びていた。
「それを人族共が嗅ぎ付けた。拙いことになったのか……それとも」
泥だらけになった二人の子供が、とぼとぼと土手にはさまれた隘路を歩いていた。
冷たい風の吹き荒ぶ中を、鼻水を垂らしているメイも、ガチガチと歯を鳴らしているニーナも一言も喋らなかった。
母の待つ奥まったあばら小屋へ向かって重い足取りで進みながら、しかし、戻ってからどうするべきか。ニーナには、まるで思い浮かばなかった。
病身の母ノアを、どうにかしてオーク族の徘徊する村から連れ出さないとならない。
だけど、どうすればいいのか。
痩せた非力な少女であるニーナには、到底、母親を負ぶさる事など出来ない。
考えている合い間にも、土と泥で出来た崩れかけているあばら家が見えてくる。
「……どうしよう」
陰気に呟いて、途方に暮れたようにニーナは立ち止まった。
それとも此の侭、小屋から動かないほうがいいだろうか。
息を潜めて隠れ続けていれば、オークたちが見逃してくれる可能性もある。
迂闊に動き回るよりも、奥まった場所にある小屋の不便な立ち位置に一縷の望みを賭けるべきかも知れない。
「ねえ、メイ……このまま小屋に隠れていようか?そうしたらオークに見つからないかも」
躊躇いがちな痩せた少女に話しかけられ、メイは泥だらけの顔にぎこちなく笑みを浮かべた。
「あのね、隠れるのがいいよ。あたい、隠れられそうな場所をいくつか知って……」
喋りながらメイがあばら家に踏み込もうとした時、小屋の入り口に禿頭のオークが姿を現した。
いきなり飛び出してきた禿頭のオークは、そのままの勢いでメイを容赦なく蹴り飛ばした。
小柄なメイは悲鳴さえ上げられずに吹っ飛んで、地面へと叩きつけられる。
「メ……メイ」
掠れた声で呼びかけても、倒れているメイは微動だにしない。
そのまま禿頭のオークは、立ち竦んでいるニーナの腕を掴みあげた。
「舐めてくれたな。小娘共」
禿頭のオークの淡々とした冷静な口調は、怒りも露わに怒鳴られるよりも恐ろしかった。
「兄貴の読みどおりだったな」
母親のいる筈の小屋からさらにもう一人、別のオークが姿を現すに至ってニーナの脳裏は絶望に真っ白になった。足が震えだし、呼吸も苦しい。
「足跡を辿ればな。やってきたのと逃げた先が同じ方向だから、何かあると思ったのさ。のこのこと戻ってきたが」
禿頭のオークは、そんなニーナの腕と髪の毛を掴んで強引に小屋へと引き摺っていく。
「にしても、こんな小娘共にしてやられたのかい?」
もう一人のオークは、短剣を弄びながら笑っている。
「ああ、そっちの糞餓鬼は足を刺してくれた。油断のならんチビだよ」
「……やめて。許して」
必死に抗う痩せた少女を小屋へと引きずり込んでから、禿頭のオークは力任せに壁の方へと突き飛ばした。
「ニーナ」
壁に叩きつけられて呻いたニーナに呼びかけられる苦しげな母親の声。
寝床にいる母、ノアは恐ろしく血色が悪くもはや顔色は土気色に近かった。
精神的衝撃を受けたのか。それとも何か乱暴を受けたのか。
力なく血の入り混じった咳をするノアのまるで瀕死と見紛わんばかりの様相に、犬のように四肢で母親の元に這いよったニーナは絶句し、それから手を握り締めた。
「母さん。かあさ……」
「餓鬼と女が一人か……にしても怪我人の女じゃなあ」
ぼやいて首を傾げるオークたちの耳に、遠く吹き鳴らされる角笛の音が響いてきた。
「角笛の音だ……予定より早いが何かあったか?」
禿頭のオークが行くぞ、と促がし、もう一人のオークは肩を竦めた。
「で、どうする?餓鬼だけでも連れて行くとして。女は」
手早く片付けるつもりか。
鼻を僅かに鳴らすと禿頭のオークは、槍を片手に無造作に母子に近づいていく。
「……お願い、お願いです。母さんは」
前に出て母を庇おうとしたニーナを、怪我人とは思えない動きでノアが抱きしめた。
「この子、この子だけは……お願い」
「母さん。お母さん!」
「泣かせるねぇ」
寸劇じみたやり取りはオークたちにさしたる感傷を与えた訳でもなかったが、気紛れを起こす程度には同情を買ったらしい。
音高く舌打ちして足を止めたオークは、腕を振って
「ま、いいさ。此処にいろ。明日の朝になるまで動くなよ」
「おいおい、何言ってるんですか?兄貴。
村人は捕まえるか、始末しろって言われてるだろ。それに戦利品も無しかよ」
もう一人のオークが文句を言いながらあばら家を見回したが、農家なら多少の戦利品はあると思いきや、この家には彼の目に止まる戦利品になりそうな金目の物は何もなかった。
禿頭のオークは不機嫌そうに肩を竦め、死人のような顔色の母親に視線を移してからもう一度舌打ちした。
「その女は死に掛けだ。動けるような躰じゃない。放って置け」
「……なら、せめて餓鬼だけでも」
戦利品を見込んで乗り込んできたものの、完全に当てが外れたオークたちは穏やかに言い合う。
「こんな餓鬼じゃ召使いや売り物にもならんだろ」
「だけど、ちょっとは見れた面してるぜ?化粧すりゃ……」
「それまで何年掛かる?」
「だけどよぉ」
未練有りげにニーナを眺めるオークを、禿頭のオークが促がした。
「それとも牝の餓鬼を殺すか?いくら人族相手でも気が進まん」
メイを蹴っ飛ばしておいて何を言うのか。そう思いつつも、痩せた少女は恐くて口に出来なかった。
「しようがねえ、兄貴も甘いなぁ」
ぼやきながらオークが外に出た瞬間、横殴りにされた鉄槌が横っ腹に突き刺さった。
衝撃にオーク戦士の息が詰まる。
崩れ落ちそうになりながらも、戸口に手を掛けて辛うじて倒れかけた体を支える。
「……てめ」
声が出ない。
苦しげに顔を歪めて短剣を引き抜きかけながらも、頭蓋に止めの一撃を喰らってオークは倒れた。
樽のような体型のドウォーフが、あばら家の中へと突っ込んでくる。
猛獣のように低い唸りを上げながら襲い掛かってきたのは、ドウォーフ族の鍛冶グルンソムであった。
憤怒の表情で禿頭のオークに鉄槌を叩きつけようとするが、横にした槍の柄に防がれる。
と、屋内の槍は不利だと瞬時に判断した禿頭のオークは、大胆にも獲物を捨てるや素早くドウォーフの腕を掴んだ。
二人はそのまま激しい揉み合いを始める。
怒り狂っている老ドウォーフのグルンソムは、しかし、此処に来るまでにオークと遭遇していたに違いない。
皮の服は数箇所も切り裂かれて血が滲み、素肌には裂傷や打撲の痕跡が痛々しく刻まれている。
オークとドウォーフは、互いに必死に近距離で腕を掴み、顔を引っ掻き、殴り、相手を組み敷こうとする。
本来、屈強のオーク戦士であっても、筋骨隆々のドウォーフ族を相手にしては分が悪かっただろうが、しかし、疲労と消耗が老ドウォーフの活力を奪い、弱らせていた。
活力に勝る禿頭のオークが遂に老いたグルンソムの腕を捩じ上げるのに成功した。そのまま敵手の太い首に力強い指を伸ばし、締め上げる。
徐々にグルンソムは押され、苦しげな呻きがその喉から洩れてくる。
呆然と眺めている痩せた少女の視界の先に、死んだオークが握り締めている短剣が映った。
震える手で短剣を握り締めると、
グルンソムが震える手を伸ばして禿頭のオークの指を掴むと、ぐっと逆ねじを食わせた。
たまらずに距離を取った禿頭のオークだが、苦しげに息を吐く老ドウォーフは明らかに動きが鈍っていた。
村はオークの戦士団が制圧している。
禿頭のオークを逃がして仲間を呼ばれたら、いかなグルンソムでも一巻の終わりである。
幾ら手練のドウォーフでも、複数のオーク戦士を相手にしては一溜まりもない。
だが、それ以前に、もはや老ドウォーフには戦う力が残されていないのか。
拳を構えるグルンソムは、ぜいぜいと苦しげに喘いでおり、真っ赤な顔に吹き出した大粒の汗がぼたぼたと床へと流れ落ちている。
禿頭のオークは拳を握り締め、間合いを詰めると、グルンソムの体に力強く拳の雨を降らせていった。
くもぐった叫びを洩らして老ドウォーフが左右に身体を揺らし、いよいよ崩れ落ちようとした時、ニーナは叫びながら禿頭のオークの背中へと体当たりした。
叫び声を上げて硬直する禿頭のオーク。脇腹には痩せた少女の握り締めていた短剣が深々と突き刺さっている。
苦痛に仰け反ったところにドウォーフが突っ込んできた。
あばら家の土壁へと叩きつけると、一塊となったグルンソムとオークはそのまま脆い壁を突き破った。
地面へと叩きつけられ、人事不省に陥った禿頭のオークが頭を振りながら、立ち上がろうとした時、グルンソムが再び突っ込んできた。
オークを地面に突き倒し、馬乗りになったグルンソムの振り上げられた手には、何時の間にか、愛用の鉄槌が握られている。
「まっ……待て!」
制止の叫びを上げる禿頭のオークを体重を生かして上から押さえ込むと、グルンソムは無言で槌を振り下ろした。
肉の潰れるような鈍い音が鳴り響いた。
思わず顔を背けたニーナの耳に掠れた声が聞こえてきた。
「メイ……メイよ。目を開けておくれい、メイ」
声のする方角に目をやって見れば、小屋の前で痩せた小柄なゴブリンがメイを抱きしめて何やら囁きかけている。
と、メイは弱々しく、だがしっかりと身動ぎして呻き声を上げた。
「よかった。よかったわい」
痛そうにお腹を押さえながら、メイはよろよろと立ち上がった。
「メイは……よかった」
ホッと息をついたニーナの元に激戦を制した老ドウォーフがしっかりとした足取りで歩み寄ってきた。
「お嬢さん、無事だったかな?」
無言で肯くと、老ドウォーフは大きく頭を振ってから自己紹介する。
「わしはグルンソム。そっちの小さなゴブリンはオル。二人ともメイの友人じゃよ」
畦道の方角に一瞥をくれてから老ドウォーフが言葉を続けて言う分には、村はオークに占領されており、もはや逃げるしかないとの事だった。
「オークが村をうろついておる。もうここを離れんといかん」
避難を促がされたニーナは、しかし、明白な躊躇をみせた。
「待って……でも、かあさんを置いてはいけない」
「むう……しかしのう。お嬢さん……」
老ドウォーフのグルンソムは困った顔をして白い顎髭を撫でるが、そこに声が掛けられた。
「お願いします……その娘を連れて行ってください、ドウォーフの旦那さん。」
「……かあさん?」
呆然とニーナが見つめる先、真っ青な顔をしたノアが戸口に縋るようにして佇んでいた。
「おいで、ニーナ」
力なく地面に座り込む母親の姿に、ニーナは慌てて駆け寄った。
「む……無理をしたら駄目だよ」
微笑を浮かべて駆け寄ってきた娘をじっと見つめてから、ノアは懐から小さな布の財布と紐に結ばれた石を取り出した。
「これは御守りだよ。あたしがあたしのお母さんから。
母さんの母さんはそのまたお母さんから貰ったものだ。
これを付けていれば、コル女神さまがお前を守ってくれるからね。
あたしと思って。何時までも見守っているよ」
「……かあさ」
今生の別れのような言い方に少女は脅えたように身体を震わせた。
「それと、お財布。お金は大事に使うんだよ。身体を大事にね。長生きしてね」
言いたい言葉が次から次へと溢れてくる。
なのにニーナは喉に詰まって言葉が出てこない。感極まって涙が零れ落ちる。
「い、一緒に……」
「行けないよ。分かっているだろう?」
娘にそっと手を触れる。
真冬の冷たさにも関わらず、暖かな頬に目を細めてから、農婦は優しく微笑んだ。
「生きて。生きてね。お願いだよ。身体を大事にね」
ニーナは嫌々するように手を握り締める。
「いかない……ここに一緒にいる」
握っていた手をそっと離す母親の無言の所作に、これが今生の別れになると感じてニーナは抱きついた。
「やだ、あたしもここにいるもん!母さん!お母さん!」
繰り返す娘の強く押し付けてきた頭を何度も撫でてから、傍らのドウォーフを見て肯いた。
「お願いしますよ。ドウォーフのだんなさん」
「母さん」
娘の抗議の叫びを無視してひょいと掲げ上げると、樽のような体型のドウォーフは、見た目に合わぬ素早い動きで歩き出した。
と、横合いの土手の上に昇っていた老ゴブリンのオルが、慌てふためきながら降りてきた。
「オークが仲間を探しに来たよ。もうここにやってくる」
「逃げ道はあるのか?オルよ」
「こっちよ!でかいオークには見つかりにくい村の外へ続く溝があるのよ!急いで!」
ゴブリンのオルを先頭にふらつきながらもゴブリンに支えられたメイ、ニーナを担いだ老ドウォーフが歩き出した。
蒼白な顔で壁に寄り掛かったノアは、力ない微笑を浮かべて、あばら小屋の裏手から遠ざかっていく四人の後ろ姿を何時までも見送っていた。




