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土豪 20

 背後の闇の彼方から狼の遠吠えが響いてきた。それがひどく近くに感じられて、オーク小人のレ・メムは、背筋を総毛立たせながら曠野を必死に駆けている。

岩陰に滑り込むと、薄い唇を舌で舐めてから、周囲の疎らな潅木や岩肌を脅えた目付きで見回した。

狼は影も形も見当たらない。丘陵地帯を彷徨う野犬か、或いは狼か。

先刻から、段々と近づいてきているかのように思えるのは、気の責だといいが。

不安そうに額の汗を拭ってから腰の水筒から一口を飲むと、ようやく一息ついた身体の震えも収まった。動きが鈍重で体躯も小柄な洞窟オーク族にとっては、狼は天敵に近しい猛獣であった。

 丘陵地帯を彷徨う狼は、森に比せば小型の類だが、時に大型の黒狼や段違いに大きな悪魔の狼・ダイアウルフが群れに混じっている事もある。オーク小人を一呑みにするほどの巨躯を誇るダイアウルフは、武装した戦士の一団さえ蹴散らしもする。ゴブリンの一部部族には狼を飼い馴らしてその背に乗る技能を持つ狼騎手もいるが、連中でさえダイアウルフを恐れ敬っていると言う。内陸奥深くのゴブリン部族では、狼の牙の首飾りが貨幣として使われているが、ダイアウルフの牙となると黄金より価値が在ると見做されて、付けている者は英雄として扱われる。

 そうゴブリンについての講釈をレ・メムに語ってくれたのは、部族に立ち寄ったオークの吟遊詩人だった。五年ほども昔の話だ。旅の吟遊詩人は、オークの強力な部族が丘陵地帯で力を蓄えているとも言っていた。

部族の『おっきなオーク』たちに助けを求めるのだ。

そして力を併せて悪い人族共や生意気なゴブリン、嫌な連中のホビットをやっつけて、辺境を俺たちオークの手に取り戻さないと。

託された使命の大きさに胸を震わせれば、疲れ切ったオーク小人の蟹股の足にも再び力が戻ってくるように感じられた。

休憩を打ち切ったオーク小人は、再び立ち上がって丘陵の狭間にある隘路を歩き始めた。


 それにしても、もう随分と歩いている。

そろそろ『おっきいの』の土地に入っていても不思議ではないはずだが……

不安を覚えながらも、歩を止めなかったオーク小人の目の前で、唐突に隘路が終わりを告げた。

丘陵の狭間を抜けると、目の前にはなだらかな盆地が広がっている。

彼方の丘陵の麓に柵を張り巡らせた木造の建築物が、次の隘路の入り口に鎮座しているのをオーク小人の夜目は捉えていた。

きっとオーク族の前哨だろう。砦らしき建物の手前には泥だらけの小さな小川が流れている。

オーク小人は、腕を開いて大きく息を吸った。

枯れた曠野ではあるが、狭間の澱んでいた空気とははっきりと味が違った。

深夜にも関わらず『おっきいの』の土地に入ったのが分かった。

彼方に見える小さな砦の胸壁には、オーク族が信仰する偉大なる闘いの神ゾンバの漆黒に青き炎の旗が翻っている。

「おおう!おおう!」

こみ上げてくる喜びがレ・メムを駆り立てた。

興奮したオーク小人は、拳を振り回して歓声を上げて緩やかな岩場を駆け下りていく。

丘陵地帯を抜ければ、オークの村や砦が幾つもある

此処まで来れば、目的地はもう目と鼻の先だった。




 刹那、オーク小人の間近で夜の闇を引き裂いて狼の遠吠えが響き渡り、同時に目前の岩陰から黒い影をした幾つもの影が這い出てきた。

レ・メムは急激に立ち止まった。冷や汗が全身からどっと吹き出した。

狼の群れは、闇夜にも鈍い光を発している黄玉にも似た瞳をオーク小人に向けて、低く唸りながら近づいてくる。

餓えているのか。肉は痩せ細り、うっすらと肋骨が浮き出ている。

「……うそ」

慌てて屈みこんで石を拾い上げ、一番近い狼へと投げつける。

簡単に躱した狼は、牙の間から涎を垂れ流しながら黄金色の眼光も鋭くオークを射抜いた。

狼の遠吠えが再度、響き渡った。一斉に狼の群れが動き出した。

「レ・メムは、美味しくないぞ。あっちに行け!こないで!」

叫んで身を翻したオーク小人は、慌てて斜面を駆け上り始めた。

いまや狼たちは明確にオーク小人を獲物と見定めたようだった。

「ひっ……ひい」

追われているオークの背後から激しい息遣いが耳障りに響いてきた。

夜の闇が恐怖を助長する。

飛び掛ってきた灰色の毛皮をした狼をオーク小人は襤褸のマントを払って退けた。

布に噛み付いた狼はそのままマントをズタズタに裂いてしまう。

食い千切られるマントを見て、恐怖に目を見開きながらオーク小人は駆けた。

先ほどの岩場だ。逃げ込めそうな間隙があいた大岩があった。

必死に動かす足は、がくがくと震えている。

「はあっ、はっ」

行く手に狼が姿を見せて、オーク小人に飛び掛ってきた。

小さな槍を握り締めて近づけまいと振るうオーク小人のその腕に深々と黄ばんだ牙が食い込んだ。

「うあああ!こ、こいつ!」

痛みと恐怖に発狂寸前の状態に陥りながら、リ・モルは喚いて槍を突き出した。

肉を幾らか食い千切りながら、狼が素早く離れて威嚇するように吼え猛った。

激痛が腕を走りぬいた。

反対側から別の痩せた狼が飛び掛ってきた。太股に喰らい付く。

「ぎゃッ……!」

目盲滅法に振り回した槍の青銅の穂先が狼の腹に突き刺さった。

ぎゃんと甲高く鳴いた狼を振り切って、レ・メムは大きな岩と岩の狭間へと逃げ込んだ。

行き止まりにはなっているが、入り口は狭くて一方通行。背中を守る必要はない。

後ろから狼が追ってくるが、レ・メムは入り口に向かって槍を振りかざして近づけまいと威嚇する。

動き回っているからか、呼吸は乱れて出血も激しい。

用心深く槍を構えながら、千切れたマントの切れ端を口に咥ええるとレ・メムは傷口を結わいた。

狼がまた入ってこようとする。槍を振りかざす。その繰り返しだった。


 冷たい夜気にオーク小人の小さな身体は、何時しか冷え切っていた。

降ってきた水滴がレ・メムの鼻に当たる。

雨は降らなかったが、川から上がる水分が結露して岩肌を濡らしていたのだろう。

やがて朝日。丘陵地帯に特有の朝靄が漂っていた。

睡眠不足と疲労でふらふらになりながら、オーク小人が槍を振るって狼を追い払っていると、狼の群れの後ろで佇んでいた一際、大きな一匹が急に彼方へと振り返った。

そのまま、大きく吼えると駆け去っていく。

なんだ?

逃げていく狼の無念そうな鳴き声の中、霧にも似た白い幕の彼方から声が近づいてくる。

オークの言葉?

オーク小人がずるずると地面にへたり込むのと、数名の武装したオークたちが朝靄の中から姿を見せるのはほぼ同時だった。


 それは、オーク族の砦からやって来た斥候たちだった。

「昨夜は狼共が騒いでいたからな」

「おい、なんだ?ありゃ」

「『ちいさいの』が一人、怪我しているようだぜ」

一際、魁偉な体格のオークを中心に茶色い革服を着込んだオークの一隊が、傷つき、地面に崩れ落ちたレ・メムが横たわっているのを発見して、声を張り上げて狼を遠ざけながら、駆け寄ってくる。

「やっぱりだ!見ろ、旅のオークが襲われていたらしい」

倒れているレ・メムを取り囲んで跪くと、手を差し伸べる。

「鹿でも追ってるのかと思ったが……よく頑張ったぜ」


「おうい、大丈夫かよ」

「安心しろ、ちいさいの。もう大丈夫だぜ。しっかりしろ」

飾り気の無い革服のオークたちは、オーク小人を抱きかかえると肩を叩いたり、水を飲ませて口々に元気付けようと言葉を掛けた。

だが、夥しい出血はレ・メムの小さな身体に秘められた活力を殆ど全て奪っており、蒼白な顔色には明白な死相が浮かんでいた。

「あ、あんたたちは……」

「俺たちはルッゴ・ゾムさまの一団だぜ」

オークの戦士の返答を耳にして、レ・メムの口元にぎこちない笑みが浮かんだ。

最後の力を振り絞って、忠実なオーク小人は託された任務を果たそうとする。

「おいらたちの……部族は……人族と……争って……」

何かを言い残そうとしていると悟って、抱きかかえている顔に傷のあるオークも肯いた。

「追われてきたのか。安心しろ。猿共は、此処には入ってこれねえ」

「……おいらの酋長の。えらいグ・ルムさまが捕まった。たすけ……助けてくれ……」

顔に傷のあるオークの顔が緊張に引き締まった。黙ってオーク小人の言葉に耳を傾ける。

「河辺の村に今も虜に……お願い……助けて……グ・ルムさまを」

言葉を区切って、オーク小人は力なく崩れ落ちた。

「おい、しっかりしろ!」

オークが肩を揺するが、レ・メムは既に事切れていた。

顔を見合わせてから、難しい表情をしつつ顔に向こう傷のあるオークが立ち上がった。

「如何やら、丘の向こう側で一戦あっただな」

考え込んでいる向こう傷のオークに魁偉な体格の隊長が唸りながら相槌を打った。

「多分、大負けだろうな」

「……で、如何するんです?ゾム」

呼びかけられた巨躯のオークは、向こう傷の問いかけに直接は応えなかった。

「こいつぁ、最後まで主人の事を心配していたな、大した忠誠心だ。

連れ帰って、戦士の墓に丁重に葬ってやろう」

驚くべき怪力で死体を片手で抱き上げると、残った片手でポリポリと頬を掻いて苦く笑った。

「とんでもなく厄介なことを託されちまったなぁ」



 薄暗い旅籠の個室でエルフの娘が目を醒ました。

時刻は真夜中をとうに過ぎているだろう。

闇の中では、同室の女剣士の安らかな寝息だけが響いていた。

もうじき夜明けでもおかしくないと、エルフの感覚が告げている。

嫌に寝汗をかいていた。今宵はどうにも寝苦しくてならない。

エルフの娘は枕元を探って水筒を探し出すと、ぬるい水を口に含んだ。

水筒を仕舞い、切なげな溜息を洩らして天井を仰いだ時、隣から声が掛かった。

「眠れないのか?」

びくりと身体を震わせて視線を向ければ、何時の間にやら友人の女剣士が起きていた。

黄金の輝きにも似た黄玉の瞳に深い光を湛えて、じっと見つめてきている。

「……うん、少しね」

エルフ娘が苦笑して告げると、少し考えてから己の寝床の上をとんとんと掌で叩いた。

「此方においでよ、エリス」




 二枚の毛布を重ねると、その中で潜り込んで向き合った姿勢で横になる。

女剣士がエルフを見つめる眼差しは、とても優しく、そして柔らかな瞳だった。

敵とは言え、何十という人の命を奪った猛々しい戦士のものとは思えない。

吸い込まれそうに静かで穏やかだった。

穏やかさと荒々しさの同居している人格はとても不思議に思えて、エリスは見つめているうちにふと口を開いた。

「何故、平気で人を殺せる?」

云ってから、訊ねるようなことではないと気づいて目を瞬き、焦るエルフだが、この瞬間の女剣士はある意味では失礼な質問を許容する気持ちになっていたのだろう。

「平気なように見えるのか」

微笑んでから、考え込むように少し首を傾げつつ、言葉を続けた。

「ふむ。だけど、君と私は違う人間だから、聞いても参考にならんと思うよ」

「あ……ごめん……変なことを聞いた」

気まずそうに口を濁すエルフの娘をやはり静かな眼差しで見つめると、女剣士は穏やかな口調で語りかけた。

「君の心を悩ませている亡霊について聞きたいな」

「……亡霊って」

戸惑うエルフ娘に、黒髪の女剣士は重ねて問いかける。

「どんな奴だったのだ?」

口ごもっていたエルフ娘は、しかし、ぽつぽつと心の襞に引っ掛かっていた冷たい塊の事を語り始めた。


「……見逃した。しかし、それが仇になった」

心に引っ掛かっていたオークとの一部始終を話してから、顔を醜く歪めてエルフ娘は吐き捨てた。

重苦しい気持ちは、しかし、全てを語ってもエリスを楽にはしてくれなかった。

「死んで当然の奴だった」

エルフの敵意に満ちた言葉は女剣士の気に入らなかったようだ。

微かに眉を顰めて何やら考え込んでいたが、

「それは誰が決める?君か?」

危うい話をしている。その言葉にエリスの瞳は怒りに燃えている。

もしかしたら、友情が決裂するかも知れない。

女剣士は、唐突にエルフの華奢な身体をギュッと抱き寄せた。

「えい」

「わ」

抱きしめられて狼狽するエルフ娘ではあるが、しかし、嫌ではないので少し微笑んで肩に顔を埋めた。

「君にとって殺すだけの正当な理由が在るのと、死んで当然の人間かどうかは別の話だ」

小さく低いが真剣な響きの声だった。

アリアの言葉にエリスは再び顔を歪めたが、女剣士の見るところ、蒼い瞳には脅えの色が混じっていた。良心の呵責に苛まれているのだろう。

女剣士なら肯定してくれる。少なくとも慰めてくれると思っていたから、エルフ娘はかす

かに驚いて、途方に暮れる。

「思うに、殺した誰かが別の誰かにとってよい父親で会ったり、恋人であったり、誰かにとっての大切な人間である可能性が君の心を悩ませているのではないか?」

びっくりしたように目を瞬いてから、女剣士を見つめ直し、それから視線を逸らした。

「そんなことも考えずに殺していると思っていたか」

「考えたら殺せない……と」

エルフの言葉に女剣士は口元にだけ笑みを浮かべながら、しかし、瞳は哀しげな光を湛えていた。

「それでも殺せる人種もいる。だから君には分からないと云ったし、分かる必要もないとも思う」

暫しの沈黙が二人の間に立ち込めた。

「一度、血に穢れた手はもう拭えない。殺人ののりを踰えたのだな。エリス」

ぽつんと呟いた女剣士にエルフが挑むように訊ねかけた。

「……貴方はどうなの?」

やや好戦的な口調、互いに嫌い合いたくないのに嫌な緊張が二人の間に走っていた。

「そうだよ。私も君と同じ殺人者だ」

「わたしは……」

エルフの娘が脅えたように絶句して、言葉につまった。

「違わない。己の悪と罪を直視し、受け止めたまえよ」

少し考えてから、エルフ娘は女剣士の腕から逃れると途方に暮れた顔で俯いた。

「そうだよ。私はそれが恐ろしい」

女剣士は、ずいと身を乗り出した。エルフの娘を力の強い腕でしっかりと抱きしめる。

女剣士の体温が伝わってくる。今までは辛い時、苦しい時、慰められると力湧いてくる熱だったが、今のエリスには心慰める力にはならなかった。

「思うに戦場で相手を斃すのと、抵抗できない相手を処刑するのは違うのだ」

エルフの髪を撫でながら女剣士は呟いた。

「前者は讃えられるべき勲で、後者は恥ずべき行い所業なのだろうよ。

どんなに正当化した理由をつけようが、多分、人は心の奥底でそれを知っている。

誰も自分の良心からは逃げられぬ」

「私は咎を負ったと?」

エルフの手は何時の間にか震えていた。アリアがエリスの手を優しく強く握り締めた。

「身を守る為に殺すのは罪ではない。だが、それ以外の殺人は……

苦しんでいることが答えだろう。君自身の心が、答えをすでに出している」

「罪を犯したのが恐ろしいか?」

女剣士の問いかけに、エルフは答えられなかった。答えなくなかったのかも知れない。

真面目な問答よりも、本当はただ心の慰めが欲しかったのだ。

「なにか、嬉しそうだね。アリア」

「……嬉しいかも知れない。同じだから。私は殺人者だったけれども、君も同類になった。

そう、それを少し歓んでいるかも知れない」

「私はッ……」

「うん、少し嬉しい。君の気持ちは嬉しかったが、私のような血塗られた人間と結ばれていいのかと気後れを抱いていた。今なら愛してもいい。慰めようか?」

呆気に取られてから、エルフの娘は冗談だと受け取って溜息を洩らした。

「最低の口説き文句だよ」

怒るよりも虚脱したエルフを見て女剣士はくつくつ笑ってから、急に疲れた表情で溜息を洩らした。

エルフの娘は蒼い瞳を不可解そうに細めて、何か言いたげにしている。

「冗談は兎も角として、人は簡単に死ぬのだ。

己が人を殺せることを知ってしまった。君はそれに戸惑っているだけだ。

大丈夫だ。いずれは慣れる。何とも思わなくなる」

女剣士の言葉に、エリスは落胆を隠せなかった。

「……それはそれで嫌だよ」

アリアは余りにも厳しい人間だと思う。己の罪を受け止めろ。強くなれ。

云ってる事は尤もではあるけれども、現実に苦しい今、エリスはそんな言葉が欲しいのでは無かった。慰めて欲しかったのだ。

「だからと言って開き直る必要も、必要以上にびくびくする必要もない」

「君がなるたけなら他者を傷つけたくないと思っていることも、善良な人間であることも私がよく知っている。

君は変わらん。私が保証する。

君が仮に君を許せなくても、私が君を許すよ。私は君を信じる。それでは足りないか?」

多分、共感と慰めがエルフ娘の求めていた言葉なのだろう。

砂漠の砂に水が染み入るように、女剣士の言葉はエルフ娘の心に響いた。

最初からその言葉だけを掛けられていたら、エルフの心は女剣士に依存していたかも知れない。

涙が頬を零れ落ちる。

袖口でぐしぐしと拭いてから、エリスは深々と息をついた。

「それを聞きたかったのです。ありがとう……すこし落ち着いた」

「夜明けまでには、まだ少し時間がある。寝ているといい」

言いながら、女剣士は掌でエルフの翠の頭髪をクシャリと撫でてくる。

日向にまどろんでいる猫のように、エリスは蒼い瞳を細めた。

「うん」

期待した答えはくれなかったが、真摯に対応してくれたし、思いやってくれているとは示してくれたので、満足する。

女剣士の方は、実際には結構、本気で慰める為に受け入れてもいいと思っていたが、エリスは、アリアが横にいることに安心したのか。

胸に顔を埋めて時折、僅かに身動ぎしていたが、やがて、すぅすぅと穏やかな寝息を立てて夢の世界へと旅立っていった。


 女剣士は暫らくエルフの娘を眺めていたが、やがて身体を起こすと漆喰の壁に背を預けた。

「それにしても……」

東国の歴戦の戦士達すら恐れた冷たい微笑を口元に貼り付けて、黄玉の瞳を愉悦に細めた。

「無垢なものが穢れていく姿というのは……どうしてこうも美しく儚いのだろうな」

エルフ娘の蒼い瞳には、それまで窺えなかった翳りが宿っていた。

女剣士は朱色の舌先で血のように紅い形のいい唇をちろりと舐める。

短刀を取り出すと自身の指の先を僅かに切り裂いた。

エリスの唇に指を這わせて血化粧をすると

「君に血の祝福を」

そっと口づけして身を起こすと、それから片膝に腕を乗せた姿勢で壁に寄り掛かったまま、陽の光が差し始めてエルフが起きてくるまで、刃のように鋭い眼差しで延々と闇を見つめ続けていたのだった。



 クーディウスの斥候である四騎がパリトーに帰還した頃には、東の空はとうに明るくなっていた。

厩番に騎鳥と騎馬を渡すと、郎党の二人は疲れ果てた様子で己の住居へと戻っていく。

「ふぅ、疲れた」

「一杯やってから、さっさと寝るか」

別れた部下たちの背中を羨ましそうに見つめる豪族の娘フィオナも疲労困憊していたが、まずは父親に首尾を報告せねばならない。

生欠伸しつつ母屋へと向かっている途中、郷士の娘リヴィエラが捕虜のオークを納屋へと引っ張っていく姿を目にした。

「さっそく尋問?熱心だね」

フィオナの疲れ切った表情に、リヴィエラは頷きを返してから、通りかかった召使いに捕虜の縄を預けた。

「待って、フィオナ。オーク連中の企みについてなのだけど……」

「うん?」

怪訝そうな豪族の娘フィオナに郷士の娘リヴィエラは小声で話しかけた。

「思うのだけど、辺境と言う言葉に騙されてないかな。

全域の征服ではなくて、此の一帯を征服する予定で辺境征服って言葉を使っているとか」

「ふうむ」

肯いた豪族の娘フィオナ。彼女自身もオークの動きには些か、思うところが無いでもないのだった。

「そう云えば村長の云っていた例の女剣士。何か知ってるのか。彼女も気になるな」

フィオナの何気ない呟きにリヴィエラが反応した。

「竜の誉れ亭だったかな……旅籠に泊まっているらしいね。

聞きに云ったら。何かを掴んでいるのなら教えてもらおうよ」

「……だけど、会いたくない」

豪族の娘は、酸っぱい牛乳でも口にしたかのような顔で首を横に振った。

闊達な性格にしては珍しく、どうやら件の女剣士に苦手意識を覚えているらしい。

郷士の娘リヴィエラが肩を竦めて、

「なら、私が聞きにいこう。何時までいるか分からないし」

何故か慌ててフィオナが口を挟んだ。

「いや、必要ないよ。必要ない」

理由も無いのに、何故か郷士の娘と例の女剣士にこれ以上、会って欲しくなかった。

全くの勘で根拠もないのだが、何か嫌な予感がするのだ。

「必要ないよ。それよりも尋問をお願いします」

何故か焦っているフィオナに、リヴィエラは戸惑いながらも肯いた。

「三度も云わなくても、分かったよ。

さて、尋問しますか。何か分かったら直ぐ報告するよ。そちらもオークが大規模な攻撃を企んでいるかも知れないことをお父上に伝えていてね」

「うーん。さて、どうやって説明したものか。一緒に父さんに報告してくれると助かるのだけど……手伝え」

唸った豪族の娘は命令調の語尾を付け加えて幼馴染の腕を掴んだものの、きっぱりと拒否される。

「駄目、自分でやりなよ。跡取りなんだから」

「……いけずめ」

ぶちぶち言いながら父親のもとへと向かう豪族の娘フィオナを見送ってから、リヴィエラは納屋の一つへと向かった。


 猿轡を噛まされていた穴オークの頭領グ・ルムは、納屋に入った瞬間、目を大きく見開いた。

納屋の土床や土壁には血痕が飛び散り、はっきりと残っていた。

「初めに言って置くけど、私は優しくない。知ってる事があるのなら、今のうちに喋ってほしい。

他に幾人もの捕虜が居る。裏は取れるんだ」

穴オークの酋長は汗を掻きながらも、強い目つきで金髪を背中に編みこんだ人族の娘を睨みつけた。



「ふむん、自分は喋らないと確信している。違うかな?」

頑丈な椅子にグ・ルムを坐らせ、手際よく手足を縛り付けながら、リヴィエラは言葉を続けた。

「残念ながらも、どんな人間にも折れる限界はある。

だけど素人は、ただ心の折れる境界線と命の消える境界線の区別もついていない。

痛めつければいいと思っている素人は直ぐ死なせてしまう。私は違う。

其処を見定める事ができるのが玄人だと思っている」

完全に拘束してから、そう云って郷士の娘リヴィエラは立ち上がった。

縄の締めは痛くないのにまるで動く事ができない。

グ・ルムは内心で不安を覚えながらも、嘯いている若い娘を鼻で笑った。

「女子供を浚った盗賊や奴隷商人、オーク、ゴブリン。

悪党は大抵、奪った人質や財貨の隠し場所をそう易々と吐こうとはしない。最初は慣れなかったよ。

大勢のろくでなし共と付き合ってきたけれども、皆、最後には話してくれた。

一人として沈黙を守りきった子はいない」

リヴィエラは、目の前を横切って、箱から奇怪な形状の刃物や細い錐。鋸。留め金などを出し始める。いずれもどす黒い血痕がこびりついていた。

「お前は……まあ、蛮族だけど、悪党ではない。

私たちと同じく、お前もまた、自分たちの仲間と女子供の為に戦っているのだろうと思う。

だから、出来るだけ苦しめたくはない。己から喋る気はないか?」

猿轡を取られたグ・ルムの口元に、舌を噛めないように金属製の奇怪な口枷を無理矢理に嵌めていく。

此れで穴オークの酋長は喋る事は出来ても、自殺は出来なくなった。

「糞ったれめ……地獄に落ちるがいい!」

悪し様に罵られても郷士の娘は顔色一つ変えなかった。

肩を竦めた金髪の娘に、激昂したグ・ルムが顔に唾を吐きかけた。

唾を指で拭い取ると焼けた石を火箸に挟んで近寄って来た。

「気が変わったら早めに降参してくれよ?私も余り気が進まないんだから」

そう嘯きながら、長い金髪を背中に編みこんだ娘は、身を乗り出してきた。

焼けた石が腹の上に乗せられた瞬間、穴オークの酋長はひゅおっと大きく息を吸い込んだ。

次の瞬間、劈く絶叫がのどかな館の早朝の静寂を鋭く切り裂いた。




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