土豪 36
今回はちょっと短いです
ゴート河畔にある小さな集落のあばら家の裏手から細長い炊煙が空へと吸い込まれていく。
丘の彼方で揺れる白い煙を目にして、母親が食事の支度を整えているのだと気づいたメイは、
原っぱで遊んでいた村の子供たちに別れを告げると、満面の笑みを浮かべて走り出した。
夕餉には少し早い時間であったが、冬の落日は段々と早くなってきている。
周辺の農家には、日の沈む前に食事の支度を済ませておく習慣が珍しくない。
小さな村だ。村道を飛ぶように駆け抜けた少女は、すぐに家へと辿り着いた。
「母ちゃん!ただいま!」
青っ洟を垂らしつつ駆け込んできた我が子を見て、リネルは僅かに顔を綻ばせた。
「いい時間に帰ってきたね。そろそろ飯時だ。メイ、ニーナを呼んできな」
「分かった」
母の言いつけに肯いた娘は、其の侭脱兎の勢いで戸口から飛び出していった。
素焼きの鍋で温めている雑穀粥に僅かな塩を入れながら、リネルは
洞窟オークに追われて転がり込んできた農民の子供ニーナの顔を思い浮かべた。
気丈で優しい性根の娘だと思う。
メイとも気が合うようで、母親にもしもの事があれば引き取って面倒を見てもいいと年増女は考えていた。
川辺の集落が取り立てて豊かな訳ではないがリネルは村長であり、その亡父は村で一番の物持ちであった。
旅人たちから徴収する艀の使用料もあって、近隣の農民に比べれば些かの余裕もあった。
村長のリネルなら、身寄りのない子供一人くらいなら衣食を負担できるだろう。
「それにしても……世の中、どうなっちまったのかねぇ」
粥をかき混ぜながら年増女が暗鬱に漏らした呟きは、近隣に住まう者たちが心に斉しく抱いている不安でもあった。
徘徊する盗賊たちやオークの襲撃に対しては、有力な郷士や豪族の助けもさほど期待出来ない。
そもそも河辺の村はどの豪族の領地ではない。
支配を受けていないと言うことは、同時に保護も期待できない。
時折、豪族の手勢が村近くを巡回している光景を目にするも、豪族たちの兵にも限りがあり、また常に動かせる訳でもない。
対する賊徒やオーク共は、狙った獲物に不定期に好きな場所で襲い掛かる事が出来るのだ。
自然、豪族たちは後手に廻らざるを得ない。
最近は、村の近くにも見回りの兵を見かけるものの、しかし、滅多に怪しい者を捕まえるでもなく、
税を余計に取り立てられている豪族傘下の村々では不満が溜まっているとの噂も耳にしている。
中には、無駄飯ぐらいと罵っている農民もいるそうだが、けして豪族たちが手を抜いている訳ではないと村長であるリネルは思っていた。
村人たちも役に立たぬと見做していたが、もし、豪族の手勢が見回って牽制しなければ、
賊がより大胆不敵になって街道筋を跳梁跋扈する事、火を見るよりも明らかだろう。
だけど、豪族の巡察隊に食べ物の供出を求められる農民たちにしてみれば、溜まったものではない。
しかし、豪族に頼れない自治村の農民は、自分で武器を持って賊やオークから自衛するしかないのだ。
「……豪族の誰かに身を寄せるべきかねえ。そうすれば助けてもらえるんだけど」
生活に疲れた年増女のリネルは、天を仰ぎつつ溜息を重ねていたが、やがて苦い笑みを浮かべて粥を一匙、味見で口に含んだ。
悪くない味だった。季節によって蕪や人参などの野菜の酢漬け、野の果実、魚、稀に肉が食卓を飾るが、辺境の農民の食事は概して貧しいのが普通だ。
豪族の傘下に収まれば、税を納めねばならない。貧しい食事はさらに乏しくなるだろう。
「まあ、なるようにしからないかね」
吐き捨てるようにも、諦めたようにも洩らしたリネルの掠れ声が、薄暗い部屋に吸い込まれて解けた時、あばら家の戸口で物音がした。
砂を踏むような足音に気づいて振り返ると、家の入り口を塞ぐようにして大柄な人影が佇んでいた。
戸口の頂上に頭が届いていることから、並外れた巨躯の持ち主なのが分かる。
あばら家には、戸口の他に小さな窓が二つあるだけだ。
冬の弱々しい太陽の下、扉代わりのボロ布を背後にし、陽光を遮る薄暗い室内で来客の人相はよく見えなかった。
見慣れぬ人影だ。旅人だろうか。或いは盗みを働こうと考えたよそ者かも知れない。
困惑したリネルは、壁に立てかけた棍棒を一瞥してから低い声で問いかけた。
「誰だい、あんた?此処は私のうちだよ」
返事はない。僅かに身動ぎしただけである。
不快そうに眉を顰めた村長の再びの誰何の声が非友好的な響きを帯びていたとしても無理はないだろう。
「耳がないのかい?人を呼ぶよ」
一歩、二歩と用心しながら歩み寄った村長が、来客の顔を見て立ち止まり、小さく息を呑んだ。
差し込んだ僅かな陽光が照らし出したその貌は、巨大な傷跡を持つオーク族の男。
金属の環を縫いこんだ革鎧を着込み、分厚い筋肉に覆われたオークの鋭い眼差しが、年増女をしっかと見据えていた。
オーク!何故、こんなところに!
愕然とするリネル。村長の家は村の中央に位置している。
大勢の襲撃なら村人が気づかない筈はなく、少数なら易々と侵入できる筈もない。
有り得ざる事にも拘らず、しかし、言に年増女の目の前には獰猛なオークが無言で佇んでいた。
棍棒を!
女の細腕が棍棒を握ったところで、こんな怪物相手にどうにかなるとも思えなかったが、怯ませて逃げるくらいは出来るかもしれない。
瞬時の混乱の後、身を翻したリネルが壁の棍棒に手を伸ばすのと、踏み込んできたオークが女村長に飛び掛かるのとはほぼ同時であった。
彼方の雑木林の上を夕方の蝙蝠が飛んでいるのが見えた。
冬の晴れ渡った空の下、時折、吹き付ける南風が足元に砂埃を舞い上げる。
女剣士のアリアは、翠髪のエルフ娘のエリスと一緒に枯れ野を横断する街道を歩いている。
「見えてきた」
河辺の村落からやや離れた木立の傍で立ち止まった二人は、村の様子をそっと窺った。
村の入り口には小さな柵が並び、少し奥には泥と木で捏ねて作ったような小屋が建っているのが見える。
「如何なのかな。特に変わった様子は感じられないけど」
エリスの言葉に、しかしアリアは何かを感じたように黄玉色の瞳に鋭い眼差しを浮かべて村をじっと眺めている。
「……妙な感じだ。静か過ぎる」
「行ってみる?」
エリスの提案に、アリアは立ち止まったまま気が進まない様子で首を振った。
「……踏み込みたくないな」
僅かに戸惑いを浮かべたエリスに目もくれず、アリアは何やら考え込んでいた。
アリアは、過去に幾度か己の勘働きで命を拾ったことがある。
今回も特に理由もないのに、村に踏み込むのが躊躇われた。
首の後ろの毛がチリチリと逆立っている。危険な徴候に思えた。
「人影一つ見当たらんな。村外れに、ゴブリンかホビットの一人位はいそうなものだが」
「ん、確かに……だけど考えすぎでは?」
「用心が空回りしても笑い話ですむが、危険な場所に踏み込めば最悪、命を失う」
其処まで言うのなら此処はアリアに判断を委ねてみるかと、エリスは口を閉じて村を眺めた。
しばし、無言で周囲の地形を見回していたアリアだが、やがて北に連なる丘陵に視線を留めた。
「そうだな、あそこなら村もよく見えるだろう。昇ってみよう」
言って女剣士が歩き出した。随分と遠回りになる。やや不満そうに肩を竦めてからエルフの娘も後を追いかけた。
仮に村に何かが在ったとしても、此れほど慎重に行動しているなら確かに見つかる筈もない。
丘を昇る最中、遠目に見える村の遠景には、しかし特に奇妙な様子は窺えなかった。
「……どうやら思い過ごしていたようだね」
安心し、ホッと息をついたエリスが、微かに笑顔を浮かべて言うが、
妙に頑固な態度のアリアは、登ることに拘った。
土手や雑木が邪魔でまだ全景が見えた訳ではないと言い張るのだ。
丘陵に強い風が吹いて、潅木の枝を大きく揺らした。
分厚い暗雲が南から急速に近づいてくるのが見えた。と風も冷たくなってきている。
吐く息も白い。潅木やヒースの生い茂る丘陵を昇って頂きに近づいた時、アリアは立ち止まって舌打ちした。
何事かと、顔を上げたエリスも息を呑む。
丘陵の頂から灰色の肌をした革服のオークが姿を現していた。
燃えるような険しい眼差しで二人の娘を見下ろしている灰オークの背後には、さらに二匹のオークが武器を携えて控えていた。
どうやらオークの斥候と鉢合わせをしたらしい。
偶々選んだ丘陵での遭遇戦に運の悪さを嘆きつつ、女剣士はエルフの娘を庇うように身構えた。
「すまん、エリス」
用心深さが裏目に出たようだと判断の誤りを謝するアリアに、エリスは肩を竦めつつ苦笑を浮かべた。
「ついてないね、で如何する?」
後ろでやや逃げ腰になったまま、女剣士に訊ねかける。
相手は三人。手練のアリアなら戦っても負けないだろうが、足手纏いのエリスがいる。
だが、今すぐ踵を返せば逃げ切るのは難しくないだろう。
「逃げるとしよう」
丘陵の中腹で立ち止まり、だが、どこか余裕のある態度で見上げる二人の娘を見下ろしながら、息を吸い込んだ灰色のオークが手にしていた角笛を高らかと鳴らした。
灰オークの鳴らした角笛の響きが冷めやらぬうちに、丘陵の左右から狼の遠吠えのような吼え声が返ってきた。
右手の窪みから二匹。そして左手の繁みの影から三匹。
いずれもアリアとエリスからは見通せない位置に隠れていたオークの伏兵が、挟み撃つようにして姿を現して丘陵の勾配を猟犬のように駆け寄ってくる。
完全な待ち伏せに立ち竦んだエリスは、慌てた様子でアリアを振り返った。
しかし、頼りの女剣士も微かに瞳を見開いて呆然と呟いていた。
「……まさか、読まれていた?馬鹿な、ありえない。」
偶々、目に付いて選んだ丘陵で魔法のように現われた伏兵に奇襲を受けた。
考えられることではない。だが、現実に奇襲を受けている。
偶然にしては出来すぎていた。伏兵を置いていたからには、明らかな待ち伏せだった。
まるで性質の悪い詐術に掛かったように、この時のアリアは珍しく動揺を隠し切れていなかった。
「アリア!」
エルフの娘に強く名前を叫ばれて、女剣士は瞳を強く閉じると深々と深呼吸した。
一瞬後、瞳を見開いたアリアからは困惑の態は消え去り、鋭い眼差しには普段の力強い光が蘇っていた。
それ以上、二人に立ち直る猶予を与えようとせず、頂きに佇む灰オークが吼えながら手を振り下ろす。
と同時に、吼え猛りながら三方から七人のオーク族の戦士が殺到してくる。
いずれの身のこなしも素早く、動きも機敏であり、各々の獰猛な面構えからは並々ならぬ力量が窺えた。
如何にアリアが手練の剣士だとしても、相手取るには分が悪いだろうと戦いに疎いエリスにさえはっきりと感じとれた。
「……罠に嵌った?」
身を震わせて茫然と呟いたエリスの傍らで、瞳に硬質の光を宿したアリアが剣を抜き放った。