土豪 24
ぜいぜいという苦しげな呼吸が耳を打って、うとうとしていたニーナは慌てて身を起こした。
何時の間にか、眠っていたらしい。気づけば、藁の寝床に横たわる母のノアが苦しげに咳き込んでいた。
血痰の入り混じった咳をする度に、母の急激に痩せ細った身体から生命の雫が抜け落ちていくように思えて、娘のニーナは心を痛めていた。
傷が疼くのだろう。此処数日で見る影もなく衰えた母は、呼吸をするのも苦しそうだった。
それでもニーナには母親の背中を擦ってやる行為すら出来ない。
触れればそれだけで痛みが発するらしく、ノアは酷く苦しがった。
母が苦痛に呻いていても、少女に出来ることは何一つなかった。
残されたただ一人の身内に迫る死の影が、少女の幼い心を絶望と無力感で蝕んでいた。
連日、訪れるエルフの薬師エリスが処方する薬だけが、僅かな時間の間、母を苦痛から解き放ってくれる。
多分、そのエルフの薬師ですら、本当は手の施しようがない傷なのだと薄々感じ取りながらも、エリスの来訪を待ちかねる。
小屋の隅で背を丸めて、ひたすらにその時を待ち侘びているニーナの虚ろな視界の隅に、扉の向こう側から近づいてくる影が映った。
ハッとして顔を上げた少女の耳に、藁葺き小屋に近寄ってくる軽い足音が聞こえる。
やって来たのがエルフの薬師ではないと気づいて、ニーナは不快そうに眉を顰めた。
思い返してみれば、エルフの娘は歩くときに殆ど足音らしい足音を立てない。
案の定、小屋に飛び込んできたのは、鼻水を垂らしたニーナと同じ年頃の少女。
寒さを感じないのか、冬にも拘らず薄い襤褸を纏っただけの半裸の少女は、ニーナを見るや、手を差し伸べてくる。
「ご飯出来た!ニーナ!」
村長の娘であるメイは、何時も食事を一緒に食べようと誘いに来るのだ。
悩みのなさそうな屈託のない顔を、ニーナは僅かに煩わしそうに見つめた。
世話になっている身で文句は言えないが、ニーナは出来るだけ長く母親と一緒にいたい。
始めのうちは、与えられる雑穀の粥を小屋まで持ち帰って母の傍で食していた。
既に農婦の身体は、薄い粥すら受け付けなくなっている。
母が食べられないのに自分だけ食べる気にもなれずに、少女は一時、食事も断ちがちになった。
食事だけは取るようになったのも、村長に怪我人を看護するにはしっかりと食べないといけないと指摘したのと、娘を心配した母のノアが青ざめた表情ながらも、食事を取るように厳しい声音で諭したからだった。
「ご飯だよ!ご飯!」
村長の娘であるメイが手を掴んだ。メイに悪気はない。優しい性根の持ち主なのだろう。
それでも、その親切は今のニーナにとって煩わしいだけだった。
もし母がいなくなりただ一人残されたら。
ニーナにとっては想像するのも恐ろしい事態だった。
そうなれば、生きていたいとは思わない。だが、そんな言葉を口にするのも拒否するのも面倒くさくて、取りあえずは村長の娘に手を引っ張られるまま、逆らわずに外へと連れ出された。
戸口の外に一歩出れば、冷たい北風が容赦なく丘陵の彼方から吹き降ろしてきた。
それが母の怪我にとって、いいのか悪いのか、少女には分からなかった。
畦道に通じる小径の向こうから、大人の人影が近づいてくるのがニーナの目に入った。
エルフの薬師エリスと、連れらしい女剣士の二人組だった。今日も見舞いにやって来てくれたらしい。
ニーナはほっと胸を撫で下ろした。
深手を負った農婦のノアにとって、エリスの見舞いは大きな助けになっている。
彼女が芥子から作った鎮痛薬を処方すると、ノアは暫らくは穏やかに過ごせるのだ。
夢見るような目付きで、ニーナに対して子供の頃や村にいた頃の楽しかった想い出話や今になれば笑えるような昔話を延々と続ける。
苦悶から解き放たれて本来の穏やかな性格に戻った母と会えるその瞬間だけが、日々、喪失の恐怖に脅えている少女の希望かつ心の支えとなっている。
翠髪をしたエルフが小屋に入った。長身をした女剣士は続かずに外側の壁に寄り掛かって腕を組んだ。
ニーナがエルフに続いて小屋に戻ろうとすると、女剣士が手を伸ばして遮った。
「待ちなさい。今、エリスとノアは二人きりで話をしている。大切な話だから、邪魔してはならない」
意外と穏やかな声で止められ、戸惑いながら少女は耳をそっと欹てた。
きちんと話すべきだろう。
寝台の傍らに屈みこんだエルフの娘は、舌で唇を湿らせてから、腰の革袋から小さな丸薬を取り出した。
「もし耐え切れなくなったら、この薬を呑みなさい。ノア」
僅かな躊躇いをかいま見せてから、真剣な表情を浮かべて怪我人の顔を覗き込む。
「これ以上、痛みを味わないですむ。眠るように全てを終わらせてくれる」
「あたしは……助からないんだね」
恐ろしいほどの真剣な眼差しで農婦に凝視され、エルフの娘は彫刻のように固まって見つめ返していたが、やがてこくりと肯いた。
エリスから視線を外すと、横たわったノアは天井をじっと眺めた。
「それはまだ、もっておいておくれ」
エルフの薬師は、沈黙を守っている。ただ蒼い瞳だけが深い光に揺れていた。
「正直言うと、今すぐに終わらせて欲しい。……でも、もう少しだけ頑張ってみるよ」
「……そう」
静かに肯いたエリスは、丸薬を袋へと仕舞い込んだ。
「一緒にいたい。生きたいんだ。あたしは……あの子と一緒に生きたい。少しでも長く一緒にいてやりたい」
力なく横たわったノアは、無念さと諦念の入り混じった言葉を淡々と呟いていた。
「心残りは……あの娘のことだけさ。あの子はどうなるんだろうねえ。まだ子供なのに……たった一人で残されて……」
誰に語りかける訳でもないその言葉を、エリスは瞼を閉じて静かに聴いていた。
戸口の前で立ち尽くしながら、聞き耳を欹てていたニーナの目が熱くなった。
言葉は途切れ途切れにしか伝わってこなかったが、母親の気持ちは全て届いた。
聞かないほうがいいような気もしたが、聞いてよかったような気もする。
土壁に寄りかかって静かに嗚咽する少女を眺めていた女剣士が、地平線を流れる雲に視線を転じた。
遠い眼差しで彼方を眺めていた少女が言葉もなく立ち竦んでいると、女剣士に声を掛けられた。
「君は此れから如何する?」
「……お母さんが治るまでは、此処にいます。それから何か仕事を」
前髪をかき上げてから肯いた女剣士は、何かを考え込むように瞼を伏せた。
「私たちは君ら親子を助けたが、話によればエリスも君の母親に窮地を助けられたそうだな。
私は東国に荘園を持っている。もし、よければ本国に戻る際一緒に来ぬか?
勿論、母親が治ってからで構わぬ」
「……ありがとう。村長さんからも、面倒をみてくれると。その時になるまでは……」
ふるふると首を振ったニーナを眺めて、黒髪のアリアは苦い笑みを返した。
「……そうか。いずれにしても何か困った事があったら言うがよい。
カスケード伯子アリアテートに出来ることであれば、叶えてやろう」
裕福そうな女貴族の言葉に、少女は始めて顔を上げた。一言。
「母さんを治せない?」
困惑気味に瞳を細めたアリアに、縋るような声と顔で懇願した。
「貴族の貴方なら腕のいい医者を呼び寄せることも出来ませんか?」
場に重い空気が流れた。女剣士は沈黙を纏って、じっとニーナを見つめている。
それから暫らくして、口元だけを小さく歪めた。
「すまぬな。その願いは私の力を越えている。それに、エリス以上に腕のいい医者を私は知らない」
何時もより短時間で診察を打ち切ったエリスが藁葺き小屋から出てきた。
「行こうか」
アリアが声を掛けると、陰鬱そうな表情で肯いてから一緒に歩き始める。
小屋の前にある畦に腰掛けていた村長の娘が、足を遊ばせながら目の前を通り過ぎる二人を眺めていた。
「もって、後……二日か、三日」
口元を歪めたエリスの呟きに声には出さずに肯くと、アリアは狼の毛皮のマントを首元に引き寄せながら曇り空を見上げた。
「今日は冷えるな」
「相当、苦しい筈なんだけど、子供の事が気がかりみたい」
「村長が面倒を見てくれるそうだ。その点では恵まれているのかな」
潅木と岩だらけのあぜ道を抜けると、旅人の小屋に面した空き地が見えてきた。
突風が吹いた。吹き付けてくる砂埃に手を翳しながら、エリスは口を開いた。
「もう一人、患者がいるかな。寄って行っていい?」
面倒見のいい奴だななどと思いながら、アリアは肯いた。
「勿論だ」
エリスが旅人の小屋へと入っていったのを見届けてから、手持ち無沙汰になったアリアは空き地を見回してみた。
空き地の真ん中で焚き火が揺れていた。身体を丸めた人影が集って、寒い、寒いと呟きながら身体を暖めている。
川魚も焼かれているようで、香ばしい匂いが漂ってくる。
鼻を蠢かせてから、アリアは焚き火に歩み寄った。
「具合は如何?」
エリスの問いかけに、横たわっていた女冒険者は穏やかな表情を浮かべて微笑んだ。
「あんたは大した腕をしている」
一時期は己の命が消えるのではないかと予感させた悪寒が、今は完全に女冒険者から消え去っていた。
相棒のレオも、大分、明るい顔つきになって会話を聞いていた。
「大分、楽になったよ」
エルフの腕を賞賛してから、女冒険者のリースはふと訊ねてみる。
「左腕の湿布が猛烈に痒いんだけど。取っちゃ駄目かな?」
「我慢なさい」
要求をにべもなく跳ね除けられて、女冒険者は苦しげに身体を揺り動かした。
「掻き毟りたいくらい痒いんだよ。大丈夫なんだろうね?」
やや不安そうに重ねて尋ねると、嘆息を洩らしてからエリスはきっと睨んだ。
「……大切な商売道具を片方なくしても構わないのなら、とってもいいけれども?」
息を呑んだリースは、恐怖を浮かべた眼差しでエルフの薬師を見上げる。
「……まさか」
「最低でもあと二日は取らないように。本当は毎日、膏薬を取り替えるのが良いんだけれどね」
云ったエルフの娘だが、手持ちの薬にそれほどの余裕はなかった。
「でも、痒いんだよ」
言い募るリースにエリスも考え直した。
女冒険者の左腕は、確かに深手を受けた箇所である。渋々ながらも包帯を解いてみると、冬でありながら傷口は膿んでいた。エリスが傷口に触れると、指先に痺れを感じてリースが呻いた。
不安そうな顔つきで身を乗り出してきたレオを、エリスがじっと見つめた。
「……レオさん。すまないけれども綺麗な水を汲んできてくれるかな」
村人からすれば、村を救ってくれた英雄であるから、アリアが焚き火に近づくと村人は快く場所を譲ってくれたし、枝に刺した焼き魚も振舞ってくれた。
小さな広場の真ん中で焼き魚を頬張っている女剣士の耳に、喚き声が聞こえてきた。
振り返ってみれば、何やら騒ぎが起こっているようだった。
旅人らしい装束の男が、棍棒を手にした村のゴブリンたちに小突き回されている。
「なんだあ?」
女剣士の傍らにいたホビットの一人が声を上げる。
丁度、騒いでいる一団が広場に差し掛かったところで、アリアは手にした枝を投げ捨ててから喧騒の輪に近づいてみた。
「なんの騒ぎだ?」
通りかかったアリアが集っている村人に尋ねると、事情を説明してくれた。
「オークの手先が入り込んでいたんでさ」
云われて見てみれば、旅人の男が必死に叫んでいた。
「俺はただの旅人だ!」
「こいつ、怪しい!オークの仲間」
意地悪そうな顔をして旅人の尻を槍でちくちくと突いているゴブリンたちの言い分を纏めれば、捕虜たちの閉じ込めた洞窟をこそこそ窺っていた!密偵に違いない!らしい。
ゴブリンに小突かれる度、貧しげな旅人の男はやや大袈裟に悲鳴を上げていた。
「……半オークか」
襤褸のマントを纏った一見自由労働者風の旅人は、混血の種族であった。
人族とオーク族の合いの子である人オーク、或いは半オークは、オークからは価値のない奴隷として侮蔑され、人族からは忌まわしいオークの一員と見做され、大抵はどちらに所属することも出来ず、単独で放浪しているか、或いは人里離れた土地にある半オークだけの小さな共同体で隠れ住んでいることが多い。
時に人族やオーク族よりも優れた戦士を輩出することもある半オークだが、大抵は自分たちを排斥する他の種族に脅えて孤独に隠れ暮らしている。
「止めろ、俺はただ……散歩していただけだ。そんなのは知らなかったんだ。止めてくれ」
旅人がすすり泣いているが根が疑い深いゴブリンたちは、捕虜の情けない様子に益々、興奮した様子で調子に乗って半オークを殴りつけていた。
汲んで来た綺麗な水で傷口を洗い清めてから、エリスは綺麗な布でリースの傷口から大量の黄色い膿を拭き取っていった。
途中からは、口を濯いだレオが慎重に膿を吸い取っては床に吐き出していく。
膿が出る度にリースの左腕から圧迫するような痛みと痺れが取れて、代わりに爽快感が広がっていく。
最後にアブラナとガマの穂を主体にした膏薬を塗ってから、エリスは患部に包帯を巻いた。
「楽になったよ」
汗もひいたリースが身を起こして左腕を動かしながら、満足げに笑った。
身体が暖かくなってきている。間違いなく快方へ向かっていると、力を込められる左腕から実感できていた。
「今日の診療はおまけしておくよ」
エルフの薬師が言いながら、余った薬を腰の袋へと仕舞いこんでいく。
「ありがたいね。こっちはもう素寒貧だから、後は婆さんに見てもらうしかなかった」
床で呻いている他の怪我人を一瞥してから、エルフの娘が唇を動かした
「彼らを手当てした人だね、酷いやぶだよ」
何気ない言葉であったが、寝ていた怪我人の一人が反応して苦々しく言った。
「婆さんを悪く言わないでくれ。金が無くても俺たちを看てくれたんだからな」
灰色の服を纏った貧しげな怪我人に怒りの籠もった視線に睨まれて、暖かな装束を羽織ったエルフの薬師は目に見えて怯んだようだ。
些か決まり悪そうに身動ぎしたエルフの娘は、口の中で悪気はないだの何やら言い訳しながらそそくさと立ち上がった。
「では……お大事に」
見送ろうと冒険者のレオも立ち上がった。と、何やら殺伐とした怒鳴り声や叫び声が小屋の中まで聞こえてきた。
何事かと、エリスは扉から用心深く小屋に面した空き地の様子を窺ってみた。
「……外で何か騒いでいる」
「ん、ああ。何でもオークの密偵が捕まったとか、何とか云ってたな」
騒ぎの輪に混じっている黒髪の娘を見てから、エリスは肯いて外へと歩いていった。
十を越える村人たちは徐々に興奮している様子で潮が満ちるように唸り声が高まってきていた。
無用心な奴だ。此の侭では私刑に掛けられるだろうなあ、とアリアは他人事のように見ていると、ホビットの農婦が村長の年増女を連れて来るのが見えた。
年増女のリネルが、村人の一人一人を不躾な眼差しで見回すと周囲を囲んでいた群集は目に見えて怯んだ様子を見せる。
それから村長が、半オークに視線を転じた。
殴る蹴るなど軽く暴行を受けた半オークの旅人は、すすり泣きながら言い訳していた。
「助けて、俺は……ただ、傍を通りかかっただけだ。知らなかったんだよぉ」
必死の懇願に眉根を寄せてから、村長のリネルが強い口調で旅人を詰問し始めた。
「何で此の村にやってきたんだい?」
「旅の途中なんだ。仕事を探しながら、彼方ら此方らで働いている。
村には旅の途中で立ち寄っただけなんだ」
リネルは肯いた。半オークの言葉には、確かに彼方此方の訛りが混じっていた。
旅をしやすい装束、縄を巻いた皮の長靴、埃に汚れた顔、至って普通の旅人に見えた。
「見ない顔だね。故郷は?」
村長の質問に、半オークの旅人は必死に応えている。
「西部のウェンって村だ。ティレーのさらに西さ。餓鬼の頃に村を出てからずっと放浪していた」
「長!こいつ、密偵!怪しい!間違いない!逃がすの間違い!吊るす!」
興奮したゴブリンが喚きながら言い募るが、疑い深そうな眼差しには誰も彼も怪しく見えるのではないか。そうリネルには思えた。
喚いている半オークの周囲を、苛立ち、口々に責め立てる村人たちが取り囲んでいる。
「そんなの分かる訳ない!普通に歩いていただけだ。助けてくれよ!」
「怪しいぜ!」
女剣士が興味深げに状況を眺めている最中、背後からエリスがやってきて隣で足を止めた。
「何事?」
状況が呑みこめないのか。友人が怪訝そうに訊ねてきたので女剣士は端的に説明する。
「半オークの旅人が……確かに怪しい奴だが。
こやつ、捕虜の小屋のあたりをウロウロしていたらしい。
で、見張りのゴブリンたちに捕まった。本人は旅人で散歩していただけだと言っている。
ゴブリンたちは怪しい。密偵に違いないと……」
小さく肩を竦めてから、アリアに囁きかける。
「密偵なのかな。如何思う?アリア」
女剣士はおとがいに指を当てると、半オークを見据えて答えた。
「こうした時期は、皆、疑心暗鬼になる。とりあえずよそ者で怪しいからと吊るされる者もいる。
もう少し慎重に振舞うべきだったろうな。気の毒な事だが……」
云ってから、黄玉に似た硬質の瞳を不快そうに細めた。
「いや……どうも匂うな。吊るした方がよさそうだぞ」
「……匂う?」
エルフの怪訝そうな言葉に肯いて、滔々と説明を始めた。
「腰の小剣を見ろ。貧しい自由労働者にしては、随分と立派な武器と皮の鞘だな。
柄はよく使い込まれている。
それに鹿革の革靴か。動き易くて逃げるにも偵察にも都合良さそうだ」
「ああ、なるほど」
流石に騎士は見るところが違うと、エルフの娘は無邪気に感心する。
確かに、旅人が持つには不自然な道具を二つも持っているのはおかしい。
普通の自由労働者は、もっと貧しくみすぼらしい格好をしているものだ。
「それに此の時期だ。他所の土地にも小競り合いの噂は流れ始めている。
元からの顔見知りか、前から足止めされている我らのような事情でもないかぎり、他所から入ってくるのはおかしいと思わぬか?」
「……云われてみれば」
「皆、止めな!」
呟いた女剣士の考えとは裏腹に、叫んだ村長は異なる結論に至ったようだった。
「済まなかったね。旅人さん。色々あってね。今の時期は皆、よそ者に神経質になっているんだよ。
だから、大目に見てくれって訳でもないけど……余りうろつかないで欲しいね」
「ああ、分かった。だけど……」
「とっとと村を立ち去る事だね」
ふらつきながら立ち上がった半オークの顔は、青痣で腫れ上がっている。
「……待て、リネル」
アリアが進み出た。凛々しくも厳しい貴族の声音には、聞く者を従わせるような力が在る。
「如何にも怪しげな奴ではないか。このような時期に旅人だと?」
判断に意を唱える女剣士を眺めて、村長はやや不快そうに眉根を寄せた。
「結構、いるじゃあないか?」
村人たちがざわついている。興味深そうに成り行きを見ている他の旅人もいた。
衆目の前で意を唱えるのは良くなかったか。村長に挑戦するようなものだ。
失策を悟った女剣士は、村長に歩み寄ると囁く程度の声に抑えて改めて話しかけた。
「今の時期に入ってくるか?小競り合いが始まってから、およそ二十日間だ。
近隣にも知れ渡っていよう。旅人なら物騒な土地なら迂回するものだ」
女剣士の態度が変わった為、村長もやや丁重な態度に戻って考え込む。
「何言ってるんだい?何人かは今もやってきてるだろう」
「地元の者でもなければ、顔見知りでもないのに?
足止めされてるか、我らとて事情がなければ立ち去っている」
アリアは言葉を続ける。半オークを睨む目は冷たく、鋭い。
「しかも、半オーク。怪しいぞ。貧しい旅人にしては、かなり良い武器を持っている。
履物も良い鹿革の長靴。吊るしておくべきだ」
リネルは、視線を宙に彷徨わせた。
云われてみれば確かに一理あるようにも思えた。
しかし、元より赦免する心算の相手だったし、皆の前で意を翻すのも拙いように思える。
それに何より、ただの旅人だとしたら、吊るしてしまえば寝覚めが悪い。
「もう決めたことだよ」
村長の言葉は頑なではなかったが、女剣士も敢えて重ねて主張するほどに己の意見に拘泥している訳ではない。
所詮、河辺の村はアリアの故郷でもなければ、領地でもないのだ。
「なら、好きにするがいいさ」
二人の会話を息を飲んで伺う半オークを一瞥してから、アリアは首を横に振った。
素早く踵を返した女剣士をエルフの娘が追いかける。
空き地の外へと向う二人の娘を眺めていたリネルだが、やがて溜息をついてから半オークの旅人へ向き直った。
「俺は……その」
何か言いかけた半オークの旅人の胃が大きな音を立てて鳴った。
蓮っ葉な笑い声を上げた村長は、半オークの前に立って歩き始めた。
「ついてきな。迷惑を掛けたんだ。飯くらい食わせてやるよ。
それと誰か、マール婆さんを呼んできてくれ!」
年増女の怒鳴り声に、村人の一人が慌てて薬師の婆さんを呼びに走っていった。